第3話 血のない肉体

 あれほど言葉の暴力・・・・・がはびこっていたはずの空間は、静かだった。見覚えだけはあるその場所に俺は戻ってしまったらしい。家庭が崩壊した瞬間を、まるで走馬灯のように見せられて、なおも俺は死ねないのだろうか。

「俺が——悪いのか」

 自分だけ、一人、彼に責められた。主犯格は俺ではないというのに。

「……く、くははははは」

 乾いた笑いがこだまして、どことなく散っていった。不条理に強がることすら許されないほどにここは孤独だ。

 確かに、主犯格に責任を転嫁させて自分だけ助かろうという輩は憎く、醜く見えるだろう。俺は俺自身の下劣さを理解している! 家族のために、という名目で、俺は幼なじみの精神を破壊した。彼と自分しか知らない彼の弱点を、一番苦しむ方法で突き刺した。

 敵を欺き、自らが罪をかぶることで主君を守った裏切り者・・・・は、主君の手によってひと思いにトドメを刺された。通じていたなどと悟られぬように口汚く罵り合いながらも、磔の刑に処せられた罪人が長く苦しまないように、主君は裏切り者の心臓を射抜き、楽にさせてやった。

 それさえも、俺はしなかった。俺は、俺の仲間を一番残虐な方法で殺した。


 彼が虐めを苦にして死んだと知ったのは、十年も後のことだった。俺は、新幹線に乗って故郷を離れたときから「彼」を殺した記憶を封印した。意図して思い出さないようにした。

 父の事業が失敗し、多額の借金と家のローンが我が家を責め立てていた。一刻も早く遠くに逃げなければならぬ事情も知らずに、俺は田畑やビル、近所では見ないショッピングモールが車窓を撫でていくのを見つめるしかなかった。

 身元が嘘でも住まわせてくれる家主など、普通は存在しないし存在してはいけないのだけれど、俺たちはそれでも雨風しのげる場所を見つけるしかなかった。

 治安の悪い地区の、訳あり物件。

 それが俺の帰る場所になった。


 そういえば俺はなぜこんな場所にいるのだろう。地獄だとしても死んだ覚えはない。

 ここに来るまでの記憶を思い出そうとすると、脳が脈うつように痙攣した。次の瞬間、見上げていた自分の胴体が、ゆっくりスライドして、音をたてて落ちた。

 もはや肉片になりかけた人体から、本来流れ出るべき赤い液体は一滴も現れない。

 今度は痛みさえも感じなかった。

 閃光が目を覆い、次にまぶたを開くと目の前に彼がいた。

 俺が記憶から抹消したせいで、名前さえ思い出せない彼がいた。

 彼はなにか言いたげに口を開いたが、その内容は耳に届かない。

 今度は無音の責め苦か。

 俺はそう思った。

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