5-2
目覚ましに好きな曲を設定すると、その曲を嫌いになることがあるらしい。
しかし、運良く私はそれに当てはまらなかったようで、何回、何十回と、安らかな睡眠を阻害され続けているが、未だそんな兆候は表れておらず、今朝もまた然り。
私は私と音楽の趣味が合う。つまり、彼とも趣味が合うということ。
ライブとかフェスって、どんな感じなんだろ。いつか、行ってみたいな……。
って――あれ……もう、そんな時間?
目を瞑ったまま、透き通る中高音を頼りに枕元を弄るも、謎の毛玉に阻まれた。
「まるたん、どいてー」
……眩しいし、暑い。
全開にされたカーテンが招く大量の光と、何者かによって停止させられたエアコン。
眠気まなこに捉えた空模様は、昨日とは打って変わった快晴で、絶好のお昼寝日和。
部屋の温度を26度くらいに調整して、お昼過ぎまでゴロゴロしていられれば、
どれほど幸せだろう。
だが、今日に限り、そういうわけにはいかないのだ。
ありがとう、お母さん。でも起こし方が雑。
まるたんももっと涼しい部屋行けばいいのに。
香箱座りでくつろぐ愛猫とシーツの間に手を滑らせ、まずは静寂を取り戻す。
次に、じーっととこちらを見つめる瞳を無視して起き上がり、背筋を一伸び。
確認したディスプレイに浮かぶ時刻は9時45分。
5分おきに設定したスヌーズの、三度目で目が覚めたようだ。
しまった。……
集合時刻は10時。まだだいぶ時間に余裕はあるが、彼の性格を鑑みれば、
早く出発する面倒くささよりも、ぎりぎりに到着する面倒くささを嫌うはず。
なにしろ今日のダブルデートは、私たち全員の今後に絡む重要な一戦。
早く着く分には全く損はないが、また変にニヤニヤしていないかが心配である。
エールでも送ってあげよ。
冷気漂うリビングダイニングに移動する最中。
既に数件のメッセージを溜めていた三人用のグループラインへ指を当てがうと、
そこへ不意打ちで届いた一件に、つい足が止まってしまう。
もしかして今起きたとか言わないよね!?
ゆっくり瞬きを挟み、少しだけ冷静になった頭で履歴を辿り、気付く。
あれ。滝くんまだ着いてないの?
自分の返信以前に羅列している文言は、全てemiと書かれたオシャレなアイコンから、滝慎吾と書かれたなんの捻りもない初期アイコンへ向け送られたもの。
ところが、それらは一切認知されることなく燻っていたようで、だんだんと強まる彼女の語気は、感情の変遷をよく現していた。
あ、なっちゃんか。
そっちに何か連絡来てない?
淡泊な文に滲むあからさまな落胆は、すぐさまアプリのページを切り替えさせるも、収穫はなし。むしろ、昨夜別れた後で送りつけたお礼とお詫びに既読がなかった分、私的にはマイナスだ。
「おはよ、なぎさ」
「おはよー」
「ご飯は? お昼と一緒にする?」
「んー。そうしようかな」
足元にじゃれ付く愛猫を避け、自分へ語りかける母親の声を往なす。
見えてきたテーブルには、早くも氷の入ったグラスと麦茶が用意されており、
家事の片手間にこの気遣いを披露できるのなら、もっと普通に起こして欲しかったと思うも、今は些細な事。
こっちにはなにも来てないや。電話とかしてみた?
うん、何回かは。でも全然だめ。
一応もうしばらく待ってみることにはなったけど、空気がやばいほ!
とりあえずいつもの席へ腰を落とし、現状報告がてらありふれた提案をしてみたが、やはり結果はイマイチ。遅くなりつつあるレスポンスと気の抜ける誤字は、あちらのてんやわんやを余すことなく伝えてくれた。
目下の手詰まりに、軽く汗ばんだパジャマをパタつかせ喉を潤すと、廊下の奥でまた慌ただしく声が響く。
「なぎさー、もし暇だったら買い物行ってきてくれるー?」
「え。あぁ、んー」
どうしよう。暇、じゃあないんだけど……。
かと言って、ここで私に何かできるかと言えば、何もできないわけで――……あ。
「わかったー、どこ行けばいいのー? あと洗濯ちょっと待ってー!」
そうだ、そうだよ。
確かにここじゃ何もできないかもしれないけど、ここじゃなければ?
インターホンを押して、寝坊かどうか確かめるくらいなら、私にだってできる。
家にいなかったら、きっと集合場所に向かってるってことだし、連絡がないのも、
たまたまスマホが壊れてたとか、充電しわすれたとか、そんなとこだろう。
もし事故とか事件に巻き込まれていたなら、きっとどこかで騒ぎがなっているはず。
お使いのついでに、辺りをぐるっと一周回ってこよう。よかった、隣に住んでて。
なんて軽快に家を飛び出したのが運の尽き。
――何号室か知らないじゃん!
ひとり暮らし用マンションの、エントランスと呼ぶにはこじんまりとしたオートロック扉一枚を前に、熱くなった顔を両手で覆う。
寝起きでぼーっとしていたとはいえ、こんな当たり前の事を失念するとは。
自分のアホさ加減が恥ずかしくて、どうにかなりそうだ。
「あ」
けれど不幸中の幸いか、ふと目に着いた郵便ポスト右上には、ここ最近でずいぶんと親しみの湧いた名前が差し込まれていた。
微かな希望につい口角が上がるも、まだ笑うには早く、彼の所在を得るには残る二択を掻い潜ぐる必要がある。
……301か、305。
こういうのって普通、左下から順番に並んでるよね?
順当に考えれば305だけど、301が絶対にないかと言われれば、そうでもない。
もし間違えても、許してもらえるかな? どうしよう、めんどくさい人だったら。
恐る恐る呼び出しボタンは押した。3と0も入力したし、後は1か5を選ぶだけ。
ただそれだけのことなのに、謎の緊張が右往左往する指を震わす。
「おーい」
当然、背後から忍び寄る人影を察知する余裕などありもせず。
ビクンと身体が跳ねた拍子、口から飛び出そうになる心臓を抑え、慌てて振り向く。
「あ、やっぱり昨日のペアルックだ。どしたの? そんなとこで固まって。
今日はおうちデート? に、してはちょっとスーパーへ買い物に行くような格好ね。
あー、でも、それはそれでいいのか。どうせ汗かいて着替えることになるんだし。
いやぁー、真っ赤になって迷ってるアンタを見てたら、おばさんも彼氏の家に上がる時の、フクザツな気持ちを思い出したわ――」
ラフな格好でしゃべり続ける女性の既視感に、記憶が蘇る。
管理人だよ、マンションの。
はじめは都会人にしては親切だなと思って接してたんだが、必要以上に構ってくるんで手を焼いてる。対岸にでかい家があるだろ? あそこに住んでるんだ。
本人も自分をおばさんって呼ぶから、俺もそれに倣ってそう呼んでる。
気付けば距離を詰められ、所有マンションの防音性を説く自称おばさんは、昨日の朝追いかけてきた人物で間違いない。
滝くんが逃げるわけだ。
褐色釣り目に高身長。長い金髪もなかなか圧が強い。でも、悪い人では、なさそう?
容姿もおばさんに括るには悪いくらいだし、この香りは――タバコ?
どちらかと言えば、カッコいいお姉さんって方がしっくりくるかも。
「――ま、何はともあれ。ほら、はやくあのガキをびっくりさせてやりな」
マスターキーでロックを解除。開けたドアを足で抑え、箒で私に移動を促す。
だめだ滝くん、ここに法律はない。早く引っ越した方が――
「じゃ、頑張れ彼女。痛かったら無理すんな―? あと部屋は305、よ」
有無を言わさず扉をくぐらされ、満足そうにサムズアップ。
呆けるこちら置き去りに、お姉さんはスタスタ去って行ってしまった。
あの人、絶対勘違いしてる。後で滝くんにちゃんと説明してもらわなきゃ。
というか、滝くんはあの人にオバサンって言い続けてるの? 怖いもの知らずめ。
……いや、私のことも気付かないし、鈍いだけ、か。
階段を登り切り、様子見がてら覗いた三人用のグループラインは、炎上の真っ只中。
既読をつける度、ごめんわたし、と自己紹介するのも、少しずつ億劫になってきた。
実際問題、もたもたしている暇などない。そう自分に鞭を打ちインターホンを押す。――も、反応はなし。念のため何度か繰り返してみたが、結果は同じ。
却下だ。俺の休みを奪うな。
不意に脳裏を過った言葉が、ボタンに掛かっていた指から力を抜く。
「んー」
そもそも、彼は初めからデートに乗り気ではなく、強引に話を進めたのは私達。
だからもろもろを放棄して逃げ出したり、居留守を使う可能性だってあるにはある。
しかし、昨日の頑張りを知る分、そんなことは考えたくなかったのだ。
なんだかんだ楽しかったのも、私だけだったりして。
気持ちと一緒に落ちていた視線を上げた時、相対する扉の奥に微かな物音を捉えた。
怪訝に首を傾げ、出来心でドアノブを引っ張ると、施錠されていた気配もなしに、
生まれた隙間は広がっていく。
「え」
露になった305号室の玄関には、渦中の少年が横たわっていた。
―― ―― ――
茹だるような暑さのと、小うるさいセミの声。
今日という日に感じていた、期待と不安。つい先ほどまでの一喜一憂。
私の脳を支配していたそれらは、突如突き付けられた光景を前に、いとも簡単に崩れ去った。
薄暗い玄関と廊下の境に並ぶ、いくつかのゴミ袋。その隣に倒れる見覚えのある姿。
理解しがたい現実に、どれくらい立ち尽くしていただろう。
「た――滝くん!?」
我に返るなり、屈みこんで名前を呼ぶ。けれど、返事はない。
全身からスッと血の気が引いてゆき、容赦のない鳥肌が立つ。
ど、どど、どうしよう……なにすれば――みゃ、脈? 脈だ脈!
混乱醒めやまぬまま、投げ出された彼の右腕を手繰り寄せ、手首に触れる。
「あれ……ぜんぜんわかんない」
気は動転し指は震え、漏れる水っぽい弱音が空中に溶けていく。
い、息! 息!
なんとか次の答えを絞り出し、四つん這いに口元へ急ぐ。
も、しかれていたマットが滑り、汗に湿ったTシャツへ倒れ込む。
「――ったぁ」
鈍い痛みに動きが止まった最中。重なる体を介し、ゆっくりと聞こえてきた心音。
その心地良いリズムは、焦りを掻き立てる自分の鼓動を遠くへ追いやり、
それはまるで、落ち着けと諭されているようだった。
――生きてる。生きてる!
「……よかった――」
耳を澄ましながら、深呼吸を繰り返す。
張り詰めていた緊張の糸が、僅かな弛みを取り戻し、安堵に包まれる。
「――んだよ……!」
完全に意識の外で上がった声に、たまらず叫んだ。
今回は、口から心臓が飛び出していたかもしれない。
咄嗟に身を起こして周囲を見回すも、誰かが入り込む余地など有もせず。
自動的に導きだされた犯人へ、視線が落ちた。
「あ――ジイ。――てぇ――さねぇ」
こちらの準備を待つ訳もなしに、むにゃむにゃと中途半端な呂律で何か言っている。
「え、なに? どうしたの?」
今度は絶対に聞き逃すのもかと、顔を寄せ意識を集中。しかし、応答は無し。
だが、代わりに捉えた安らかな寝息は、絡みついていたパニックの影を払う。
寝言? 寝てたの? ここで? 一晩中? エアコンもつけずに?
浮かぶ疑問の数々に、心配は呆れへと変わり、静かな罵倒を生む。
「ばか」
まったく滝くんは……――なんにしても、とりあえず起こさなきゃ。
そう床と首との間に腕を差し込み、更なる異変に襲われた。
それは、彼が纏う尋常じゃない熱。
「これって――」
熱中症!? でも、部屋の中だし……。いや、部屋の中でもなるって聞く……。
ま、まずはスマホでどうするか調べて、もし本当にやばそうなら、直ぐに救急車。
救急車って、何かいるものある? 保険証とかお金とか、用意しなくて平気かな?
よ、よし、それもまとめて調べよう。大丈夫。落ち着け、落ち着け。
状況の整理。
少し前までは微塵も上手くいかなかったことが、何故だか今は上手くいく。
めまいや、ほてり――は、寝てるしどうなんだろ。筋肉の痙攣――は、なさげ。
だるさや、吐き気――も、わからないけど、吐いた後はないよね。
えっとえっと、汗のかき方?
スマホ片手に症状を照らし合わせ、状態を確認。
項目に引っかかるものは半分もなく、急を要したほうがいいのかは怪しいところ。
もちろん素人が安易に判断するのはよくない。
目を覚まし次第、病院に連れて行くのがベターだろう。
あとは涼しくして、もう少し様子見。
と言っても、このまま廊下に寝かしておくのもいかがなものか。
腹をくくり、寝そべる体を抱きかかえ、どうにかこうにかベッドを目指すも、
人間の体は重く、何度も小休止を余儀なくされ、気合と根性を強いられた。
み、見たか!
誰も見ていないが、それはそれでいいのだ。
横にした彼を眺め、手近な椅子に一旦腰を下ろす。
どうしよう。あとなにか、できること――
休憩もほどほどに辺りを見回すと、散乱した衣服や、家具の隅に溜まった埃、
不快気に襟元を引っ張り、相変わらず謎の言語を呟く少年が私の注意を引く。
……ちょっとくらい片したり物色しても、怒らない……よね。滝くんなら。
やることが決まれば、後は早い。
彼の意識に気を配りつつ、手当たり次第に雑事を熟す。
掃除炊事を可能な範囲で済ませ、残るは洗濯。
汗まみれのTシャツに手を掛け、迷う。
脱ぎたがってた、みたいけど……脱がしていいかな? 流石に、無神経?
知ったら絶対嫌な顔される。でも熱中症じゃなくて風邪な気もするんだよなぁ……。
昨日、雨に打たれる前からなんか変だったし、それなら……原因は連れまわした私。
そう思えば思う程、じっとしていられなかったのだ。
もしくは体を動かすことで、残る不安を払拭しようとしていたのかもしれない。
――よし。
どちらにせよ救命行為なのだと己に言い聞かせ、意を決す。
「――ざけんな!」
轟く罵声。本日三度目の仰天に、まぬけな悲鳴を上げ壁際まで飛びのいた。
寝てるの? 本当に!? 起きてるでしょ!? 寝相も悪いし!
「だ、だいじょうぶ?」
おずおずと近づき確認した表情は、しかめっ面に涙が浮かびご機嫌斜め。
浅いのか深いのかよくわからない眠りについているようだったが、回復の兆しを見せる顔色に、自然と頬が緩む。
「よかった!」
そういえば、資料室で滝くんが倒れた時、手際良かったな、咲ちゃん。
泣いてるだけだった私を宥めて、先生も呼びに走ってくれたし。ほんとに助かった。
再び座席に腰を落とし、やっと一息。
もし彼に何かあったら、私は私に何といえばいいのか。
満身創痍に染みる夏の騒音と後悔に、しばらく遅れで気付く。
ところが、スマホをとりだした瞬間、またも新たな異変に襲われる。
たいして酷使した記憶もないのに、充電が切れていたのだ。
うそ。なんで……あ――まるたんだ。絶対まるたんだ。いつコード外れたんだろ。
夏場は冷たい場所で寝ることが多いはずの愛猫は、今朝、枕元にいた。
初めてじゃないからこそ断言できる。が、まさかこのタイミングで起きるとは。
き、緊急事態だし、電池の紐借りよう。
ベッドの下に発見したテーブルタップは、全て綺麗に電源が落おとされたあげく、
USBポートにもケーブルは繋がっておらず、やりきれなさに頭を抱えていると、
少年が派手に寝返りを打つ。
やっぱり、熱いんだろうな。でも、ちゃんと水は吞ませたし、冷房も利いてる。
後は、少しでも何か食べさせてあげたいけど……。
あいにく、具材はネギと卵のみ。
んー。おかゆか茶碗蒸し。せめてもうちょっとダシとか調味料があればなー。
あー……そうだ。お使いも行ってないじゃん。
二転三転する思考で、乱れたシーツの端をつまんで引く。
すると、彼のポケットから零れていたのだろうか、ベッドからスマホが滑り落ちた。
「わっ」
半ば反射で手を伸ばすも、キャッチは失敗。
床で点灯した画面に、あることを思い出す。
滝くんのロックかけない主義が、こんなところで役立つなんて。
11時25分。急げばお昼までには戻ってこれそう?
「ちょっとだけこれ、借りるね」
無論反応はなかったが、大事なのは誠意。一方的でも聞くことに意味がある。
「すぐ帰ってくるから待ってて」
買い物バッグとゴミ袋を両手に、自転車用出口を開け、私はマンションを後にした。
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