1-2
「山田」
「はーいっ!」
「山中」
「うぃす」
「渡辺」
「あい」
賑やかな朝のHR中。一定の間隔で座る人の並びに、やたら目に付く空白があった。
「えーー……本日、夏川はお休みです」
辺りよりも一段高い教室最前方に立つ、無精髭と淵なし眼鏡が印象深い初老の男は、大きな体を教卓に寄りかけただらしのない姿勢のまま気だるげに生徒達の点呼を取り終えると、最後に短くそう付け加え、直ぐに次の話題へ移っていく。
「で――昨日も言ったが二学期は大きな行事がいくつもあってな。とーぜん配布物も増えてくるわけだ」
申し訳程度に声を張りながら、彼は団扇代わりに使用していた紙の束を手近な生徒の机にぱすっと置き、豪快に欠伸を一つ。
「あー失敬失敬。寝不足でな、最近。お前らも海外ドラマも観過ぎには気を付けろ」
1ミクロンも悪びれていないそんな謝罪の間もプリントは横へ後ろへと数を減らす。
一学期を経て担任と生徒たちの意思疎通能力が高まったせいか、我がクラスでは点呼やプリント配布のようなルーティンワークに付随した説明は、軒並み簡略化されてきていた。この調子だと三学期に入る頃には、点呼は室内を眺めるだけの目視確認に、プリント配布は完全セルフサービスになってしまうのではなかろうか。
って、まてまてまて。今はそんなことに気を取られている場合じゃないだろ、俺。
自分で自分にツッコミを入れ、問題の席を見やる。
……な、なんで休んでるんだ? アイツ。いや、季節の変わり目に体調が崩れるのは
別に珍しいことではないのだが……それが、たまたま今日なのか?
昨日の様子を思い浮かべつつ、欠席理由を推察するもさっぱり頭が回らない。
こちとら夜なべして言いたいことを纏めたっていうのに……。だいたい髭眼鏡も髭眼鏡でもっと詳しく休みの理由を話してくれ。なんで一言で終わらせてんだよ。そこは省略しちゃダメなところだろーがっ。
そう湧き上がる不平不満を心の中で叫びつつも、俺の体に染みついた習慣は大人しくプリントを後ろの席へと回す。
「ってなわけで、いつも通り作ってあるからな。頼むぞー、お前ら」
背後で無駄に艶めかしい低音を響かせる髭眼鏡は、やはりプリントが全体に行き渡ったかどうかなどを確認するつもりはないのだろう。手早く話を締めくくり、問答無用でまた別の話題へ移っていく。そして、一通り必要事項の上辺を浚い終えると、余った時間は毒にも薬にもならない彼の雑談タイムに充てられるのだ。
……なんだかなぁ。
こんなの誰がどう考えても職務怠慢に抵触するはずなのだが、今のところそれが咎められた気配はない。むしろ「この雑なところが気楽でいいんだよね~」と、大多数の生徒から厚い支持を得てしまっているときた。更に加えて言うなら、くたびれた態度や風貌に似合わず、配布されるプリントは懇切丁寧に作られている為、俺みたいな事なかれ主義のヤツはなんだかんだ文句を口にするまでには至らない。
つまり、上手く丸め込まれてしまっているというわけだ。
悲しい現実に、俺は頬杖突いたまま大きなため息を吐く。すると、珍しいこともあるもので、HRから零れるのが当たり前の雑談タイムが時間内に終わりを迎えた。
「――んじゃ、続きはまた明日な。今日も暑いが、なんとか気合いで乗り切るぞ」
この結びの言葉にしても、大部分がほぼ変わることのないお決まりではあるのだが、そのお決まりは一限目の担当教師に彼が追い出されながら発せられるので、まともな形で全てを耳にできるのは本当に珍しいことなのだ。というか、そもそも歳の近さでなんとかする友達教師枠では無いのだから、親しみやすさではなく厳格さとか授業の質で勝負して欲しい。まぁ、あのアホ面にそんなことを期待するのは無駄だろうが。
じゃ、なくてだな! 今は夏川だ夏川。なんなんだ? アイツは。人によくわからん頼みごとをしておいて自分は勝手に休むとか。もうちょっとなんかあんだろ……! いやあれか? 実は欠席連絡をする際にでも髭眼鏡に伝言を頼んでいたが、きれいさっぱり忘れられてるとかそういうやつか? やっぱり問題はあの担任なのか!?
そう俺が訝しげに髭眼鏡の後ろ姿を睨みつけた瞬間。視線の先で教室の出入口扉に手をかけていた彼は、おもむろに首から上だけをこちらに向け、先程と寸分違わぬやる気のない様子で口を開く。
「あー、そうだそうだ。
……は?
そして、突然の呼び出しに固まる俺の返事など待つ気配もなく扉を開け、そそくさと姿を消してしまった。
「おいおいおい何やらかしたんだよ~」
なんて机に詰め寄りながらおちょくってくる友達は存在しない為、一人で呼び出された心当たりを探るも、微塵も思い当たる節がない。当然、理由不明の欠席で俺を混乱させていた夏川の事もところてん方式で頭から消えさり、悩みの種の上書きは終了。更に教室には一限目の教科担任が姿を現していて、ざわつく室内に適当な着席号令を掛ける。
……落ちつけ、落ち着くんだ俺。成績はなんの問題もない。むしろいい方だろう! 胸を張れ胸を。じゃあ、生活態度か? それもわりかしいい方だろ!? いや、もうやめよう、考えるのは。何を言われても自分に非がなければぴしゃりと断れるはず。
どこかで感じたことのある悪寒を他所にそう自分に言い聞かせ、一旦気持ちに整理をつけると、俺は机にあらかじめ準備しておいた教科書を
―― ―― ――
四限終了の鐘。即ち、昼休み開始の鐘が鳴る。
校内には、総菜パンや紙パック飲料などが売られている購買部が二か所と、学生の懐事情を考慮した食堂が存在する。が、その食堂は定員に限りがあり、三年生の教室が一番そこへ近いことから、上級生との交流が浅い下級生にとっては、近寄り難い場所として有名であった。
「おら、なんでも好きなもん選べー。俺のおごりだ」
しかし、それも先輩や教員が同伴となれば話は別。仮にそれが我がクラスの担任こと髭眼鏡であろうと、得られる恩恵の大きさに差はないのだ。
「えっと……じゃあ――この日替わりの……B定食を――お願いします」
「じゃあ、このトレー持ってこっちね」
「え、あぁ、どうも」
ぺこっとおばちゃんへ頭を下げ、誘導されるがままに列に並ぶ。
……なんか久々だ、他人に親切にされるの。
謎の高揚感に包まれたまま食堂の内装に視線を走らせ、手持ち無沙汰の時間を潰していると、目に付いた机や席にはある程度の空きがあり、近寄り難いと噂になっていた前情報とはずいぶん違う印象を受けた。
広いし綺麗だし、なんというか……和やかだ。
更にそう一人で耽る間も、調理場からは芳ばしい香りが漂い、その落ち着いた雰囲気に拍車をかけている。
なかなかいいな、食堂。うん。気に入っ――
「すまん滝、金かしてくれ。……いや、電子マネーならあるんだが――」
俺の上機嫌は、まさかの担任教師からのたかりにより、木っ端微塵に破壊された。
……なんなんだ、まったく。
その後、流れ作業でお代の支払いまでを済ませ、先にテーブルで待っている髭眼鏡の対面に腰を下ろし問う。
「で――なんで食堂なんですか」
けれども彼は大柄強面な外見に似合わず、ハムスターのように頬を膨らませたまま、ちょっとまて、そう推測できる言葉と共に掌をこちらに向けて、既に目一杯口の中へ詰め込んでしまったご飯を飲み込む時間を稼いでいた。
「あー、すみません。そんな焦らなくていいですけど。……こっちも、食べながらでいいですか?」
自分の定食から髭眼鏡に視線を移して尋ねると、こちらへ静止を促していた掌がくるりと下を向き、承諾の意を表す。
この人ほんとに目上の人間なのか? HRの言動といい、食堂に現金を持ってこないところといい、生徒に金を借りときながら遠慮なく先に食ってたり、その食べ方までなんとなく汚かったり、疑わしいにもほどがあるぞ。
……ま、何はともあれ、だ。
荒ぶる心を落ち着かせ、ひとまず味噌汁をすする。
「
完全に意識の外から発せられたその一言に、俺はひどく驚いて咳き込んでしまった。それも、口内に味噌汁を含んだ状態で、だ。その後は言うまでもあるまい。
盛大に
「夏川の事だ」
「すみません、スルーしないでください」
「20年教師やってるとなぁ、味噌汁吹き掛けられたことの一回や二回……」
どこか遠くを眺めながら紡がれていた言葉は、尻すぼみに霧散しいく。
「あの……怒ってます? 怒ってますよね? 絶対」
「夏川の事だ」
「わかりました! 夏川の事ですね!? なんでしょう、なんでも聞きますから!」
そう自らを鼓舞するように、馴れないハイテンションで相手の出方を伺うこと数秒。眉間に
「一学期の頃から夏川が頻繁に学校を欠席していたの知っているな?」
「はい」
……そう、なのか?
食い気味に返事を返したはいいが、いまいちその記憶がなかった。けれど、
――私、一学期あんまり学校来てなかったからクラスの事情とかに疎くて……ね?
計ったように昨日のやり取りが思い浮かび、どことなくふわついていた彼女の存在に
見当がつき始める。
あぁ、あれはそういう。確かに言われてみれば、いなかったような気がする。不登校
かなんかなのか?
「で、だ。これを届けてくれ」
「はい――」
再び俺が形だけのいい返事を返すと、髭眼鏡の鋭い眼光が僅かに和らいだ気がした。
その小さなサインに、目下の
まったく、一時はどうなるかと思ったが、やっぱり髭眼鏡は髭眼鏡だ。返事だけでいくらでも
「ちなみにアイツの家の部屋番号だが――」
けれどそんな仮初の平穏は、すぐに終わりを迎えた。
ん? 届けてくれ?
先程駆け抜けていった髭眼鏡の一言に、時間差で俺の脳みそが気が付いたのだ。
はい!?
「届けろって――俺がですか?」
慌てて返した疑問は何一つ彼の抑止力にならず、髭眼鏡は茶碗片手に時計を見遣り、
「おう、他に誰がいるんだ。連絡はしておく。あとこれ、鞄の中にあったから小銭の利子代わりに貰ってくれ。残りは明日返す」
そうつらつら言い終わるや否や、彼は複座くそうな顔で残りの定食を掻っ込み、水で流し込む。
「俺は授業の準備があるから先に戻るぞ」
ところが髭眼鏡は、席を立ち足早に返却棚へ食器を戻した後、何かを思い出したように急いでこちらへ引き返してきた。
「そうだ、滝。人に味噌汁を掛けたらちゃんと謝れ。大変なことになる」
「え――あぁ、すみません。申し訳、なかったです」
授業では見たことのないレンズの奥の真剣な眼差しに、思わず謝罪が漏れ出る。彼はそれを確認すると何かに満足し、今度こそ食堂から姿を消した。長テーブルの対岸に綺麗な小箱と、いくつかのプリントで膨らんだクリアファイルを残して。
……訳がわからない。
俺は託されたそれら手近に引き寄せると、ほぼ手付かずで放置された日替わり定食を平らげ、重い足取りで食堂を後にしたのだった。
―― ―― ――
徒歩45分。都会の中の田舎。緑の見える綺麗な遊歩道。小洒落たカフェにケーキ屋さん。隠れ家的な美容室。歩を進めるごとに姿を変える街並みは、景観として美しく完成されている。俺が気軽に入店できるかどうかは別として、なかなか気に入った通学路だ。そのはずなのに、目的地が近づくにつれ気分はどんどん憂鬱になっていく。
昼休みに髭眼鏡から受け取ったクリアファイルは、片面が透明な作りになっていて、中が可視化されているものだった。そしてそれには、学校の最寄り駅から目的地に至るまでの手書き地図が目に付きやすい様に同封されており、紙の余白には行動手順を記したフローチャートが丁寧に記載されている。しかし、電車通学者用に作成されたチャートは、あえて徒歩通学を選ぶ自分にとっては恩恵が小さく、途中合流を余儀なくされた。
えーっと……この辺からか。まず、駅を背にして右。んで、次は先の交差点を――
見覚えのある道を、チャートに沿って進んでいく。
駅名を見た時もしやと思ったが、やっぱり夏川って近所か。
稀に過ぎ去る車に注意を払いつつ、ひた歩いた先。辺りのマンションの名前と、紙に記されたマンションの名前をしらみつぶしに照らし合わせにかかる。
――
ご近所ではなく、お隣さんだった。
「……まじ、か」
限りなく語彙力の低下した独り言が、無意識にこぼれ落ちる。
つーか何階建てだよ、ここ。高くないか? 物理的にも、家賃的にも。
隣に数か月住んでいて、まともに気にしたことのなかった建物は、クラスメイトが住んでいる、そう考えるだけで、辺りのものと比べ少し豪華に見えた。
「んー」
我が家の在って無いようなオートロックとは違い、エントランスに近づくだけで防犯の堅牢さを感じさせる彼女の城に、つい唾をのむ。
……他人の家の呼び出しボタン押すのって、無駄に緊張するな。いや……大丈夫だ。さっとこれを渡して帰るだけ。仮にちょこっと話したとしても、かかって数分。なんならあれは気の迷いだったの一言で済む。勢いで行けばどうとでもなるはず。よし。
深呼吸をし、一度メンタルリセットを図る。
って――あれ? ……アイツんちの部屋番、いくつだ?
背筋に悪寒が走り、急いで手元のクリアファイルの中を確認するも、それらしき文字はない。
そうだポスト! ポストになら名前が! こういったものは左から順に並んでるし、それを下から辿っていけば番号も――
そもそも名札が入っていなかった。
なにやってんだよ、あの馬鹿担任!!
全てを責任転嫁した魂の咆哮が全身に木霊する。
くそ、こんなところで都会人のリアリズムを体感するなんて、思ってもみなかった。
頭を抱え、視線を落としたまま思考を巡らせる。
住人でもないのにここに居続けるのは、客観的にみておかしい。どうする!? もう一旦諦めて家に帰るか?
そう焦って顔を上げた瞬間。眼前の自動ドア超えた向こうに見えるエレベーターが、音もなく口を開けた。
「あっ、ちょうどよかったー。さっき電話あったから、下で待ってようと思って」
心の準備を許さない突然の
「今日もずいぶん暑いのに、届けてくれてありがとね。喉とか乾いてない?」
両手差し出した彼女が先に口火を切るも、こちらはそれどころではない。
脳みそは考えることを諦め、脚は根が生えたかのようにエントランスへ張り付き動かない。言いたいこともあったはずなのに、
「……ぁあ、えーっと、うん。ちょっと待てくれ」
あれ、何言おうとしてたんだっけ? ポスト……じゃなくて、もっと前だ。そう! そうだ! 部屋番号、部屋番号だ! ん? あれ? そうだったっけ?
混乱の中、幾つか柏手を打たれ覚醒を促された気もしたが、残念ながら効果はなく、諸々を諦めた彼女に腕を引かれるままエレベーターへ収容されたのも束の間。俺を牽引していた夏川は、自宅のものであろう扉の直前で立ち止まると、こちらへ振り少し気まずげに告げる。
「そうだそうだ。ごめんね、ここでちょっとだけまっててくれる?」
しかし言ったはいいが、既にまともな答えが返ってくるとは思っていないのだろう、彼女は口を開きかけた俺に気付くことなく家の中へと姿を消した。
どういう状況だ、これ。
ぼーっと突っ立ている今の俺を例えるなら、まるで借りてきた猫。スマホを確認する余裕もなく、きょろきょろ辺りを見回すだけ。
……高。ここ何階だよ。
それから何分待ったのだろうか。突如響いた鉄の噛み合わせが外れる音に慌てて振り向けば、僅かな空間からひょこっと半身を覗かせた夏川が、笑いながら言う。
「ごめんね。さ、上がって!」
差もそれが当たり前のように掛けられた彼女の声と、玄関から漏れる素晴らしい冷気に惑わされ、何故か俺は敷居を跨いでしまったのであった。
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