第39話 有馬徹の話 3
食べ終わったのを見計らって、老人は行くところがないなら泊めてやる、と告げた。
いくらなんでも五分前に出会ったばかりの見知らぬ男に素直について行くほど能天気でもなかったが、実際途方に暮れていたのも確かだったので、とりあえず「なんで?」とだけ尋ねた。
「タダってわけじゃねえぞ。俺の用事足したりなんだりさせっから」
タダではない、という部分が、少なくとも善意と言われるよりは信用できる気がして、結局徹は尾形と名乗った老人について行くことにした。危なそうならすぐ逃げよう、と覚悟を決める。
尾形の自宅は、徹の実家と似たような古い団地で、室内は片付いているというよりは荒れるほどの物がない、といった様子だった。
布団も当然家主が寝る分しかなかったので、渡された座布団一枚を二つ折りにして枕にするだけで眠った。湿っぽいにおいのする掃除の行き届いていない絨毯であっても、路地裏での野宿や玄関の三和土に直に寝るよりは何倍もマシだった。
翌朝は早くから起こされ、徒歩で一時間近く歩いて、事務所のようなところに着いた。
起きてからは、水道の水と、尾形の家の冷蔵庫にあった見切れ品からさらに賞味期限の過ぎた饅頭を口に入れただけだ。空腹でめまいのする徹に、尾形は待ってろと言い置いて、事務所に入っていった。
しばらくして出てきた尾形は、金髪の、眉の上にピアスをいくつもつけた若い女を伴っていた。
「お前、明日っからここで働け。口きいといてやったから」
「うーわマジでガキじゃん、尾形さん大丈夫なのほんとに」
女はじろじろと徹を見て、顔をしかめた。
「いけるべ。俺の孫だし、俺っとこは足腰だけ丈夫だから、昔から」
どうやら尾形は、勝手に徹を自分の孫だと言い張ったようだった。
「つか、孫いるなんてアタシひとっことも聞いたことなかったけど。どっからでてきたの」
「カカァが死んでから、うちのガキなんかもう、電話もこねえけど……こいつ上京してきたんだ、ほとんど家出みてえなもんで」
もごもご言う尾形の口から出た家出という単語にぎくりとする。こっそり女の顔色を伺うと、幸い気にした様子はなかった。
「まあいいや、やる気あるなら明日からおいで。でもさあ、あんた顔青いよ。尾形さんさ、この子にメシだけはちゃんと食わせといてよね」
そんな風にして、何がなんだかわからないうちに、徹は働くことになったようだ。
また一時間かけて帰る道すがら、尾形はさっきの事務所が、かつて自分が荷揚げの日雇いで働いていた会社だと語った。
体がついて行かなくなってやめてから一年ほど経つが、出てきた女は社長の妻で、尾形の紹介ならと、徹を使ってくれることになった。
泊めてくれて仕事をあてがってくれて、良い人なのかな、と思いそうになったが、もちろんそれだけではなかった。
自宅に戻った尾形は、徹にカップ麺を食べさせながら、中学生だろ、お前、と尋ねた。
今日出かける時には置いていったが、徹が家出の際に背負ってきた学校鞄は、蓋を開けると中学校の名前と校章の入ったラベルが縫い付けられている。それにチラッと目をやり、わかってるんだぞ、と言われてしまえば、うなずく他なかった。
「お前は家出がバレたらこまる、警察も親にも連絡されたくねえ。そうだな?」
これも仕方なしにうなずく。
「そしたら働いた日当から、四分の一俺んとこ持ってこい。もし泊まるなら、その日の分はもう四分の一だ。そん代わり、なんか住所書けとか言われたら、ここの住所書いてもいい。郵便きても預かってやる」
要するに、家出少年として通報しない代わりに、給金をピンハネしようというのだった。
だが、考えようによっては有りなのかもしれない、と徹は思う。
未成年で家もない身の上では、仕事を探したり部屋を借りたりするのが無理であることは想像がついた。この老人はその辺りのことをなんとかする代わりに、口止め料を取ろうというわけだ。
それに、徹だってずっと子供なわけではない。数年もたてば成人するし、そうしたら家出ではなくなる。仕事にも普通に就くことができるだろう。だからそれまでは年齢をごまかしてでも働く必要がある。
「それでいいです。お願いします」
徹が言うと、尾形はニヤッと笑った。
「よし。……ところでオメェ、名前なんてんだ?」
そうして働き始めたが、始めの一年くらいは、体がキツくて、とてもではないが毎日働くことはできなかった。多くて週に四日、少ない時は二日というときもあった。
その間、寝床は尾形の家と、ネットカフェとで半々くらいだった。一晩泊まるだけで日当を四分の一も持って行かれるのは辛かったが、補導される心配をしなくていいというメリットは大きい。
冬になってからは、量販店で買った安い布団を尾形の家に持ち込んだ。
尾形は酒飲みの老人でも、隆二のように酔って絡んだり殴られることはなくて、飲めばむしろ普段のぶっきらぼうさが和らぐようでさえあった。使いっ走りにされたり、家事をやらされることを割り引いても、全体としては悪くなかった。
体が出来上がって仕事も毎日出られるようになる頃、徹は十六になった。
背が伸びたおかげで、パーカーのフードで顔を隠せば成人に見える。二十歳になった今でもついフードをかぶって歩くのは、この頃の癖が抜けないからだ。
補導の心配なく表を歩けるようになると、ネットカフェの方が断然気楽になっていった。
それでも日当の一部を口止め料として尾形に渡す取り決めは続いていた。ただし尋ねて行くのは週に一回まとめてになったし、もう四分の一とは言われなくなった。渡した紙幣から何枚か抜いて、これはいい、と返してくれる。
徹の方も、尾形が赤の他人なのはわかっていても、だんだん祖父と接しているような気分になりつつあって、早上がりの日は焼き鳥とカップ酒を買って団地を訪ねることもあった。
その日、徹は現場から直帰していいと言われた。しかも尾形の団地からさほど遠くない場所にいると気づいたので、帰りに様子を見に行くことにした。
この夏はひどく暑く、エアコンなどない部屋に住んでいる尾形は、前回顔を出した時にも元気そうではなかった。
オレがあげてる金でクーラーくらい付けれるんじゃねーの?と徹が言っても、なんともねえの一点張りで、昭和の遺物のような扇風機を回していた。
会社では今の時期、しつこいくらいの熱中症対策がとられている。自然、徹にもそれなりの知識が身についていた。
事実として尾形の若い頃とは気候が変わってしまったんだから、意地を張らないでエアコンくらい買えばいいのだ。
最近返されていた札の分だと思って、自分が買ってやってもいい。今や、ホームセンターの家電コーナーにある型落ち品なら買える程度の持ち合わせが徹にはあった。
そんなことを考えながら団地の敷地に足を踏み入れると、やけに人の姿が多いのが目についた。
尾形の住居のある棟の方へ曲がったところでパトカーが見えて、思わず足を止める。
まさか、自分を探しにきたわけはない。徹は不正就労の未成年だったが、それがバレたのだとしても、尾形の家に警察が来るのは理屈が合わない。
見上げれば、部屋の窓には明かりがある。なんだ、ジイさん、いるじゃないか。
ホッとしたところへ、横から突然腕を掴まれた。
「ねえちょっと、あなた尾形さんのとこのお孫さんよね?」
驚いて見下ろせば、見覚えのある中年女性だ。確か、一階の部屋の住人で、自治会の役員かなにかをしているはずだ。出入りの際にすれ違うこともあるから、そういうときは挨拶くらいはしていた。
「えっと、その……」
「えっ!?身内の人?お孫さんだって?」
女性の甲高い声を聞きつけて、パトカーの隣に駐車している白いライトバンから、男が二人降りてきた。ライトバンの車体には自治体の名前がペイントされている。
「きみ、尾形さんの身内の方?僕ら、市の住宅課の者です」
「あ、あの……ジイさん、どうかしたんですか」
嫌な予感で、痛いほど鼓動が早まる。さっきまでうんざりするような暑さを感じていたのに、今は背中に冷や汗をかいていた。
「ええとね……残念なことをお知らせしないといけなくて……」
自治会費を徴収に来た一階の女性が異変を感じたのは、今朝のことだったという。
徴収の日時はあらかじめ連絡してあるため、普段の尾形は、尋ねていって応答しないとか留守だったことは、これまで全くなかったそうだ。
それがチャイムを鳴らしても物音もしない。珍しいこともあるものだと思って出直すことにした。
そして日が傾き始めた頃に再び訪ねていくと、ドアのポストから光が漏れているのに気づいた。ああ、帰っているなと思って声をかけても、室内は静まり返っていた。
胸騒ぎのした女性がベランダ側に回って尾形の部屋の窓を見上げると、煌々と明かりがついているのが見える。
女性は以前、別の棟で高齢者が孤独死した一件を思い出し、青くなって警察に連絡をした……そうした顛末だった。
孫なのかと改めて尋ねられ、徹はしどろもどろに、尾形が言っていたのは孫みたいなものというだけで、自分はかつての職場の者で、ただの飲み仲間だ、となんとか説明した。
身内でないのなら、尾形のこの後のことを引き受ける立場にはない。
役所の男は、入居の際の書類に記載されている保証人欄から息子に連絡をつけようとしていたが、繋がらないのだと言った。尾形の身内や家族の連絡先など知らないかと聞かれても、徹はそんな話は聞いたことがなかったので、正直に答えた。
一応徹の連絡先を教えてほしいと言われたが、これも携帯電話を持っていなかったので事実をそのまま話し、何かあれば会社に言付けてもらうことにした。
事件性がないか一応捜査が行われたというのを、徹は後になって、社長の妻から聞いた。
「結局、病死だってさ。まあこっちも、尾形さんの家族のことなんか全然知らなかったからね。つーかアンタが孫じゃねーのなんか、とっくにバレてっから。今更ヤベーみたいな顔するんじゃないよ」
そんな風にして、尾形は徹の前からいなくなってしまった。
家出少年だった徹が、犯罪に手を染めずに済み、働いて食べていけているのは、あのコンビニの前で尾形が声をかけてくれたからだ。
尾形の方にも、弱みを握って上前をはねるという腹づもりがあったのは間違いない。それでも、最後は本当の祖父と孫のように、お互いの様子を気にかける関係になっていた。
徹はしばらくの間、ひどく寂しいような思いをしたものだが、やがてそれも日々の生活に必死でいる間に忘れていった。
「だからさ、あっちにホントの家族はもういねーんだ。おじさんのことだけはちょっと気になるけど、母親のこと考えたら、帰ったって会えるわけでもないし」
トールの、長い、長い話が終わった。当人はあっけらかんと締めくくるが、俺はどう反応すべきか決められずにいる。
「あーほら、ぜってーそういう感じになると思ったんだよ。だから話したくなかったんだけど。やめよーぜ湿っぽいの」
マジサムい、というトールの言葉に反応してか、力鎧が台所に向かった。これは多分お茶のお代わりを出してくれる流れだ。
「その……俺はおまえは多分、結構苦労してきたんじゃねーかって、なんとなく思ってはいたんだが」
ただ、トールの故郷の生活は今まで漏れ聞く範囲では、エルフや、人族でいえばかなり裕福な生活をしている層に近いもののように思っていた。
しかし、社会が発展していても貧富の差はなくならないし、親からひどい仕打ちを受ける子供もいるようだ。
彼らの世界にエルフはいなくて、寿命はみな人族と変わらない程度だそうだ。やはりエルフくらい長く生きないと、代替わりする生き物では、理想の社会なんてものは実現できないのかね。
「別に、今となっちゃどうってことないよ。母親のとこにいたのなんか、せいぜい三か月くらいのもんだし」
逃げなきゃ餓死か凍死だったね!とケラケラ笑うが、いやそれ俺どういう返ししたらいいか全然わからねえからな?
「ってことで、オレは今のところ、故郷に帰りたいとか、全然思ってないから。だから、あんたがやだって言うまでついてくし、覚える魔法は、潰しがどうのじゃなくて、オレが必要だと思ったものにする」
そう言い切るトールの表情に迷いは見つけられなかった。
「わかったよ。おまえがやりたいことがそれだっていうなら、俺は協力する」
根負けして言うと、へへ、よろしく、とトールは笑ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます