3-3
「
「は? ――じゃ、なくて……どうしてですか?」
放課後。やっとの思いで職員室に足を運んだ俺が話していたのは、髭面眼鏡教師木庭ではなく、才色兼備と名高い若手女教師、
彼女はまじまじと木庭の空席を見つめ考え込み、真剣な面持ちで溜息をもらす。
ため息つきたいのはこっちなんだが。
何の罪もない彼女にさえ、不当な苛立ちを覚えてしまう。
「放課後こいって言われてたんですけど」
ここに至るまでの不幸が祟った八つ当たり。だったが、さすがは年の差。
真面目と名高い上級模範生の見せる不遜な態度にも、ひるみはしない。
「……少し前まではいたのだけど。さっき誰か来た時――」
手がかりを探るように結崎が辺りを見回すと、近くの席でさほど忙しくもなさそうに作業をしていた教師達は、その速度を上げた。
数日前、木庭の言っていたことが脳裏をよぎる。
これが敬遠されてるってやつなのか?
気まずく苦笑した結崎は、
「ちょっと待ってて」
そう落ち着いた声音で言い残し、職員室の奥へと小走りで消えていく。
腰まで届きそうな長い黒髪はシックなゴムで一つにまとめられ、緩く首元に流されている。着こなされたジャケットとパンツスタイルも相まって、より清潔感に拍車がかかって見えた。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
そんな言葉を体現する結崎が、学校全体で人気を博すのも頷けよう。ただ、そんな彼女でさえどうにもできない木庭の悪印象たるや。生徒人気と同僚人気は全く別物なのかもしれない。
点在する教師たちに目を移し物思いに耽っていると、消えていった時と同じように小走りで結崎が姿を現し、床を走る何かのコードに躓き、派手に転倒した。
大、丈夫か?
見かねた近くの女性教師が肩を貸し、気を付けてくださいね、と優しく立ち上がらせる最中。いやほんとすみません、そう顔を真っ赤にして謝る結崎の姿は、なんだか彼女のイメージを崩れさせたが、毅然とした振る舞いを心がける普段との落差は、そのふり幅を可愛らしいものに変える。
「忘れなさい」
取り繕っているつもりなのだろうが、結崎の表情は俄然、紅い。
誤魔化すように埃を払いながら、少しボリュームを落とし彼女は続ける。
「鍵がなかったらあの場所かな」
回れ右。と俺の体を反転させ、職員室の出入口までこちらの背中を押す結崎はたぶんまだ恥ずかしいのだろう。どこか上ずった声でそのまま語り掛けてきた。
「元第二歴史資料室。場所、わかる?」
「え。まぁ、一応」
返事を確認するや否や、手際よく出入口扉を引き、俺を追い出す。
そして最後に一言。
「教えてあげたのだからちゃんと忘れるのよ?」
そう釘を刺し、結崎は丁寧に出入口扉を閉めた。
―― ―― ――
元第二歴史資料室、もとい、木庭の秘密基地に向かう中、俺は忘れかけていた怒りに支配されていた。
全く風を吹かすつもりのない景色には目もくれず、大股で一人、渡り廊下を行く。
日光に焼かれていることも相まって、そのボルテージは青天井。人気教師の貴重なギャップシーンを思い出してみたとて、到底収まるものではない。
なにが、ここからは二人で、ね! だ。
脳内再生される
職員室に入る際に止めた第一ボタンを外し、じっとりと汗で張り付くワイシャツを引っ張る。
だめだこりゃ。ま、髭眼鏡に会いに行くだけだし、いいだろ。
ぱたぱたと肌と服とに隙間を作るも大した効果は無く、かくなるうえはと行き着いたのは、学生ズボンの裾を折り返し、膝の少し下まで丈を短くする荒業。制服の変形は原則禁止と生徒手帳にも書かれていたが、今は緊急事態。それに、バレなければなんとやら。上級模範生の称号なんてものは、孤独の後からついてきただけで、はなから興味などないのだ。
気持ち涼しくなった足元で、目的地を目指す。
元第二歴史資料室は特別塔にある。
髭眼鏡め。
顎に滴る汗を手の甲で拭い、階段を駆け下りる。
目的地の元第二歴史資料室は特別塔1階、最南端。一般塔4階の最北端に位置する1-Aからは対極にあり、木庭がなぜこんな
一度足を止め、少しづつ落ちてくる裾を捲り直し、再出発。
クラスの明るい男共が好んでこのスタイルを選択しているものだから、さぞ快適なのだろうと期待していたのに……。
雀の涙じゃねえか。
規則を破った対価としては小さすぎる効果に床を蹴り飛ばすも、上履きの擦れる音が廊下に反響するだけで、なんの爽快感もありはしない。
ダメだダメだ。いくら頭にきてるからといって、ものにあたるなんてナンセンス。
幸か不幸か、己の犯した愚行は、考えることをやめていた脳を再稼働させた。
ともすれば、俺が悪いなんてこともあるかもしれない。
よし、ここは一つ、自分を見つめなそう。
高ぶる感情を抑える為、強引に歩調を弱める。
――金曜の6限終わり。掃除が直ぐに始まることなど、極めて稀。
翌日に控えた土日は、彼らの心にゆとりを生むのかもしれない。
俺はそのゆとりを無駄にしないできる男。
刻一刻と迫る重大な任務で途中で催してはこまると、あらかじめトイレに足を運んだのだ。
ぱぱっと用を足し終え、ハンカチで手を拭いながら教室に戻った時、得体のしれない光景に度肝を抜かれた。
机は一塊りに寄せられ、既に掃き掃除が始まっている。と、まぁ、これだけであれば珍しいことで片が付く。問題は――その人数。名簿四分割の掃除班は十余名。しかしどうだ、ここにはたむろしてる者を含め、おそらく倍はいるだろう。
どうなってるんだ……。
雑踏を縫うようにゴミ捨ての相方である
立ち込める暗雲、いつもの嫌な予感。
そうだ、夏川。
あいつなら何か知っているかもしれない、と慌てて探した頼みの綱は、既に備品補充へ出かけたのか、同じく影も形もない。
できる男は、できない男に早変わり。出入り口で佇む俺に、辺りの視線が集中した。
不気味さに固まること数秒。
一番近くで箒を扱っていた女生徒、名はたしか、山田。彼女は数歩踏み出しずいぶん興奮した様子で告げる。
「彼女、先に行っちゃったけどいいの? 追わなくて」
その一言を理解するには、そこそこの時間がかかった。
俺と夏川の関係、ひいては友達作り計画をクラスにさらした記憶はない。
つまり、付き合っているなんて噂が立つ訳がない、イコール、この場合の彼女とは、普通に日向を指しているのだろう。
それはわかったが……。
教室に満ちた鬼気迫る空気。床を拭く男子も黒板を消す女子も、聞き耳を立てているのが丸わかりだ。
なんなんだ、今朝から!
終日続いた一挙手一投足を値踏みされるような感覚。
新手のいじめを疑う仕打ちに、堪忍袋は限界寸前。
だが、ここで我を忘れれば、ふらんどをるの二の舞になる。
「助かったよ。丁度探してたんだ」
観測者気取りの山田に、精一杯に皮肉を込めたニュアンスで返し、俺は走り出す。
間に合うか?
教室のゴミ箱は合計に二つ。それなりに膨れ上がった状態で運ばれていくのを度々目撃する。もちろん今日も例外ではないだろう。けれど、それを運ぶのは小柄で華奢な女の子。全力疾走でもされない限り、追い付けないわけがないのだ。
気合を入れ、階段を飛ばし飛ばしで跳ね下り、開けた廊下に目を滑らせる。この流れを繰り返すこと二回。しかし――
いない? 追い越した、はず、ないよな。もう外に出たのか?
昇降口まで来ても彼女は見当たらなかった。
ローファーに素早く履き替え、体育館近くに設置されたゴミ捨て場へと急ぐ。
校舎の外は照り返しもあり、残暑への憎しみがより一層増したが、止まるわけにはいかない。仮に日向が先を行っているのであれば、条件は一緒。むしろ荷物を抱えている分、彼女の方がよっぽどだろう。
一応、状況をラインしておくか。
ながらスマホは事故の元。乱れた呼吸を整えるインターバルがてらに足を止め、ちゃちゃっと夏川に連絡を済ませて再び動き出す。も、結局ゴミ袋を持った少女を捉えることはできず、追加の連絡を考えた頃。視線の先から作業を一人で完遂させたであろうシルエットが、てくてくこちらへ向かってくる。やたら大きく感じる黒縁眼鏡に、可愛らしさと機能性両立の短髪は、遠目だろうがその識別を容易にさせた。彼女も俺を認識したのか、露骨に歩く速度を落とすも、着実に距離は縮まっていく。
ま、まずは掃除の件を謝ろう。自然に、自然に接すれば大丈夫。
付かず離れず、突かず離れずの距離感だ。クレバーにそれを保て。
互いに残り数メートル。
先手を打つように頭を下げた。90度。文句なしの最敬礼。
止んだ足音は、話を聞く意思の表れと取っていいのだろうか。
憂慮する間に、先に日向が口を開く。
「……なんで来たの? わざわざトイレに行って時間を作ってくれたんじゃ」
信じられない、そんな感情を乗せた声音。
ん? こいつはいったい、何を言っているんだ?
慌てて背筋を伸ばし、首を傾げて見せるも、額を抑え俯く日向は、なにか思考を巡らせている最中。邪魔をしないように数拍様子をうかがってから、
「俺もゴミ捨て当番なんだ、全部――」やらせてわるかった。
言い切る前に、そんなことはいいの、と彼女は話を遮り、独り言のように続ける。
「誰の悪戯だろうって考えてたけど、まさか噂の出どころって――」
向けられた鋭く冷たい視線に、何かが食い違っていることを直感で察した。
「いや、違う。何が違うかと言われれば違うとしか言えないが、とにかく違うんだ。冷静に話し合おう」
泣く子も黙る威圧感を放ちながら歩を進める日向に、
「とりあえず、このことも含めて」
焦りに焦り、適当に言葉を繋ぐ。
「……昨日は、悪かっ――」
1メートルを切る至近距離で彼女を捉えたのが最後。
何かが弾けた不吉な音と共に、大きく視界が揺れた。
胸倉を引っ張れたのだ。
「クラスで変な目で見られようが、妙な噂に巻き込まれようが……私は気にしない。けど、もしこれで
くっきりとした目を大きく見開き、寸前で凄む日向は、掴んだワイシャツごと俺の体を突き返し、横を通り抜けていく。
「……え?」
千切れた第二ボタンと共に、容赦ない日差しを浴びながら原因を辿っていた時間は、完全なる虚無。気が付いた時には、既に全身汗だくになっていたのだ――
トイレか? もしかして、トイレに行ったのが行けなかったか?
付かず離れずの維持。押してダメなら引いてみな作戦の内容を
日向を一度見失った時点で、どっちにしろ詰んでいたことを悟る。
生理現象だぞ?
俺の基本的人権を無視した夏川とは、一向に連絡が取れていない。
日向の部活が終わるまでの待機場所を探しながら、俺が発信する救難信号を返す。
それが彼女の仕事であったはずだ。
何が二人でだよ、職務怠慢きめやがって。
未だに既読のつかないスマホとにらめっこしながら、液晶の光を落とす。
まったく勘弁してくれよ。
何一つ問題が片付いていないのに、立て続けに次の問題が発生する。
そんな今日という日を厄日と呼ばず、なんと呼ぼう。
さて、この落とし前、どうつけさせてやるか。
廊下の角を曲がると、元第二歴史資料室が見えてきた。
現状の優先事項は木庭である。
前回呼び出され足を運んだ時も、されたのは至極どうでもいい話。
髭眼鏡のことだ、十中八九、今回もそうなるに違いない。
話が終わるころには、既読もついて、返信も届いているだろう。
そう出入口扉に手を掛けた時だった。
「余計な事しないで」
元第二歴史資料室から響く聞きなれた声に、よくわからぬまま飛び退く。
厄日よりひどい日は、なんていうんだ?
つい先ほど脳内再生されたものと同じものを間違えるはずがない、夏川だ。
だが、夏川にしては気が立っているというか、なんというか、落ち着きがない。
「もう自分でなんとかできるから」
「わかったから機嫌直せ。みんな心配してるんだ」
ガラッと出入口扉が開き、そこから気だるげに現れた木庭と視線がぶつかる。
盗み聞きしようとしていたわけではない。そうなってしまっただけなのだ。しかし、体は自然と一歩後ずさる。
いや、引くな! たらい回しにあった俺が攻められるいわれなどない。いけないのは勝手に場所を変更した髭眼鏡であって――
「えらく荒れてんな?」
はだけたワイシャツと、捲り上げたられた俺の学生ズボンを確認した木庭の一言が、思考を遮る。
「私は至って冷静ですー!」
自分が言われたと勘違いした夏川の声が、俺の答える暇を潰す。
「そういう日なのか?」
自分より一回りはでかい髭の言葉に、いまいち状況がつながらなず、黙りこくる。
「そういうの、オジサンみたいだからやめた方がやめた方がいいよ」
死角から再び、夏川。
「俺はおじさんみたいじゃなくて、おじさんなんだ」
資料室に首から上で吐き捨て、話しかけているのはお前じゃない、そう言わんばかりに出入口扉を閉めた。そしてすかさずこちらに視線を落とし深みのある低音で訊く。
「どこから聞いてた」
味わったことのない緊張感が背筋を震わせる。
「……よ、余計なことしないで、って、あたりから」
まるで自白剤でも飲まされたかのように、ありのままを素直に答えてしまう。
依然として身動きがとれず、固まったままの俺の頭を、ゆっくりと近づいてくる髭の分厚い掌が鷲津噛み頭皮に一瞬圧力を感じた後、わしゃわしゃっと髪を唐突にこねくり回され、身を縛っていた体の強張りがほぐれた。
「そうかー。じゃ、あとは任せたぞ」
普段と変わらない、気の抜けた声で擦れ違う木庭の背中に問う。
「任せたって――話は!?」
「俺は余計な事したらだめなんだとさ」
だからまぁ、と一度言葉を切り、
「あいつをよろしくな」
振り返ることなく廊下を進んでいく髭眼鏡は、当てにならない。ただ、答えはこの扉の先にある。そんな気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます