episode5
5-1
薄暗い蔵と外界とを仕切る石の扉は、何をしようがビクともせず。
それを嘲笑うかのように、閉ざされた隙間から射す細い光の中で粒子が舞い踊る。
「なんなんだよ……!」
苛つきに任せ頭を掻きむしり、手近な棚を力いっぱい蹴りつけると、想像の数倍上を行く硬度に返り討ちにあった。
その恨みの矛先は言わずもがな、俺をこんな場所に閉じ込めた諸悪の根源へ向く。
「あのジジイ。ぜってぇゆるさねぇ」
罵詈雑言を並べたところで、脱出の糸口に繋がらぬことなど百も承知。
しかし、一見無意味に思えるこの呻きには意味がある。
そう、これは逆境に立ち向かう己を鼓舞しているのだ。
まだ負けるな、まだ折れるな。挫けないのが、諦めないのがヒーロー!
転校初日の同級生を付け回したあげく、辿り着いた純和風家屋をボロいと罵り敷地内に侵入。捕縛後も暴れ続け、いくつかの植木鉢を台無しにして尚、自分に正義があると信じる図太さはいったいどこからきたのか。
……あそこしかないのか、やっぱり。
遥か上方にそびえる通気口に狙いを定め、辺りの荷物でせっせと足場を築く。
不安定な箇所を古い紙の束で補強し、安全性を保ちつつ順調に高さを積み重ねた。
結果、第一次背丈ショックに直面。
齢9歳にして味わう悲しいリアルを、強引に飛び跳ね誤魔化しにかかったのが大きな間違いで、脚を踏み外し死を覚悟したのが数分前。
現行で視界を漂う大量の粉塵が詰まっていた紙袋に、無事命を救われた。
とはいっても、痛いものは痛い。
背中や尻を摩りながらついたため息が、白く汚染された空気を動かす。
そいや、火がついたらヤバイんだった、これ。
とりあえず口元に当てた襟元は当然粉っぽく、やる気も元気もみるみる削がれ、
咳と悪態を繰り返していたわけだが、そんなことではどうにもならず。
空振りにつぐ空振りは心を無力感で満たし、いい加減涙がちょちょぎれてくる。
「ふざけんな!」
目じりを拭い燃費度外視で叫ぶ。
すると、背後で響くまぬけな驚き。少し遅れて錠の開く音。
錆びついたキャスターが不快な悲鳴と共に転がり、突如訪れた世界のまぶしさに、
つい瞳を閉ざしてしまった。
「だいじょうぶ?」
歳のわりに落ち着いた朗らかな声に、どう答えたかなど憶えていない。
「よかった!」
けれどその時みた、太陽のように優しく温かい少女の笑顔だけは、
未来永劫どんなことがあっても、決して忘れはしないだろう。
――
ふと目が覚め、まず映るのは見慣れた天井。
軽く首を傾ければ、背の低いゲーミングチェアに電源の落ちたデスクトップPC。
少し離れた場所にある、滅多につけないテレビとカジュアルソファ。
繊細な色彩を掴めずとも、家具のシルエットが、横たわるベッドの高さが、
静かに現実を訴えかけてくる。
夢、か。
自分でも恥ずかしくなる内容だった。
頬が熱い。いや、頬だけじゃない、顔? いいや、体全体だ。
それに重い。のしかかられてるみたいだ。何に?
「……どうして布団なんか被ってんだ」
連鎖する自問自答に終止符を打ち身を起こすと、更に異変が異変を生む。
寝ぼけて脱いだのか? それとも着替える途中で寝た?
上半身裸の自分を冷静に分析したいのは山々なのだが、一切合切記憶に在らず。
腰履きで残っていたデニムから強引に推測するのであれば、おそらくは後者。
どうやら昨日でかけた衣服のまま就寝したようだ。
まぁなんにせよ、目覚ましに勝利したのは行幸か。
とりあえずシャワー浴びねえと。粉まみれになったから気分が悪い。
夢と
空は雲一つない快晴。絶好のデート日和。きっとアイツも喜んでいることだろう。
ほわほわと浮かんだバカ面に伴い走る寒気は、凶兆の報せ。
あれ? ない。
それらは眠りにつく際、枕元か、最低でも手の届く位置に配置されるのがお決まり。忽然と消息を絶つなんて、足でも生えない限りありえぬ話。
薙ぎ払った? ま、鳴りゃわかるんだけどさ。
経験則に基づきベッドや机の下を覗くが、得られたのは鈍い頭痛だけで、
そこはかとない怠さにひとまず水を求めてキッチンへ。
しかし、不可思議は休む隙を与えない。
通路で唸る炊飯器に、洗い物桶に浸かったまな板が語る、明らかな使用痕跡。
まてまて、流石におかしい。
仮に俺が夢遊病を患っていたとして、米を研いでネギを刻むか?
散らかった部屋を片付けるか?
……逆にそこまでしてくれるなら至れり尽くせりだな――って、違う違う!
今重要なのはこの305号室の、強いてはこのマンションの防犯性。
エントランスにオートロックはあれど、隣の自転車用ゲートはちょこちょこ開きっぱなしだし、運良く閉まってたとしても簡単にフェンスはよじ登れそうだし、
こんなのどこから入られてもおかしくねぇだろ。
手の施しようのない設計ミスだ、設計ミス!
咆哮に回すエネルギーは1mmもなく、煮えたぎる不平不満を内々で処理。
引っ越しも辞さない状況に大きく肩を落とした、瞬間だった。
小うるさいインターフォンがここぞとばかりに鳴き喚き、ビクンと背筋が伸びる。
んだよ、管理人か?
無限の文句をこしらえ、ふらふらと室内カメラの前に着くも、液晶は姿を映すどころか色を放つつもりも無いようで、つまり、脳を揺さぶるこの警鐘は、目標の接近をゆるした事後報告に他ならない。
こういうの、職権乱用にあたるのでは。
千鳥足で踵を返し、のぞき穴に瞳をかざそうと扉に体重を預けた拍子。
「あれ? 開いた」
バカみたいに呆けた呟きが引き金。
ドアノブは一気に遠ざかり、包まれる浮遊感と迫るくるコンクリ。
これは夢じゃない。
都合よく落下地点に粉の詰まった紙袋なんてないのだから、受け身は必須。
ところが四肢は命令を無視。非情な現実に瞬きを挟む間もなく視界は暗転する。
「ちょ、
滅されかけていた意識と命は、声にならない声をまき散らす本日の彼女によって繋ぎ止められた。
―― ―― ――
人という字は互いに支え合ってできていると、小学校で教わった。
昔流行ったドラマの受け売りらしいが、一年生になったばかりの児童達にそんなことはわかるわけもなく、当たり前のように疑問が飛び交っていた記憶がある。
支えるってなにだの、合うってなにだの、支え合ってないじゃんだの。
エゴに近い様式美は純真無垢な好奇心の前に敗れ去り、
クラス一同は、なあなあに纏まった別の話を成り立ちとしてインプットしたのだ。
「いやいやいや――無理! 無理だって滝くんっ!」
人という字は誰かの支えを頼りにできている。
今の状況を簡潔に説明するのであればそれだろう。
こちらより一回り以上小柄の
これ以上ないといえる相応しさ。
いかにも余所行きに結われた栗色のハーフツインテと、地雷臭漂うばっちりメイク。学校では到底拝めないはっちゃけオシャレを生贄に捧げた自己犠牲。
当時いまいち腑に落ちなかった成り立ちが、完全にハマった気がした。
「もう――……だめ」
しかしながら、人間の体は重い。自制が利かぬのなら尚更だ。
かくして現状は、華奢な女子高生がどうにかできる域をとっくに超えていた。
ガクンと落ちる景色もその証拠で、むしろ、扉からなだれでた姿に反応し、
咄嗟に勢いを殺しただけでも賞賛に値する運動性能と呼べる。
だが、彼女の功績はその程度では収まらない。
倒れる最中、何故か自分がクッションになるよう俺を強く抱き寄せてみせた。
「いったぁあ!」
そりゃあそうなる。
近所一帯に轟く盛大なエマージェンシーコールは、301から304号室の入り口を順番に開かせるも、何事かと現れた男女は皆等しく困惑と呆れの混じった様子。
「ぁあ――うぅ。……す、すす、すみません! 違うんです、誤解なんです……!」
重なる体の下側で鈍く呻き、バタバタとのたうつ咲の絶叫に耳を貸す者はおらず、
彼らは多少過程に差はあれど、最後には決まって関わりたくな気に表情を濁し、
室内へと消えていく。
昨日は都会の暴漢に恐怖を味わったが、今日は隣人の冷たさか。
確かにうるさかったかもしれないが、このバカは身を呈して
褒められるいわれはあっても蔑まれるいれれなんて――あ。
「いつまでくっついてんのヘンタイ!」
仰向けに跳ねのけられ、背中へ伝わるコンクリのひんやりした温度。
立ち上がる少女と一糸まとわぬ自分の肩を視界に捉え、疑念は確信に変わる。
「違う、誤解なんだ」
「なにが、誤解なのよ! とゆーかそれより先に言うことがあるでしょ!?」
チェック柄のハイウエストタックワンピースの汚れをざっと払い終えると、
短い裾を翻しながら腰を捻り、手探りを交えた丁寧な破損チェックを開始。
「――うそ。買った、ばっかなのに……」
ものの数秒でかつてない不吉な一言を漏らし、ゴミを見るような視線が降ってきた。
流石は双子、
くっきりとした瞳はわなわなと歪み、大粒の涙を零して咲は俺の部屋に駆け込んだ。
え?
思考も追い付かぬまま無理やり体を起こすと、聞きなれた施錠音が響く。
え?
立ち尽くすこと十数秒。
おもむろにノブを引くも案の定。壁を隔てた先の気配に問う。
「お――おい。なに考えてんだバカ」
「バカはどっちよバカっ! 待ち合わせには来ないし連絡遅いし……。
文句言いに来たら押し倒されるし、服着てないし服破くし……反省しろバカぁ!」
「は。な、何言って――」
待ち合わせに、来ない? 俺が? あれだけ練習したのに!?
再び立ち尽くすこと十数秒。
いまいち活発さに欠ける脳に、フラストレーションが募りまたフリーズ。
余力を蝕む悪しきルーティンを幾度も幾度も繰り返し、やっとこさ真理に辿る。
時計だ。
まだ、見てないぞ、起きてから。そういやスマホもなかった。
シャワーより、喉の渇きより来客より、何よりも大事だったのは時間。
なんでよく探さなかった? どうして後回しにした?
驕ってたんだ、いつも早寝早起きだから。
過信してたんだ、遅れたことなどなかったから。
必要とあらば、食事睡眠を削ってでも約束は守る。
自分の中の信条とも呼べる、数少ない誇りの消失。
絶望に打ちひしがれた外の静まりを不思議に思ったのか、扉に僅かな隙間が生まれ、水気たっぷりの片目が覗く。
「ちなみに……今、何時だ?」
満身創痍の問いは、返事なんて期待していない完全なるダメもと。
そもそも言葉が震えすぎて、相手が認識できているかも怪しい。
「自分で確認すれば」
差し出された置時計は正真正銘我が家の物で、発声の仕方さえ忘れ眺めた盤上では、キリ良く針が一つとなり、二時間の遅刻を示す。
とっくに遅刻の次元は超えていた。
三度立ち尽くすこと十数秒。
止めどなく鳴り続ける鼻が、奇跡的に自我を取り戻させる。
「どこに――どこにあった?」
「え。靴の、とこ? 物置みたいになってる、けど――」
置くか!? 玄関に、時計を!? まさかスマホも!?
跡地を調べようと、ここぞとばかり手を差し込む。
も、ドアガードと角度に阻まれ何の成果も得られずじまい。
代わりに血相を変えた俺に驚いて腰を抜かした咲が、派手に尻もちを突いた刹那。
微塵の容赦も感じさせぬほど見事な布の破ける音は、世界を凍結。
じわじわ氷を解かすように聞こえてきた米の炊けたアラームに、涙の防波堤は決壊。
ぺたんこ座りの号泣が致命となり、俺のストレスは臨界点を突破。
目の前が真っ暗になった。
―― ―― ――
ふと目が覚め、まず映るのは見慣れた天井。
軽く首を傾ければ、背の低いゲーミングチェアに電源の落ちたデスクトップPC。
少し離れた場所にある、滅多につけないテレビとカジュアルソファ。
繊細な色彩を掴めずとも、家具のシルエットが、横たわるベッドの高さが、
静かに現実を訴えかけてくる。
「夢、か」
「――んなわけないでしょ……」
背を向けていたバケットシートが回転し、そこへすっぽりと体育座りで収まる不機嫌は、三秒で全てを思い出させた。ついでに、あからさまな異変も添えて。
「何か言うことは?」
と、言われましても。
外行のハーフツインテに、ガーリーな厚化粧を携えたワンピース娘は影も形もなく、
緩い二つ縛りと赤眼鏡を携えた芋ジャージ娘が、低温で炙るようにこちらを睨む。
だ、誰だ。誰なんだコイツは……。
データのない正体不明に答えあぐねていると、どこからともなく鳴った電子音が、
対象の興味を反らす。
「なんど?」
なんど? なんどって、なんだ――方言か?
等間隔で響く煩わしさをバックに考えるも、あっという間に時間切れ。
視線の温度はそのままに、ほとほと呆れた様子で伸びた腕が俺の襟元から服に侵入。
素早く何かを摘出した。
「……38.2℃。普通に大熱じゃない。病院は?」
「え。は? いや……あぁ。病院は――嫌だ」
弱り遅れた思考から漏れる甘えた本音が、着飾る余地もなく移送を拒む。
「滝くんてあんがい子供だね~」
勝ち誇った呟きにぴくりと引くつく目元を見逃さなかったのか、
「わ、私はその道のプロだから! どうしてもって言うなら怖くなくなる方法とか、教えてあげないことも、ないけど――」
聞き覚えのあるリズムで鼻を啜り、自らの失言を補い空気の悪化を防ぐ。
握られた体温計が指揮棒さながらに揺れ動く軌跡には、焦る心が透けて見えた。
柔らかそうな栗色の髪。レンズの奥で主張する瞳。
整ったと呼べる顔立ちと華奢な体格。壁を感じさせぬ態度に、馬鹿っぽい喋り方。
なるほど。そういうことか。
気を失う前に比べずいぶん様変わりした外身に、溜息交じりに言う。
「お前、咲か……」
「洗顔と服、借りたから。服は洗って返す、いい?」
一言はなっただけで、過去と現在のズレに苦しんでいたと察してもらえるあたり、
いつぞや
逆に、上位カーストにはこれが標準搭載されていなければならないのだとしたら、
たぶん俺には無理だろう。
透明人間になることは、ある種定めだったのかもな。
「ま、ダメって言っても借りるけど。今日の為に買った10340円はオシャカだし」
――そうだ、そうだよ。俺はこんなところで、こんなことをしている場合じゃない。
「デートは、デートはどうなったんだ?」
「……30分はみんなで待ってたけど、どこかの誰かさんが既読も付けられないから、後で合流するって言って二人には先に行ってもらった。で、その一時間後。
すまん、ちょっと風邪ひいて行けなくなった、埋め合わせはしっかりする。
なんて淡泊な返信してきたのは滝くんでしょ? ちょっとじゃなかったし……」
スマホ片手になじられながら、欠落した記憶を遡ろうとしたのも束の間。
根性で起こした重たい体は、細腕に小突かれだけで容易くベッドへ沈む。
「今日はもう行けないって連絡してあるから大人しくしてること。
救急車呼ばれたくなかったら言うことも聞くこと。わかった?」
これはお願いではない。命令だ。
先ほどまでメソメソしてたとは思えぬ迫力に押され、自然と首を縦に振ってしまう。
「おい、どこ行くんだ?」
椅子から遠のく気配に視線をくれようとしたところ。
「何作ってたの? あの感じだとお昼でしょ、適当に仕上げてあげる。
あと、絶対にこっち見ないこと。ぶかぶかだから油断すると脱げちゃいそう」
赤らんだ頬に追加の釘を刺され、間反対の明後日を見る。
それから暗いモニタを相手に、今までを辿る作業をしばらく行ってみたが、
やはりラインのやり取りも献立も身に覚えはない。
やっぱ、何かがおかしいんだよな。
「そ、そういえばさ。その子って、スペックどんなもんなの?」
「は?」
あちらが水を差しに来ただけあって、不意に視野へ収めてしまおうとお咎めはなく、
用心深く腰に手を当てスボンを抑えた咲が、我が家の電子機器周りを指す。
「ハードもたくさんあるし、けっこういろいろやる口?」
続けざまの二件を消化中。更に襲い来る三件目。
「キーボードもマウスもいいの使ってるけど、もしかしてメインはFPS?」
ここ一番の乙女な表情と、発された内容のギャップが織り成す、痛烈な既視感。
男子とゲームの話してても抜け駆けってやっかまれるし。
咲ちゃんさ、イケイケって感じでしょ? でもね、実は意外なことが趣味なの。
ふらんどをるでのひと時と、デート練習中でのひと時。
散乱していた情報が伝えるものはただ一つ。
こいつも、やる口なのだ。
しかも、俺の様にオススメに流されるがまま適当に選んだ素人とは違う。
おそらくは、一見しただけである程度機材の良し悪しを判別できるような玄人。
「ちなみに、ご趣味は?」
いつかのオウム返しで訊くと、彼女は失態を犯したようなバツの悪い顔で答える。
「お、オシャレと……ゲーム?」
電脳世界にしか生息しない空想上の生き物。
信じがたいことだが、どうやらそれは、実在するらしい。
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