第8話 無口な記憶
なんてことはない、純粋な嫌悪感。自分自身への、何とも言いがたい、絶対に受け入れられないという確信。
身のうちから沸き上がるのは、自分自身を不潔と感じる感情。それは制御しがたく、なによりも俺自身が困惑していた。
腐った肉の臭いで妙なことを思い出した。
昔祖母の家に行ったときに、風呂場でカビの臭いがした。心優しい祖母が、孫の俺のためにお膳の上げ下げまでやってくれた祖母が、祖父の死後めっきり力が抜けて、変わらない笑みのまま不潔な風呂場で俺を洗ってくれた。
背中が大きくなったね、と涙ぐみながらゴシゴシと赤くなるまで俺の背中をこすった。老人とは思えない剛力で、背中の皮膚がピリピリと痛むほどだった。感覚が鈍くなったのか、力加減のおかしさに気づかないらしい。
調子が狂う。夫であった祖父の死を忘れられない祖母は、俺の一挙一動に感情を揺さぶられるようで、くだらない息づかい一つにも故人の面影を求められる。
俺はそのときもう、祖父への愛着はなくしていたというのに。
カビだらけの臭い風呂場に、ゴミが散乱した居間。綺麗好きだった祖母の見る影もない。祖父という生き甲斐をなくして、なにかにつけて回顧にふけるしかやることがなくなったのだろうか。
父も母も、そんな祖母を避けるようになった。可愛がられているからと、いつも俺は一人で祖母の家に向かわされる。これじゃあまるでババ引きじゃないか。すべてカードが出尽くしてしまって一人だけ手元に残されたジョーカー。
きっとこれはなにかの罰なんだろう。あのころからずっと、俺はろくな目に遭わない。母親はいつも俺を憎んだ。気持ちいいことだけして責任も負わずに逃げた俺の父を憎んでいて、俺の存在も許せなかったらしい。
そうか、これは悪夢なんだ。錯綜する記憶に慣れきってしまった俺はそう思いこんでなんとか精神の均衡を保とうとした。だって、俺の父親はある時期までは俺と一緒に暮らしていて、借金抱えて一家で夜逃げして——あれ?
俺はいつから父親と離れた?
父親の記憶は、なぜ存在しない?
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