episode4
4-1
住み慣れた八畳一間の1Kに響く、けたたましい電子音。
本体の裏に仕込まれたレバーを下げない限り、幾度ボタンを押そうとも蘇るそれは、その都度泣きわめく間隔を狭め、律儀に与えられた役割をこなす。
この不快度の高い音とスヌーズを考えたやつは、余程性格が悪いと見た。
歯ブラシを咥えながら目覚ましの頭部を叩くのも、本日三回目。
……結局、ぜんぜん眠れなかった。
睡眠不足特有の疲労感が、部屋を行き来する足取りから安定を奪う。
充電ケーブルに繋がったまま枕元に放置されたスマホと、そこに浮かぶ三人用のグループラインに突然貼られた画像。ノートにカラフルなペンで書き連ねられているのは、
軽く中身を確認する為拡大してみると、時間と場所、チェックポイント毎の充実したひと時の過ごし方が丁寧に記載され、なかなかの手の込みようである。
思いのほか見やすいな。意外な才能だ――
平時の彼女からは想像もできない几帳面さに唸りかけ、ふと目に着いたのは、ノートの隅に映り込む数学の応用式と、見覚えのある机。
って、授業中に作ってたのかよ……。
そう呆れたのも束の間に、ほぼ同じタイミングで既読をつけた
じゃ、これに沿っていこっか。
おいおい本当に行くのか? 天気悪いらしいぞ。
気付いた時にすぐ返す。それが簡単チャットツールの妥当な在り方だと思う。
咲ちゃん、雨天決行って言ってたし、そこも練習になるかもね!
降らないのが一番だけどな。
こうと決めた時の夏川は、異様に前向きなバイタリティの獣。こちらを慮ってのことだというのもまぁ、理解はできる。が、誰か手綱の取り方を教えてくれ。とはいえ、なんの練習も無く日曜に挑めば、咲に叱られること間違いなし。想像に容易い未来なのだから、付き合わざるを得ない。
予定自体を断ろうにも俺はあの馬鹿に、
人に講釈垂れるほどお洒落に精通してるはずもないのだが、隣を歩かせる以上聞かれた内容くらい答える義理はあると、纏めて送った長文が昨夜最後のやり取りであり、長い夜の幕開け。
重たい腰を上げ、向き合ったクローゼットに突き付けられる、圧倒的物量の少なさ。
秋になったら送り返そうと思っていたのに、今更夏物を漁らなければいけないのか。
後ろ髪をひかれつつも、季節の変わり目と悪天候を凌げるブツを探しにかかり、部屋の隅に積まれた段ボールを開く。夏休みにバイトと食事くらいでしか外にでなかった己の怠慢を呪ったが、実際予定ががなかったのだから仕方がない。
ぶつくさ衣類を散らかし、目当てを掘り出した頃には
シャワーを浴び床に就くもすぐに眠気がやってくるわけもなく、ぼーっと咲のプランをなぞっていたのが記憶の果て。
主の寝落ちに巻き込まれ、働き続けていた健気なエアコン休暇を取らせ、こぶし一つ分の窓から空模様に視線を移す。
まだ、降ってなさそうだな。なら、予定通りだ。
鍵とカーテンを閉め、口を濯ぎ、歯ブラシを所定の位置へ。自分の姿を確認する。
少し厚手な無地の白いTシャツに、すっきりした細身の青いデニム。
無難中の無難、どテンプレ、量産型と罵られたとしても、清潔感があるに越したことは無い。
服装は、まぁ、よし。下手に奇をてらうよりはいいだろう。だが――
正面を見据えると、夏休み前から放置され、無造作に伸びたくせっ毛が、謎の存在感を放つ。
こっちはやっぱり、使うしかないな。
用意しておいた黒いショルダーバッグのベルトに腕を通し、再び鏡の前に立ち返る。
そして、紺のキャップを被り、もさっとしてると比喩された髪を中へとしまう。
気持ち、すっきりしたか?
自問自答に水を差すように切り忘れた目覚まし。慌ててスヌーズのレバーを下げ、
「鍵に財布にバッテリー、は、バッグ。 あと――」
必須である持ち物を口に出して呟く。
「スマホスマホ」
接続されたままのケーブルごとまとめて抜き取り、それをポケットしまい込む。
よし。
意識の覚醒を確かめ、部屋の電気を落とす。
玄関でかかとのあるサンダルを履き、しっかりと戸締り。
うちも、夏川の家みたいにエレベーターとかあれば楽なんだけどな。
言うて3階。別に苦労するほどではないのだが、食材の買いだしの時、足を痛めたりした時、雨が降った時などはその限りではなく、今も湿気がそう思わせたのだ。
ま、改修工事も面倒臭そうだし、期待なんてしてないけど。
諦めつつ、オートロックを解除し、僅かな段差を飛び超える。
「よしよし」
だいぶ余裕を持って家を出れることに安堵し、曇天を仰ぎ大きく深呼吸。
最寄り駅まではゆっくり歩いたとしても15分がいいとこ。途中で催したりコンビニに寄りたくなる可能性を加味して、今回はその倍で移動を計算した。
やっぱ、こうでなくっちゃな。
結果良ければすべて良しという言葉があるが、同じくらい立ち上がりも大切であると俺は説きたい。
経験上スタートでつまずくのは非常にやっかい、やる気を全て持っていかれる。
つまり何が言いたいかのと言えば、せっかく休日返上で出かけるのだから、有意義に過ごさなければもったいないということ。
まずはその手始めに夏川より先に駅へ到着し、アイツが慌てて駆け寄る様を拝んでやろうではないか。可愛げのあるごめん待ったの一言くらい、普段からかわれている分のツケとしてなら安いもの。バチは当たらないだろう。
やる気と共に口角も上がり、もれる不敵な笑いと聞きなれた声。
「滝くん? 何一人でにやにやしてるの」
スマホ片手に通報寸前。そんな夏川に出鼻を挫かれ、予行演習は始まるのであった。
―― ―― ――
「わ、私じゃなかったら、警察よばれてたかもだよ」
物騒なせりふを吐きながら、角つく動きで距離を詰め、こちらの数歩手前で立ち止まると、
「おはよ」
カタコトの夏川。
面食らったまま、なんの応答もよこさない俺を不思議に思ったのか、
「も、もしかして、体調わるい? あ! 頭、打ったところとか?」
あたふたぎこちなく、身振り手振りを加えた質問攻め。
胸の前で手を重ね答えを待つ彼女。息を整え、一見落ち着きを取り戻したように感じるが、とんだはりぼて。そわそわと乱れる視線は、これでもかと緊張をまき散らす。
「げ、元気だ、元気だが、な――」
いつまに伝播してしまったのだろうか、こぼれた言葉のたどたどしさに、続きを一旦呑み込み、慌てて深呼吸。
これは……偶然、なのか?
夢であってくれ、そう素早く辺り見回せば、土曜日のわりに少ない人通り。都合よく皆、こちらに背を向け進んでいく。やたら構ってくる近所のお節介おばさんもガーデニングに精を出し、まるで今がチャンスと急かされているようだ。
どうなってんだ、夏川も夏川だし。しかし……まぁ、とりあえずここは――
「ちょっと着替えてくる。集合には間に合わせるから、気にせず先に行っててくれ」
あくまで平静を繕い踵を返した。我ながら丸い選択。そんな余韻に浸りかけた途端、突如腕に掛かった意図せぬ重みで体制を崩し、後方にたたらを踏んだ。犯人は言わずもがな、である。
「……おい。はなせ」
「いやー偶然だなー、びっくり! でも、だいじょうぶ、似合ってるから」
こいつは、こんなにも嘘が下手なのか?
刹那の自問自答。珍しく動揺しきった声音で勘づく。
「お前、計ったな?」
語気も強めに振り返った先。確信を突かれ、露骨に顔をそむけた夏川の耳は、控えめに言って真っ赤。たぶんこの策を弄したのはこいつではなく、陰に潜むバカがいる。その言い出しっぺをかくまおうと、懸命に脳を働かせているのだ。
「ほ、ほら、恥ずかしいのはお互い様だから……」
結果、キャパシティーオーバーで熱暴走を起こし、立っているのがやっと。お淑やかな雰囲気は何処へやらで、鷲掴んだ俺の腕が命綱になる有様。よくある例えを借りるなら、産まれたての小鹿だろう。
まったく、あいつが関わるとろくなことがない。
真犯人に目星が付くと、何故か心も冷静になり身の強張りもほぐれてきた。反対に、バーンアウトを迎えた夏川は満身創痍。数分前まで、ちょっと慌てるとこでも拝んでやろう、と思っていたはずが、何故かこの居たたまれなさである。
「……で、なんてそそのかされたんだ?」
送った哀れみに観念したのか、退路を断たれた夏川はしばらく悩んだ末、潤んだ瞳でゆっくり語りだす。
「き、昨日の夜、滝くんに連絡した時くらいかな? 咲ちゃんから連絡がきてね」
やっぱり咲か、などと無駄な茶々は入れず、自由に泳がせてみた。
「好きな少女漫画とか、ゲームの話から、やってみたいデートの話になって――」
さっさと手元のスマホでやり取りを見せれば早いだろうに、わざわざ記憶頼りで語るのは、よほど内容が乙女チックなのか、何かを隠しているのかのどちらかだろう。
「インスタとかでよくみるし、こういうのしてみたいかも、鉄板って感じで! って私が言っちゃたの」
はいはい。咲が言ったのな……。
あからさまに私に乗ったアクセントは、怪しいったらない。誰か嘘の付き方をおしえてやれよ。
「これが、鉄板なのか?」
呆れて訊くと、コクンとうなずく夏川。
なるほど。脳内お花畑なアイツらしい発想だ。だとするなら、必死に庇ってるコイツを攻めるのはお角違いというもの。
「だからいろいろ聞いてきてた訳な」
「急にぶっつけ本番とか、流石に滝くんが可哀そうだと思って……」
こいつも振り回された被害者。むしろ助けようとしていた、と。
虚空にバカを浮かべにらみつけるが、恨みの届いた実感はいまひとつ。
せめて、くしゃみの一発や二発していて欲しいものだが……。
改めて、彼女が纏う衣服に意識を向ける。
ゆったりとした袖は肘の辺りで折り返され、左右に軽いスリットの走る丈は中途半端な長さ。大きいTシャツなのかワンピースなのか、どうにも判断が難しい白いトップス。そこから静かに下がる俺の視線に応えるように、いたずらな風が駆け抜け、あらわになる青いショートパンツ。どちらかと言えば動きやすさを重視したそれらは、普段勝手に抱いている夏川のイメージとは若干逸れたもの。
「似合って、ない?」
「……そんなこと言ってないだろ」
「む、難しい顔してたので、つい」
斜め掛けにされた黒いショルダーバッグも、紺のキャップも、それだけであればただの良いふり幅なのだ。しかし今回に限って別。
そう、これはいわゆる――お揃い。
上下の組み合わせはもちろん、いくつかの小物に至るまで、昨夜の情報収集を基に狙い撃たれたポイントは、色。
お互いの装いを近しく合わせるには、たぶんそれが手っ取り早い。俺でさえすぐに気づいたのだから、傍から見れば一目瞭然。そこさえ押さえていれば概ね一致。仲睦まじい印象を演出できるだろう。仮にすぐそこに潜むお節介おばさんに捕まり、夏川との関係を尋ねられたとして、ただの友達で押し切るのが不可能になる程度には、それが醸し出されてしまうのだ。
見つかっちまってたか。なら、仕方がない。
「少し走るぞ」
「え?」
しばらく掴まれていたままだった腕を解き、夏川の腕を掴む。
短い耳打ちに呆ける彼女を連れ、その場を後にした。
―― ―― ――
「行ったか?」
土曜の朝から面倒ごとに首を突っ込んで来る部外者をやり過ごす為、俺たちは道中のコンビニで立往生をくらっていた。
「た、たぶん!」
ファッション雑誌で壁を作り、その隙間から頻繁に外を伺う夏川は思っていたより楽しそうである。
「なんか、尾行してるみたいだね」
「されてんだよ」
やっかいな近隣準民はどこにでも存在するもので、あれもそれ。こんなところまで追われたのは初めてだがその理由は明白。未だ探偵気取りで観察を続ける夏川だろう。
「ずいぶん変わったお友達だね?」
こいつの友達という概念には重大なバグがあるのかもしれない。急に後ろを付けてくる中年女性が友達に当たるなら、相対的に夏川や咲が大親友に当ってしまうんだが。
「そのでかい目は飾りか?」
淡泊に否定し続ける。
「管理人だよ、マンションの。はじめは、都会人にしては親切だなーと思って接してたんだが、必要以上に構ってくるんで手を焼いてる。対岸にでかい家があるだろ? あそこに住んでるんだ」
興味深そうに頷き頷きながら、
「ホシの名前は?」
ノリノリのご様子。
「えっと、なんつったっけな……。入居した時に聞いたきりで、本人も自分をおばさんって呼ぶから、俺もそれに倣ってそう呼んでる」
ハンカチをポケットにしまい言うと、彼女はぴくぴくと顔を引きつらせた。
「私は滝くんのそういうところが心配だよ」
眉間にしわを寄せ、ムッとしてみせると、溜息交じりに話し出す夏川。
「それは、人に言われる前に予防線を張っているだけなんですよ。あれくらいの歳の人が、おばさんなんて呼ばれたいわけないでしょー」
いい終わりに合わせて雑誌を閉じる。
「ちょっと私も失礼しますね。すぐ戻ってくるから出る準備してて」
少し影の差した表情から一転。明るく微笑み店の奥へと消えた。
いや、ダブルスコアって言ってたし、さすがに30代ならおばさんでいいと思うが。
……今度表札でも確認しとくか。
適当な水と、新発売と書かれたよくわからないものも一緒に手に取り、無人レジに向かい、交通系電子マネーでサッと決済。
予告通りすぐに夏川は戻り、ほぼ同時にコンビニの扉を抜ける。
外でゴミ箱掃除をしていた店員の、様式美化した聞き取りにくい挨拶をバックに、
蒸すような湿気を感じ水を一口。
「別に私は、お揃いでも大丈夫なんだからね?」
激しくむせた。
水であったのが幸い、もしそれが一緒に買った期間限定ピーチミルクティーであったなら大惨事だっただろう。
洗面台の鏡にでもやられたな?
至ったであろう思考経路は、身に覚えがありすぎて余計に咳き込んだ。
「ほら。走らせて悪かった」
なんとか呼吸を整え、袋ごと譲渡品を差し出し話題を反らすも、
「ありがと。で、さっきの続きね? だいたい自分で仕組んだことなんだから、余裕なわけですよ。家を出た時だって、割と冷静だったんだから。なのにいきなり滝くんが出てくるだもん。びっくりするでしょ、そりゃ。なんか異常にニヤニヤしてたし。そこはかとなく恥ずかしくなっちゃうでしょ? それに――」
聞く耳持たず。ペットボトルをバッグに詰め替え、歩きながら話し、器用にレジ袋までたたむ夏川を横目に、今度こそと水を含む。
「滝くんお隣さんだったんだ」
激しくむせた。
「狙ってるだろ!?」
「お願いだから人の多いところで吹き出さないでね。恥ずかしい」
口を拭い、誰のせいだ、と食って掛かる寸前。
「送ってくれたの、うれしかったんだけどなぁ。お隣さんだったからかー」
ぼそっと物憂げな表情で俺を揺さぶる。
いつものように夏川がペースを握りいつものように話が進む。過ぎる景色は違えど、見慣れた光景。いい意味でも悪い意味でも、らしくなってきてしまった。
早めに手を打たなければ。
安易な誘いには乗らず、程よい距離を保ち横を歩いていると、駅に近づくにつれ、
少しずつ人影は増し、反比例するようにお互い口数が減る。
んー。静かなのはいいが……デートの練習としてはどうなんだ?
夏川は俺なんかより、よっぽど体裁に敏感。それは見栄とかではなく、どう見られているかをつい気にしてしまうような、気遣いの延長。装いが酷似してる以上、二人分のそれを管理してるつもりなのだろう。たまの会話も、お堅く当たり障りのないものばかり。
ここらでこちらが主導権を握らないと、終日こうなる可能性もある。そもそも今日は俺の為の練習だしなー。成果を残さないと、付き合ってくれているこいつにも悪い。よし、ここは一つ、冗談でも決めて和ませてやるか。
歩調を強め、先に構内に侵入した背中を呼ぶ。
「俺が送ってやったのはな――」
改札を抜ける混雑のピーク。続きは自動改札機の癪に障る音で遮られた。
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