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2020年2月18日 23:38 編集済
物を書いている人間の端くれとしては、語り手の妹だけでなく、クズ人間の兄貴の方にも感情移入してしまうのが、ちょっと悔しいですね。 普通、クズ人間と言ったら明確な悪意を持っていたりある種の人間を軽蔑していたりしそうなものですが、この兄貴は自己を客観視する能力が決定的に欠如しているタイプのクズ人間なんですね。そして、おそらく彼なりに妹を慮った結果として、ウザい人間に仕上がっています。自己を客観視できないことはこんなにも罪なんですね。肝に銘じます。 妹は仕事に疲れてイライラしている描写が多いですが、真面目で善良な女性なんだろうということが伝わってきました。「駄作」「どこか支離滅裂」程度にしか思わなかった小説について、最終的には具体的に論評する辺り、読者としても誠実な人だと思いました。少なからず面白みがあると思っているならまだしも、本心から駄作でしかないと思っているにもかかわらず、ここまできちんと作品に向き合ってくれる読者がいたら、そりゃ物書きとしては嬉しいでしょうよ。 最終話の締めの言葉も秀逸で、よくできた短編だと思います。 誤字脱字以外に気になる点はほとんどないのですが、ひとつ言うとすれば、タイトルに関することでしょうか。 本作のタイトルが「誰か!私の兄を、私のかわりに殴ってくれませんか!?」で、それに関連して第4話のタイトルに「誰か、私の兄を。私のかわりに殴って、あげてください」、そして本文中に「誰か私のかわりに、私の兄を殴ってくれませんか?」とあるのですが、この辺の文言は揃えた方が、様式美というか、読んでスッキリすると思いました。<追記> 返信ありがとうございます。 僕の読み込みが甘くて誤解をしていましたし、書き方もまずかったと思いますので、お詫びも兼ねて補足をさせていただきたいと思います。 猫のまんまさんご自身からの解説を読むことで、作中の兄貴に対するイメージが変わりました。 僕が読んだときは、彼はゲームばかりしている、妹が不機嫌であるにもかかわらずヘラヘラ笑って自己中心的な要望を押し通そうとする、うつなどの事情がある訳でもなさそうなのに無職であることに罪悪感も不安もない、(おそらく家事を手伝う訳でもなく)親のすねをかじってばかりいる、と思ったら密かに小説を書いていた、しかもその小説は見どころが一切ない支離滅裂なだけの「駄作」、という展開なので、正直、クズ人間が現実逃避のために小説を書いていたのだと思っていました。 しかし、兄貴の方に不安感や焦燥感があって、執筆に対して彼なりに一生懸命で、ゲームはただの休憩でしかない(あるいは家族に執筆活動を悟られないようにゲームをしている姿しか見せていない)のであれば、だいぶ話が変わってきます。 これはたしかに僕の想像力の欠如と、読み込み不足による誤解です。妹が人間としてリアルに描かれている作品なので、兄貴の方も悩みを持ったリアルな人間として設定されていると考えるべきでした。安易にクズ人間と決めつけてすみませんでした。 ただ、仕事に疲れた妹がそうと気づかないのは分かるのですが、個人的な感想を率直に申しますと、兄貴が実はそういう人間であったという何かしらの伏線は欲しかったかな、と思わないこともないです。たとえば、兄貴の趣味がゲームではなく読書だとか、夜中に自室の机に向かって何かしているだとかの描写があると、読者的には分かりやすかったのではないかと思います。 さて、タイトルなどに関することですが、結論から言えばこれも僕の読み込み不足でした。すみません。 僕としては、まったく同じ文言が物語の序盤と終盤で全然違う意味を帯びる、というところに面白さを感じさせる表現かと思ったので、揃えた方が良いと言ったのですが、文言を微妙に変えることで語り手の心情の変化を表現しているということであれば、それはそれでありだと思います。 ただ、ひとつには句点のこと、もうひとつには語順の違いが、まだよく分かりません。 前者の疑問はつまり、サブタイトルの方で「誰か、私の兄を。私のかわりに……」となっていますが、ここは「私の兄を。」ではなく「私の兄を、」ではないかということです。 後者の疑問は、タイトルとサブタイトルでは「私の兄を、私のかわりに」となっていたのに、本文中でだけ「私のかわりに、私の兄を」の語順になっていることについてです。これはさすがにどちらかに揃えた方が良いような……気が……。もちろん、語順の違いによってニュアンスも変化している気はするのですが、読者がそこまで汲み取るかと言われるとちょっと怪しい気もします。 また的外れなことを言っていたら、先に謝っておきます、すみません。
作者からの返信
コメントありがとうございます! この作品は、当初コメディタッチで進んでいって、メッセージのあるものにしたかったのですが……兄妹の悩みがあまりおふざけでは、書いてはいけないと思い路線を変更した作品になります。 兄の悩みは、同じ書き手として私も同情してしまうので、クズ人間には見えてないんですよね。どちらかというと、必死に、自分が思う人生を生きているなぁと思ってしまいます。 テーマは「兄妹が思っている、生きている意味』 なるべく、重い内容にならないように兄を明るめに書いています 予定では、四六時中、自分のしていることに対して不安で手が震えています。ゲームをしてる時や自分の部屋にこもっている時ですら、「大丈夫……大丈夫……』と手を震わせているほどです。 ただ、できる妹の前では、見た目だけ上でも兄としていようと気持ちがあるためウザく絡んできます(内心は、妹にも嫌われていつだろうな、と不安でガクブルです) サブテーマは『どういったって、兄妹』です。 どうしても、歳を重ねるごとに兄弟の間に溝みたいなものが生まれる人はいると思います。ですが、どれだけ溝ができたとしても、小さい頃から一緒に育った者として、見放すことはどうしてもできない……それが兄弟だと、私は思います。 タイトルとサブタイトル、作中の文がそれぞれ違うのは、わざとだったりします。 まず、「誰か!私の兄を、私のかわりに殴ってくれませんか!?」は、誰かに呼びかける一文になっています。どこかコメディなジャンルのイメージがわきますね。 次に、「誰か、私の兄を。私のかわりに殴って、あげてください」は、『あげて』ってことは、誰かに呼びかけるのではなく、誰かにお願いする文になっています。あと、感情的な部分が少ないように感じますね。 最後に、「誰か私のかわりに、私の兄を殴ってくれませんか?」というのは、物語がはじまる前までは感情的に兄のことが悪いと、一方的に言っていましたが、物語終盤になると私の心情はいつの間にか、そんな兄を感情的に止められるほどの気持ちを持っていないことに気づきます。そして、締めくくりとして、ここまで読んだ読者に向けて「、自分には兄を殴れないので、殴れる方がいるのであれば殴ってください」と問いかけみたいな感じで物語は終わります。 ようするに、主人公である私の心情の変化をタイトルの一文で、説明できたら面白いなと思って、書いたものになります。 全体として、文言を揃えて読む方がスッキリするかも知れませんが、私の変なこだわりみたいなものなので、変える気はないです……すみません。《追々記です!》 何も謝る必要はありませんよ、あじさいさん! 私は、特に怒ったり不愉快な気持ちにもなってはいません……むしろ、こういった議論みたいなことが出来て、嬉しく思います! ありがとうございます! では、さらにこの作品の内容について話をしますと、キーポイントとして、『どこまでを説明して、どこまで読者に理解してもらうか?』ということが、今回の議題だと思います。 自分ではない他者が、もう一度その作品を読んで理解されないということは、伝わっていないという証明になります。 よって、兄の心情をもっと書き記す必要か、そのような状況を何らかで、示唆する必要があるのは明白ということで……。 時間ができたら、何か考えて書き直しておきます! ありがとうございます!(回りくどい言い方をしてすみません) では、あと一方の句点の話になるのですが、私の中では、読み点(、)は文章を読む際の呼吸ということをどこかで聞いたので、それをイメージしています。 ならば、句点(。)は何かと申しますと、文章の区切り、もしくは、一旦の話の終わりだと、私は考えています。 なので、「誰か、私の兄を。……」で、わざとらしく区切っていたりします。 確実に言えるのは、書き手側の勝手なこだわりで、読み手には伝わないものになります。 ですが、私としてはそれはそれで面白いと、自分で思っているのでやっぱり変える気はありません。ごめんなさい。
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物を書いている人間の端くれとしては、語り手の妹だけでなく、クズ人間の兄貴の方にも感情移入してしまうのが、ちょっと悔しいですね。
普通、クズ人間と言ったら明確な悪意を持っていたりある種の人間を軽蔑していたりしそうなものですが、この兄貴は自己を客観視する能力が決定的に欠如しているタイプのクズ人間なんですね。そして、おそらく彼なりに妹を慮った結果として、ウザい人間に仕上がっています。自己を客観視できないことはこんなにも罪なんですね。肝に銘じます。
妹は仕事に疲れてイライラしている描写が多いですが、真面目で善良な女性なんだろうということが伝わってきました。「駄作」「どこか支離滅裂」程度にしか思わなかった小説について、最終的には具体的に論評する辺り、読者としても誠実な人だと思いました。少なからず面白みがあると思っているならまだしも、本心から駄作でしかないと思っているにもかかわらず、ここまできちんと作品に向き合ってくれる読者がいたら、そりゃ物書きとしては嬉しいでしょうよ。
最終話の締めの言葉も秀逸で、よくできた短編だと思います。
誤字脱字以外に気になる点はほとんどないのですが、ひとつ言うとすれば、タイトルに関することでしょうか。
本作のタイトルが「誰か!私の兄を、私のかわりに殴ってくれませんか!?」で、それに関連して第4話のタイトルに「誰か、私の兄を。私のかわりに殴って、あげてください」、そして本文中に「誰か私のかわりに、私の兄を殴ってくれませんか?」とあるのですが、この辺の文言は揃えた方が、様式美というか、読んでスッキリすると思いました。
<追記>
返信ありがとうございます。
僕の読み込みが甘くて誤解をしていましたし、書き方もまずかったと思いますので、お詫びも兼ねて補足をさせていただきたいと思います。
猫のまんまさんご自身からの解説を読むことで、作中の兄貴に対するイメージが変わりました。
僕が読んだときは、彼はゲームばかりしている、妹が不機嫌であるにもかかわらずヘラヘラ笑って自己中心的な要望を押し通そうとする、うつなどの事情がある訳でもなさそうなのに無職であることに罪悪感も不安もない、(おそらく家事を手伝う訳でもなく)親のすねをかじってばかりいる、と思ったら密かに小説を書いていた、しかもその小説は見どころが一切ない支離滅裂なだけの「駄作」、という展開なので、正直、クズ人間が現実逃避のために小説を書いていたのだと思っていました。
しかし、兄貴の方に不安感や焦燥感があって、執筆に対して彼なりに一生懸命で、ゲームはただの休憩でしかない(あるいは家族に執筆活動を悟られないようにゲームをしている姿しか見せていない)のであれば、だいぶ話が変わってきます。
これはたしかに僕の想像力の欠如と、読み込み不足による誤解です。妹が人間としてリアルに描かれている作品なので、兄貴の方も悩みを持ったリアルな人間として設定されていると考えるべきでした。安易にクズ人間と決めつけてすみませんでした。
ただ、仕事に疲れた妹がそうと気づかないのは分かるのですが、個人的な感想を率直に申しますと、兄貴が実はそういう人間であったという何かしらの伏線は欲しかったかな、と思わないこともないです。たとえば、兄貴の趣味がゲームではなく読書だとか、夜中に自室の机に向かって何かしているだとかの描写があると、読者的には分かりやすかったのではないかと思います。
さて、タイトルなどに関することですが、結論から言えばこれも僕の読み込み不足でした。すみません。
僕としては、まったく同じ文言が物語の序盤と終盤で全然違う意味を帯びる、というところに面白さを感じさせる表現かと思ったので、揃えた方が良いと言ったのですが、文言を微妙に変えることで語り手の心情の変化を表現しているということであれば、それはそれでありだと思います。
ただ、ひとつには句点のこと、もうひとつには語順の違いが、まだよく分かりません。
前者の疑問はつまり、サブタイトルの方で「誰か、私の兄を。私のかわりに……」となっていますが、ここは「私の兄を。」ではなく「私の兄を、」ではないかということです。
後者の疑問は、タイトルとサブタイトルでは「私の兄を、私のかわりに」となっていたのに、本文中でだけ「私のかわりに、私の兄を」の語順になっていることについてです。これはさすがにどちらかに揃えた方が良いような……気が……。もちろん、語順の違いによってニュアンスも変化している気はするのですが、読者がそこまで汲み取るかと言われるとちょっと怪しい気もします。
また的外れなことを言っていたら、先に謝っておきます、すみません。
作者からの返信
コメントありがとうございます!
この作品は、当初コメディタッチで進んでいって、メッセージのあるものにしたかったのですが……兄妹の悩みがあまりおふざけでは、書いてはいけないと思い路線を変更した作品になります。
兄の悩みは、同じ書き手として私も同情してしまうので、クズ人間には見えてないんですよね。どちらかというと、必死に、自分が思う人生を生きているなぁと思ってしまいます。
テーマは「兄妹が思っている、生きている意味』
なるべく、重い内容にならないように兄を明るめに書いています
予定では、四六時中、自分のしていることに対して不安で手が震えています。ゲームをしてる時や自分の部屋にこもっている時ですら、「大丈夫……大丈夫……』と手を震わせているほどです。
ただ、できる妹の前では、見た目だけ上でも兄としていようと気持ちがあるためウザく絡んできます(内心は、妹にも嫌われていつだろうな、と不安でガクブルです)
サブテーマは『どういったって、兄妹』です。
どうしても、歳を重ねるごとに兄弟の間に溝みたいなものが生まれる人はいると思います。ですが、どれだけ溝ができたとしても、小さい頃から一緒に育った者として、見放すことはどうしてもできない……それが兄弟だと、私は思います。
タイトルとサブタイトル、作中の文がそれぞれ違うのは、わざとだったりします。
まず、「誰か!私の兄を、私のかわりに殴ってくれませんか!?」は、誰かに呼びかける一文になっています。どこかコメディなジャンルのイメージがわきますね。
次に、「誰か、私の兄を。私のかわりに殴って、あげてください」は、『あげて』ってことは、誰かに呼びかけるのではなく、誰かにお願いする文になっています。あと、感情的な部分が少ないように感じますね。
最後に、「誰か私のかわりに、私の兄を殴ってくれませんか?」というのは、物語がはじまる前までは感情的に兄のことが悪いと、一方的に言っていましたが、物語終盤になると私の心情はいつの間にか、そんな兄を感情的に止められるほどの気持ちを持っていないことに気づきます。そして、締めくくりとして、ここまで読んだ読者に向けて「、自分には兄を殴れないので、殴れる方がいるのであれば殴ってください」と問いかけみたいな感じで物語は終わります。
ようするに、主人公である私の心情の変化をタイトルの一文で、説明できたら面白いなと思って、書いたものになります。
全体として、文言を揃えて読む方がスッキリするかも知れませんが、私の変なこだわりみたいなものなので、変える気はないです……すみません。
《追々記です!》
何も謝る必要はありませんよ、あじさいさん!
私は、特に怒ったり不愉快な気持ちにもなってはいません……むしろ、こういった議論みたいなことが出来て、嬉しく思います!
ありがとうございます!
では、さらにこの作品の内容について話をしますと、キーポイントとして、『どこまでを説明して、どこまで読者に理解してもらうか?』ということが、今回の議題だと思います。
自分ではない他者が、もう一度その作品を読んで理解されないということは、伝わっていないという証明になります。
よって、兄の心情をもっと書き記す必要か、そのような状況を何らかで、示唆する必要があるのは明白ということで……。
時間ができたら、何か考えて書き直しておきます! ありがとうございます!(回りくどい言い方をしてすみません)
では、あと一方の句点の話になるのですが、私の中では、読み点(、)は文章を読む際の呼吸ということをどこかで聞いたので、それをイメージしています。
ならば、句点(。)は何かと申しますと、文章の区切り、もしくは、一旦の話の終わりだと、私は考えています。
なので、「誰か、私の兄を。……」で、わざとらしく区切っていたりします。
確実に言えるのは、書き手側の勝手なこだわりで、読み手には伝わないものになります。
ですが、私としてはそれはそれで面白いと、自分で思っているのでやっぱり変える気はありません。ごめんなさい。