第7話 侵食

 頼まれたわけでもないのに、俺はそのに触れた。心がしん、と冷える気がした。


「なぜ思い出せない」


 自分の口が動いていた。口の動きに呼応した言葉が、一拍遅れて耳に入る。


「思い出す? なにを」


「己が何者であるか、本当に思い出せないのか」


 自分の声との問答。思い出すべきものが思い当たらない以上、どう努力して思い出せばいいのかもわからない。


「それほど、か——」


 諦めたような自分の声が聞こえた。その声は先ほど感じた心の冷たさに似て、冷酷な色を帯びてくる。


「ならば、仕方ない。荒療治をさせてもらう」


 荒療治、だと


 ぐぁあぁぁああぁぁぁぁあッ


 腹が、腹が痛い。突き上げるような痛みが、一定間隔で繰り返される。これは、腹を下したときの痛みとは、どこか違うような……?


 んぐ……あぁ


 今すぐにでもお腹を両手で抱え込んで地べたに片膝をつきたいのに、妙な引力がそれを阻害する。地球の中心に向かう、自ら立ち続けることを放棄したいという要求を、ふわりと相殺する何かがある。


 な……なんなんだよ、これ!


 上向きの力に八つ当たりするように、勢いをつけてしゃがもうとすると、


 腕、首、胴体、股間に、皮が剥ける壮絶な痛みが襲った。喉になにか冷たいものが食い込み、その唐突さに腹を凹ませて咳き込んだ。


 そして、自分が先ほどから思考するだけで言葉を発せていないことにも気づく。


 口のなかが渇いていて、唇の両端に切り傷の痛み。猿轡さるぐつわだろうか。人の口に布を噛ませなにも言えないようにする拷問。そして、冷たく肉に食い込んでくるこれはワイヤーだろうか。脇、股間、そして鳩尾みぞおちにくぐらせるようにしてそれが恐らくは天井に繋がっている。


 俺は、吊るされているのだ。なぜか知らないが視界だけが闇のまま。そして——


 ウグッ


 鳩尾に衝撃。口から生温い何かが溢れる。俺は、殴られた?


『まーだ生きてやがったか。早く死ねよ、お前』


 誰だ、誰の声だ。俺の記憶にはない——


 ズチャ、と音がした。鼻の奥に腐敗した肉の臭いが充満する。頬と足の裏と腹に、冷たい地面の感触がする。よほど体が柔らかくない限り、ありえない落ち方・・・をしている気がする。


 まさか————


『かつて黒人はその身が腐るまで木に吊るされていたらしいな。奇妙な果実と歌にも歌われた』


 俺はまた、首と胴体を落としてしまったらしい。




 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る