第4話 カスティラ

 カステラと呼ぶかカスティラと呼ぶかで父と揉めたことがある。

 揉めたと言っても些細なもので、父と俺とで呼び方にこだわりがありその言い争いを母が笑いながら軽くとりなすといった、家族団欒の象徴でもあった。

 そのカステラが、目の前に置かれる。顔のない「彼」が、カフェの手慣れたホールスタッフのようにそれを俺の顔の前にそっと差し出す。ただ一つホールスタッフと違うところは、地べたにそれを置かなければいけないことで、彼は跪いて、カステラの乗った皿をかたりと置いた。

 彼の顔は真っ白かと言われるとそういうわけでもない。説明が難しいが、電脳世界でそこだけがバグになったかのように、彼の顔だけが認識できない。俺は本当に、自分の加害の記憶を消し去ったのがわかる。

 カステラはとてもいい香りで、俺の食欲を刺激した。五体満足の人間のようにグルグルとお腹が鳴ったが、その音は遠く、ずり落ちた上半身から聞こえてくる。

「俺が、憎いか」

 返答なんて期待せずに、彼に話しかけてみた。

「憎い……?」

 なんのことかわからぬという風に彼は首を傾げてみせた。どういうつもりだ、さっきはあれほど俺を痛めつけてくれたというのに。

「憎いからこんなところに呼び出したんじゃないのか」

「そんなわけないよ、何言ってんの」

 こいつ、自分で復讐に手を染めていることを理解していないのか?

 腹の底から悪寒が這い上がってくる。二重人格、あるいはこれも、このあと絶望に叩き落とすための前菜とでも?

 彼をそこまでさせたのが俺自身とはいえ、これは幾らなんでも酷すぎる。

「とにかく、そのカステラ食べてよね。約束だよ」

 まるで! まるで俺たちがまだ親友だったときみたいな声で喋りかけるな!

「——! どうしたの海斗、そんなに苛立って」

 ちくしょう、そんな透き通った瞳で俺を見つめるな。自分が俺に対してやったことがわかっているのか!?

 ——と叫ぼうとして、ハッと押し黙る。

 まるでブーメランのように、喉元まで出かかったその言葉が自分の魂のなかで暴発した。

 キョトンとしたままの彼を置いて、俺のしゃれこうべはドロドロとしたなにかに呑まれていく。触手の類だろうか、舐め回すような触り方で俺の頭蓋を掴んだそれは、俺を確かに地中へと引きずりこんでいく。その証拠に、俺の視界はどんどん下がり、やがて彼の靴さえも見えなくなった。

「今度はどんな罰を強いられるんだろうな」

 自分の立ち位置への苦笑か、贖罪も謝罪も弁解もできない自分への嘲笑か、あるいは何もかもを諦めた愛玩動物の愛想笑いか。

 どうあがいても、俺は復讐の玩具からは逃れられないらしい。

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