第38話 有馬徹の話 2

 帰宅した繁一郎は、妻から話を聞いて泡を食ってやってきた。しかしこの時、徹は敦子の言う、玄関か外廊下で過ごせというのが部屋が片付くまでだと思っていたので、我慢するからいいよ、と繁一郎に告げた。

 繁一郎は困ったことがあればいつでも来ていいから、と言い残して去った。だが良くしてくれた祖母の兄に迷惑をかけていることが徹としては心苦しかったのもあり、もはやよほどのことがなければ頼れないような気がしていた。


 荷物の積み上がった徹の部屋は、それから何日経っても、ダンボールが片付く気配はなかった。

 敦子は昼間はほとんど元のツヤコの部屋で過ごし、夕方に内縁の夫の隆二が帰宅すると、しばしば徹を外に追い出した。週に二、三日は玄関で寝るのを許されたが、隆二がいる時間帯は風呂もトイレも使うなと言われた。

 そんな状態で食事など食べさせてくれるはずもなく、徹の生命線は給食だった。不自然でない最大量のおかわりをし、少食の生徒がまるごと残す牛乳やパンを、午後の授業で腹が減るとおどけて言って貰い受けた。

 学校がある間はそれでなんとかなったが、困ったことに、約一か月もある夏休みに入ってしまった。

 はじめに考えたのは、スーパーの試食コーナーに通うことだった。これは、最初のうちは良かった。徹は祖母のつかいでよく来ていたし、試食マネキンとも顔見知りだった。カゴを持って、いつものおつかいのようなフリをしていれば、母親を手伝う感心な中学生と思われるのか、実際商品を買うことがなくても、よろこんで試食を勧められた。

 だが、日に何度も時間をおいてやってくる徹に、一人の従業員が、家でご飯あたらないの?と尋ねたのだ。

 咎められる可能性までは考えていても、児童相談所に通報される寸前だとは、思ってもみなかった。どういうわけか、それに素直に頷くのが恐ろしく、また恥ずかしいような気持ちになって、徹はごまかしの言葉を口にして逃げ出した。

 スーパーに行けなくなってしまったので仕方なく、あまり頻回になりすぎないよう気を使いつつ、繁一郎を頼ることにした。

 ここでも、全く食事が当たらないことを話してしまうのは、なにかまずい事態を招く気がして、繁一郎には、オレの食事のこと忘れちゃうみたいなんだ、とだけ言った。

 数年後になって、徹はそれが虐待であるということをたまたま目にしたニュースか何かで知ったのだが、当時はとにかく、波風をたてないことだけに必死になっていた。


 過酷な夏休みをなんとか乗り越えて二学期が始まった。

 これで食事の問題は当面解決した、と思ったのも束の間、隆二が仕事を辞めてきた。

 つまり、隆二と敦子の二人ともが、ほとんど常に在宅している状態になったのだ。

 さすがに家から追い出されるのは夜だけではあるものの、隆二は日中ずっと酒を飲んでいて、学校から帰った徹に何かと因縁をつけて絡むようになり、それは加速度的にエスカレートした。些細な物音だの、トイレの紙を使いすぎるだので手足が出るまでには、わずかの日数しかかからなかった。

 なるほど、これが同級生の橋本が言っていた「ババアのカレシに叩かれる」というやつか、と徹はもはや感情が麻痺してしまった頭で考えた。

 橋本はあの頃、センパイの家なんかを転々としている、と言っていた。あの後彼を見かけることはなかったが、徹はそのセンパイというのを頼る気にはどうしてもなれなかった。

 なぜなら学校での噂で、橋本は卒業生の少年らのおこした窃盗事件に関与したとかで補導されたと話題になっていたのだ。もう何か月も前のことである。

 親の不在がちな家庭が、半家出状態の子供のたまり場になっているのは徹も知っていた。

 橋本を泊めていたセンパイと、窃盗事件の卒業生が同じ人物なのかはわからないが、下手に関わるのは恐ろしい気がした。そういった濃い上下関係に基づく若者同士の人間関係に、今まで徹はほとんど関わったことがなかったのだ。


 息を潜めるように暮らして、それでもしばらくは我慢した。しかし、暑さが和らぎ、外にいるのも苦ではない気温になってきた、と気づいた瞬間、徹はこの後に冬が来たらどうなってしまうのか?と思い当たった。

 一応、隆二の不在の時を見計らって、怯えながら敦子に言ってみることはした。冬も外で寝るの、と。

「知らない。そうすれば?」

 というのが母親の答えだった。


 この状態で冬を越せる気はしなかった。いくらなんでも凍死する。

 さすがに弱りきって、冬の夜間だけ置いてくれないかと頼む決意をして、夏休み以来訪ねていなかった繁一郎の家を訪れた。

 出てきたのは彼の妻で、繁一郎は先週入院したのだと言った。手術を控えていていつ退院できるかわからないし、徹のことに構っている余裕は今後はない、というのが妻の言い分だった。


 団地の敷地内にある児童遊園で、古びた遊具に腰掛け、徹は考えた。

 冬が来る前に状況を変えなければ、本当に死んでしまう。考えて考えて、夜がやってきて、朝になり、家に戻った。

 まだ寝ている母親たちを起こさないように慎重に、下駄箱の上にだけ置くことを許された自分のわずかな荷物を学校鞄で持ちだして、団地を出た。

 そして、二度と戻らなかったのだ。


 とりあえず目指したのは首都だった。

 自分のような家のない人はたくさんいる、ホームレスというやつだ。都会に行けば、母親からは離れられるし、同級生や知り合いに会う可能性も低くなる。しかもホームレスの人数も多いだろうから、中学生が混じっていても見つからずにいられるかも知れない。徹はあやふやな知識と希望的観測を頼りにひたすら歩いた。

 昼間の学校があるはずの時間帯に歩けば補導されるおそれがある。中高生の通学時間や、塾や部活のために歩いていてもおかしくない時間帯にひたすら距離を稼ぎ、深夜や昼間は路地裏なんかに身を潜めて眠る。

 なにしろ、徹は無一文だった。歩く以外に移動手段はない。

 そうして道に迷いながらも数日かけて、ついに首都と隣県の県境までたどり着いたのだ。


 首都の端に着いたものの、さてどこへ向かえばいいのか、皆目見当もつかない。

 着いてしまえば、これまで気を張って歩いていた疲れがどっと押し寄せた。時刻は十九時すぎ、まだ行動できる時間帯ではあるが、目についたコンビニの前の縁石に座り込んでしまうと、そこからどうしても立ち上がれない。

 あまり長くいると店員に咎められるか、警察を呼ばれるかするかもしれない。この数日で見知らぬ善意の他人に話しかけられたことは二度ほどあって、部活で疲れちゃって、というような言い訳で切り抜けてきた。実際に声をかけられたことはまだなかったが、同じ言い訳で警察をごまかせる気はしなかった。

 この後どうするのか考えつかないままぼんやり座っていると、ふと影が差して隣に誰か立っていることに気づいた。

 まずい、と思ったが機敏に反応するような元気もなくて、怯えながら横を見上げた。

 そこにいたのは、くたびれた作業着を羽織った老人だった。手にはカップ酒とおにぎりに菓子パン、つまみなんかの入ったコンビニのビニール袋を下げ、徹を見下ろしている。

「ぼうず、家出か」

 例えばこれが小綺麗な格好をした中年女性だったり、コンビニの店員で、「何か困ってるの?」だとか「どうかしたの?」だのと話しかけてきたのだったら。もしかすると用意していた言い訳をすらすらと口にできたのかもしれない。

 しかし、ぶっきらぼうな老人から発せられた事実だけをついた言葉に、徹はなぜか「うん」と頷いてしまっていた。

 しかも、老人は徹が想定していたような、家に帰った方がいいとか親に連絡するとか警察に行くとかに類することは一切言わなかった。無言でビニール袋をかき回し、取り出した菓子パンを荒っぽい手付きで徹の肩のあたりにぐいと押しつけた。

 戸惑っていると、老人は焦れたのか今度は徹の膝にパンを放って、くるりと振り返ると、またコンビニに入っていった。ほどなくして出てきた時には、ペットボトルのコーラを握りしめていて、それもまた徹の肩に押しつける。

「食え」

 それだけ言って老人は徹の隣に腰を下ろし、煙草に火をつけた。


 徹はようやく状況を飲み込んで、餡子の入った揚げドーナツに砂糖をまぶした甘ったるい菓子パンをコーラで流し込むようにして食べた。団地を出て以来の食べ物だった。

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