4-2

目まぐるしく入れ替わる線路の枕木まくらぎと、微動だにしない彼方の風景。

たった少しの視線移動で拝むことのできる緩急は、珍しいものではないだろう。


カーブを抜けた先で訪れる、慣性の効いた独特の揺れ。それをつり革でやり過ごすと、次いで流れる鼻にかかった濁音。昔の放送機器は雑味が入りやすく低音が通りにくい。そして普通の話し声だとお客さん同士の会話と区別がつかない為こう収斂しゅうれんした、とどこかで見たことがある。


それなりの湿気あれど車内は適温に保たれ、文明の利器を感じざるを得ない。


ひさびさに乗ると超便利だ。けど、やっぱり騒がしくてそんなに好きじゃないな。


土曜の昼頃に差し掛かる微妙な時間と、今にも泣きそうな曇天。

若干の余裕はあれど、都心に近づくにつれ少しずづ密度は濃くなっていく。


そんな迫りくる鬱屈に、ついつい溜息が零れた瞬間。

ポケットにしまっていたスマホがぶるぶる暴れだした。


ん?


ぼーっとそれを引き抜いた時、既にバイブレーションは収まり、とりあえずホームボタンに触れれば、待ってましたと垂れてくるポップアップ。


なぎさから着信がありました。


なんだなんだ?


珍しく9件も未読を浮かばせた緑のアイコンから、正面座席でうごめく夏川なつかわに自然と意識を奪われ、半ば反射で捉えた彼女は、イの形にした唇へ指を一本重ね、しーっと静粛せいしゅくを促す。


いや、まだ何も言ってないだろ。


辺りで品のない笑いが響く中、状況が呑み込めず固まる俺へ突き出された液晶画面。


ねえねえ、おーい、こっちむいてー、など、中身のない文面に眉をひそめた直後に気付く。


この、送り先……。


端に鎮座する、ここ数日で呼ばれ慣れた愛称が目が留まり、恐る恐る気を滅入らせながらの答え合わせ。なぎさとのトークルームに溜まる9件のメッセージは、案の定であった。



やっと気付いた、ずっと外ばっか見てるんだもん。


落ち着くいとまもなく届いた10件目に、



しーっ、なんだろ?



と、嫌味を絡め返してみたが、



それ、後ろのうるさい人たちにも教えてあげてー。



などと、カウンターをくらう始末。


試しに電光掲示を確かめるふりをし、間接視野で騒音の元凶を捉えてみたものの、

ああも筋骨隆々では結果は明白。無茶と無謀は違うのだ。


お前は俺を殺す気か?


大丈夫、骨は拾ってあげるから!


だいじょばない。注意したが最後、きっと骨までミンチにされるぞ。


恨みを込めてこっそりにらみつけること数泊。何か電波でも感じとったのか、悩まし気に小首を傾げていた夏川が上目遣いにこちらを伺い、視線が交わった。


それから彼女は席に浅く腰掛け直すと、餌をもらう雛のように顎を上げささやく。


「ねえねえ、だいじょばないってなに? 意味はわかるんだけど、言うのそれ」


あれ、言わないのか? だいじょばないって。もしかして、田舎の方言なのか?


遥かに驚きが勝り、Tシャツの裾に出されるちょっかいそっちのけで熟考するも、

どうしようもないので科学の力に頼る。


どんな些細な疑問にも、Google先生の回答は迅速で正確。これほど便利なものは、なかなかない。


えーなになに。有名アーティストの曲名以外には――大丈夫じゃないの省略形であり、俗語、とな。普通に言うじゃねえか。起源は……まぁ、いいよな。


いつ覚えたかもわかない言葉は、ネット世界では既にそれなりの認知度があるらしく、安心してページをスクショ。親切心で画像をトークルームに張り付けるも、無慈悲なラインに流されてしまう。



今日、滝くんは私の彼氏なわけです。わかってます?


彼氏、役、な? 役だぞ?


なのに滝くんときたら、彼氏らしいことを何一つしてくれていないわけです。



スルーにごときに焦るな、丁寧に、丁寧に。


言葉足らずは事故の元と身に染みているのだ俺は。形として残るのであれば、なおさら気を付けるべきだろう。戦場で生き残るのは臆病者。慎重になるに越したことはないのだ。電車で出来る彼氏らしいこと。しばし悩み、してくれていないじゃなくて、できないんだ。と打ち込んでいる隙に次の攻撃が飛来。



そこで私は目標を考えました。


すこぶる嫌な予感に鳥肌が立つも、それは遅すぎる警鐘。


私をドキッとさせてください!



対ショック準備は間に合わず、もれた情けない声を咳払いで誤魔化した。しかし夏川のジトっとした視線はやわな隠ぺい工作を容易く看破。深呼吸を促すように胸を押さえたまま、すーはーすーはー大きく肩を上下させる。


……いや、落ち着かせてくれないのはお前なんだが?


そんな心など知る由もなく、減速する世界は目的地に近づきつつある兆し。

まばらに人がうごめき、座席に並ぶ顔がちらほら入れ替わっていく。


「私たちはもうちょっと先だよ?」


わかってるっつの。


ざわめきに紛れ言う夏川に、たまらず力が抜けた時である。


彼女の二つ隣で降車準備を済ませた男が立ち上がり出入口前に移動。空いたスペースの横で広告を眺めていた女性が、含みのある笑みでこちらを一瞥し、そこへ流れた。


「ど、どうも」


会釈も添えるが形だけ。あいにく俺は動けない。


改札で盛大にやらかした際、これ以上変なことをされては恥ずか死するだの、最寄駅から横並びは危険だの、と散々釘を刺すものだから、面倒臭くなって彼女の正面に陣取り、ぼーっとカカシに徹していたのだ。が、それももう少しの辛抱。ここまで来たなら立っていたって変わらない。


せっかく譲ってもらったとこ悪いが、俺にも羞恥心はある。近いんだよ、電車は――


「ありがとうございます」


ペコっと頭を下げ、急かすように俺のショルダーバッグへ手を掛ける夏川とは、どうやら意見が割れたようだ。ベルトを通じ肩へかかる重みに、自然と頬が引きつる。


あーもう、分かった。分かったから放せ。……座りゃいいんだろ。


自動扉が開き再び密度が上がる中、諦めて腰を下ろそうと身を翻すと、猛ダッシュで駆けてきた子供に撥ねられ、あっさりそこは奪われたのだった。



―― ―― ――



「みてみて! 滝だよ、滝くん。マイナスイオンだよ!」


「お前、それ言いたいだけだろ」


――灰色の天候とは裏腹に、街は普通に混み合っていた。


どこへ行くにもついつい空模様を気にしてしまうのは田舎育ちの性。都会であれば、屋根付きの娯楽がそこかしこにあるのだから、いい加減捨てていいものだとわかってはいても、なかなかそうはいかないものである。


幾つかある地上への出口から、一番目的地に近いものを選び、人の作る波に乗って進んでいく。


お揃いでの一悶着や、近所のおばさんのストーキング。摩訶不思議なハプニング続きのせいで、予定していたタイムテーブルはすでに押し気味だというのに。薬局にお菓子屋、地元とは比べ物にならない量の景品が立ち並ぶゲームセンターへ、当たり前のように吸い込まれていく夏川は何を考えているのか。右往左往する彼女を捕まえ歩くのは骨が折れる。


そうして、再び地下へ潜る長いエスカレーターを超えた先には、水平型なるまた別のエスカレーター。機械に頼るほどの距離でもなく、急な段差があるわけでもないのに、さも当然のようにそれは設置されているのだ。


いるのか? これ。


なにか特別な力があるのかと試しに乗ってもみたが、レースゲームの加速パネルのようにはいかず、通路中央を歩くおじいさんの方が素早く感じる始末。


いらんな! これ。


かくして辿り着いた商業施設は、想像以上のごった返し。素人玄人問わず襲い来る容赦ない洗礼に、こちらの現状は完全なおのぼりさん。


……こいつらの人込み耐性はなんだ? 調教済みってやつか?


見渡してみるも、苦い表情を浮かべていたのは自分くらいで、皆ケロッとしていた。


とにもかくにも。


入り口近くの通路端。あくまでえみの行動表遵守を念頭に掲げ、行き先を確認していると、身も蓋もないことを口走り、背中をぐいぐい押してくる夏川。


曰く、デートはいつも臨機応変らしい。


一里あるのは確かだが、そうなるのはあくまで不測の事態が起きた時。料理のレシピと同じく、書かれたことを正しくやっていれば、問題などはなからおきないはず。


「ほら、行くぞ」


うろちょろする彼女を傍らに従え、プランに記載された専門店街エリアをしらみ潰しに巡っていく。


「ほら。滝くんどう? 似合ってる?」


シャっと鋭い音が響くのと、重たそうなカーテンが開いたのはほぼ同時。

少し大人なワンピース纏いはにかむ夏川が、不安げに一回転してみせる。


「おー。似合ってる似合ってる」


「え。じゃ、じゃあ、こっちは?」


彼女は試着室に掛けられた、同じようなシルエットの服を自らにあてがい再び問う。


正直なところ、こうなる未来はおおむね予想済み。ありがちなシチュエーションへの無難な感想くらい、用意していて然るべきなのだ。


「おー。いい感じいい感じ」


続く帽子店やアクセサリー店。雑貨店や世界に誇れる人気ゲームのファンショップ。

女の子連れでなければ入りづらい場所も含め、もろもろ見て回ったが、もしかしたら俺はデートのセンスがあるのかもしれない、と勘違いするほどのすんなりで、かえって不安が煽られる。


夏川も何も言ってこないし、いい、のか? この調子で。これでいいなら明日もなんとかなりそうだが。


あまりの拍子抜けにそろそろ飯の時間かとポケットからスマホを取り出し、ディスプレイを点す。


……あれ、なんか時間もけっこう巻いてんな。予定よりだいぶ早く帰れそうか?


明かりを消すと、次の店を決めあぐねパンフレットとにらめっこしていた夏川は、

こちらへ詰め寄り、ひときわ目立つガイドマップの一角に指を添えた。


「次はー……ここ!」


「え、ああ」


――そうして静かなエレベーターに運ばれ、今に至る。


地上40m。聳え立つビル群の一角であることを忘れるような、天空のオアシス。


端に緑を伴ったアクアスクリーンと、温かい橙色の光を基調としたエントランス。

南国の行楽地を思わせるこの空間には、既にチケットを買い求める長蛇の列が形成されており、たまらずため息が漏れた。


ま、室内レジャーを選ぶ限り、ついて回るよな。


「はい。こんなこともあろうかと」


声に振り向けば、お得意の読心術きめた夏川が口角を上げ、にこりとブイサイン。


「オンライン受付っていうのがあるんですよ!」


「お、おぉ。やるな――」


つい条件反射の感嘆を返すも、直ぐに疑問が続く。


「と、いうか……水族館なんてあいつのプランにあったっけか? けっこう読み込んだつもりだったんだが、そんなの――」


見落としの可能性を鑑みてスマホを引き抜くも、


「ないよー? ないけど、嫌い?」


「い、いや――どちらかと言えば、好き、だが……」


杞憂で終わった安堵と、プランの逸脱による困惑。


「じゃ、問題ないね!」


夏川は混乱する俺のショルダーバッグのベルトを掴み背中で語る。


「それでは気を取り直して、答え合わせと行きましょうか」


「は?」



―― ―― ――



夏川にお茶を濁されながらしばし進んだ先。深海を彷彿とさせるブルーライトが、暗い波目模様の壁を照らし、辺りの雰囲気を引き立てる。群れを成すマイワシが水槽を埋め尽く光景は、生命の躍動と呼ばれるにふさわしい。気付けばまだ距離があるにも関わらず、目を奪われ、足が止まっていた。


「ほら、もっと近くで見ようよ」


促されるまま少しづつ雑踏に混ざっていく。


「私はそれくらいのペースがいいな」


「ペース?」


斜め後ろから聞こえたかと思えば、今度は隣から。


「電車下りてすぐかなー。滝くん歩くどんどん歩くの速くなって、付いていくのわりと大変だったんだよ?」


ぼそっとした謎の自己主張を忘れさせる突然の指摘。たちまちノッキングを起こし、言葉をなくす。


「そもそも女の子のお召し物はね、使いやすさより、可愛らしさが重視されてて、あ、今日の私は違うよ? 実用性とお揃い重視。これも申し訳程度の変装用。デートの練習を誰かに見られて、またクラスに彼女が増えるのは大変でしょ? だからその対策も含めて顔くらいは隠そうかと用意してたんだけど、まさかこっちも揃うとは」


処理落ちで固まる俺を、被っていた帽子でパタパタ冷却。


「ま、それは置いといて、特に足元が顕著なの。見た目のわりに歩きにくい靴とかもあるから、そういうところを気にしてあげるといいと思います」


言葉に誘導された俺の視線を察したのだろう。彼女は履いていた動きやすそうなスニーカーのつま先を軽く床に打ち付け、


「こんなこともあろうかと」


当てつけなブイサインで先見の明を示す。


「で、サンダルやヒールは、だいたい見た目通り――」


「ちょ、ちょっとまってくれ」


そこはかとない違和感の詰まった説明に、つい口を挟んでしまった。


な、なんだ? こう、丁寧に教えてくれるのは有難いんだが……。


「元を正せば滝くんを巻き込んだのは私だから、けっこう真剣に考えてたんだよ?せっかくなら楽しくしたいなーとか、できるだけ咲ちゃんぽい感じに寄せた方がいいのかなーとか」


巨大水槽から射す暖かいコバルトブルーの煌めきが、真剣な面持ちを彩ったのも一瞬。


「なのに、滝くんときたら……」


案の定、疲労感に満ちた冷たい形相へ変貌を遂げた。


「改札とか電車でのアレは、いいでしょう。歩くスピードも……まぁいいでしょう。でも、それ以降はいくら優しいなぎさ先生も看過できません。練習っていっても、デートはデートなんだよ? わかってる?」


虫の居所の悪さを察し、たまたま目に付いたイカのウンチクを垂れるも、効果はいまひとつ、どころか完全に蛇足。


「滝くんさぁ~……――」


この手の口火の切り方は、強火でサッとではなく、弱火でじっくり。


「褒めればいいと思ってるでしょ?」


「ち、違う……のか?」


この口ぶりからすれば違うのだろう。分かってはいる。分かってはいるが、今強引に何かをひねり出したところで無意味な延命。じゃあなんでそれやらなかったのかな、と、十中八九詰んでいるのだ。答え合わせとは、たぶんそういう事で、すんなり行ったと感じていたのは、ただ見逃されていただけ。泳がされていただけ。


「そりゃあさ、私みたいに単純ならいいよ? でも咲ちゃんはどうかなぁ? 滝くんが思ってもない誉め言葉を使いまわしてることくらい、簡単に見抜かれちゃう気がするけど」


尚もご機嫌斜めに教鞭きょうべんを振るう夏川は、ツッコみづらい自己分析には触れさせるつもりはないようで、淡々と赤チェックを決めていく。


……マンボウだったらこの精神負荷で死ねるな。間違いない。


「そもそも明日みたいなデートが一回で終わりとは限らないわけです。周りを納得させる撮れ高しだいでは二回三回と続くかもしれないじゃない?」


恐ろしい予想と共に、彼女は一つ飛ばしで階段を登る。


「でも滝くんはそんなストレス耐えられないし、早く終わらせたいでしょ?」


初っ端からお揃いなんて奇襲で驚かせてきたやつがよく言う。なんて言えば火に油。反論を噛み殺し、ずいずいと先を行く影を追うと、


「なーのーで、今日という日を有意義に過ごす必要があるのです。わかりました?」


空気を換えるような明るい声音。


「……なんというか……けっこう、考えてたんだな」


しかしそこで俺が捉えたのは、アザラシやカクレクマノミを見るには暗すぎる瞳で、よく似たものを、見たことがあった。


「私がいつまで付き合って上げられるか、わからないからね」


故に、何を言おうとしているのか分かった気がしたのだ。


「急に――」


「困る」


目を点にして振り返る夏川。面食らい、しどろもどろで付け足す。


「あ、いや。この状態で放り出されるのは困るって意味で……。今、言い出しっぺのお前には、俺を一人前に育てる義務がある、はず」


「滝くん……」


狼狽うろたえる姿は更に記憶を掻き立て、言葉がセンチににじむ。


「だから、勝手にいなくなるな」


波及した感傷に俯いた彼女は、悶えるように呟く。


「えっと、お手洗いに行きたいだけなんだけど私」

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