第37話 有馬徹の話
物心ついた時すでに、徹は祖母と二人で暮らしていた。
昭和四十年代に建てられた古い団地の一室で、祖母の年金とパートの少ない給与を頼りにした慎ましい暮らしだったが、徹にとってはそれが当たり前だったので、自分の境遇に疑問を抱いたことはなかった。
ただ、団地の他の家庭でも両親が揃っている方が珍しいくらいだったものの、祖父母に育てられている子供はゼロではないが少数派ではあった。徹は自身の両親については、父親ははじめからいないことと、母親は徹が赤ん坊の頃に家出したことだけ聞かされていた。
祖母のツヤコは、実の娘である徹の母親の居所を知らなかったし、同じ団地の別の棟に暮らす兄以外に親類はまったくいなかった。徹が「おじさん」と呼んで育ったツヤコの兄は、本人は徹のことを気にかけてくれていたが、妻と妹の折り合いが悪かったのと、自身も少ない年金をやりくりして暮らす身であったため、金銭的な援助まではできない状況にあった。
貧しくはあっても、ツヤコはなんだかんだ苦労しながら徹を小学校に入れ、次は中学校の準備をそろそろはじめなくては、という年齢まで無事に育てた。
徹の母親が突然現れたのはそんな時だ。
「は?なんで大きくなってんの?」
小学校から帰宅し、祖母がパートで不在の時にいつもやるように持たされている鍵で家に入ると、見知らぬ女がいた。
徹の顔を見るなりそんなことを言ったのは、三十になるかならないかの女だった。根元の黒い赤茶けた髪をしていて、ダブついたTシャツと黒い細身のジーンズに身を包み、痩せた体をダイニングテーブルにもたれかけさせて煙草を吸っている。煙草を挟んだ指の爪が作り物の小さな花だのキラキラしたビーズのようなものでごってりと飾られているのが目についた。耳の中が痒くなったらどうするのだろう?と徹はどうでもよい疑問を抱いた。
「はー……ないわ。とっくにいなくなってると思ってたのに」
いなくなってるとは自分のことだとなんとなく理解したが、そもそも女が何者なのか、なぜ家に入り込んでいるのかわからなくて、ただ呆然としているところに、ツヤコが帰宅した。
「あんた……!敦子!今までどこにいたの、あんた!この子のこと放っぽり出して、急にいなくなって……!」
玄関を開けた瞬間に状況を察したらしいツヤコは、買い物袋を投げ出し、激昂して叫んだ。
徹は祖母の言葉から、吸っていた煙草をテーブルの上の湯飲みに放り込んで消す女が、自分の母親なのだと理解した。
「アンタに関係ないし。ガキがいなかったら住んでもいいかと思ったけど、やめるわ」
そんなことを言って、女は徹とツヤコを押し除けて、あっという間に出て行ってしまった。
敦子が煙草を消すのに使った湯飲みはツヤコが朝に夕に茶を飲んでいるものだった。それを洗いながら祖母が泣いているのを見て、徹は事情を尋ねるのをやめた。
そんなことがあった翌年、徹は中学校に入学した。
この頃から、同じ団地に住む同級生が、一人、二人と学校に現れなくなった。小学校時代も不登校になる者は一定数いたが、それとは違い、団地の敷地内や、最寄りの駅周辺の商業施設、コンビニエンスストアなどで姿は見かける。
ある時、祖母に頼まれて近くのスーパーまで買い物に行ったところ、小さな頃は家を行き来して遊んだこともあるクラスメイトの姿があった。中学入学後の一週間ほどで登校しなくなったその少年は、店の前に置かれた自動販売機のそばにしゃがみ込んでいた。
「有馬じゃん」
「久しぶり。学校こねーの?」
普通そんなことを尋ねるのは躊躇いそうなものだったが、徹は咎める口調でもなく、ただ不思議に思ったことをそのまま口に出しただけだった。相手もそれはわかったのか、ちょっと笑って、こっち座れよ、と徹を手招いた。
「なんかさあ、ダルくて。オヤもうるせーっつか、ババアのカレシに叩かれるし、夜中酒飲んでまいんちケンカしてうるさくて寝れねーし。起きれなくて遅刻ってなったら学校行くの面倒でさー」
彼の言うババアは祖母ではなく母親のことだと思われた。
徹が数年前に遊びにいったときは、彼の家の様子は自分のところと大差ない気がしていた。しかしどうやらその後、家庭環境が変わってしまったようだった。
「おれさ、だから今、センパイんちとか色んなとこ泊めてもらってんの。あんまりオヤがいないうち。有馬んちはばーちゃんだけだっけ?」
「うん」
「いいよな、ばーちゃんだとカレシとか出来なさそうだし。いやわかんねーけど。ばーちゃんのカレシに殴られるようになったら、有馬も来いよ」
そんなことを言って少年は笑っていたが、徹にはツヤコに「カレシ」ができて家に転がり込んでくるというのは、全く想像できなかった。
「橋本がさ、そんなこと言ってたんだー、今日」
おつかいを済ませて帰宅した徹が、夕飯を食べながらスーパーの前での同級生との会話を話して聞かせると、ツヤコは少し不機嫌になった。
「なにバカなこと言ってるの。婆ちゃんがそんなことになるわけないでしょう。冗談じゃないよ」
そうだよねえ、あはは、と徹は笑ったのだが、それから一年ほどのち、徹にとっては不幸なことに、この同級生の話は全く冗談ではない状況になった。
祖母のツヤコがパート先の食品加工工場で倒れたのは、徹が中学二年生の梅雨の頃だ。
職場であったから、当然すぐに救急車が呼ばれて病院に運ばれたが、その夜のうちに、意識を取り戻すことなく亡くなった。
ツヤコの兄の繁一郎は、保護者である祖母が亡くなり一人になった徹を引き取ろうと、方々と掛け合ったようだった。
驚いたことに、母親の敦子に関しては、徹とツヤコの住んでいた団地に住民票が今もあり、団地も退去したという扱いになっていなかったのだ。ツヤコは、そもそも敦子が失踪したことすら、どこにも届け出ていなかった。
繁一郎が引き取るにしても、まずそこを整理しなければならない、となったところへ、なんと敦子がひょっこりと帰ってきたのだ。ツヤコが亡くなって一週間後のことだった。
敦子は繁一郎から問い質されて、ツヤコが亡くなったことを人伝に聞いて戻ってきたのだと告げた。
今後は徹の面倒を見るつもりだ、と実の母親から言われ、しかも妻からは引き取ることをそもそも反対されていたので、繁一郎は折れざるを得なかった。
徹からすると、生まれてから会ったのはたった二回目である敦子は、ほぼ全く他人と言っていい相手だったが、中学生の身では自由に決められることなどないに等しく、隣の県から引っ越してくるという敦子のために、思い出深いツヤコの荷物をしんみりしながら片付けた。
以前会った時の「なんで大きくなっている」だの「いなくなっていると思ってた」だのという発言が引っ掛かりはしたものの、ツヤコが亡くなって何か気持ちの変化があったのかもしれない、と考えるようにした。
徹と繁一郎が、自分たちの考えがあまりに甘かったことに気付いたのは、敦子が2DKの団地には多すぎる荷物を持って、内縁の夫とともに引っ越してきた時だった。
それまでツヤコと二部屋をそれぞれ寝室にしていた徹は、もとのツヤコの部屋に母親が荷物を入れるのだと思っていた。しかし引越し業者は、敦子の指示に従って、徹の部屋にも敦子と夫の荷物を積み上げた。
その人は自分の父親なのか、と尋ねた徹を、そんなわけないし、と敦子が鼻で笑うのに至って、それまで呆気にとられて何も言えずにいた繁一郎は激怒した。
そもそも内縁の夫がいるなんて聞いていない、これでは徹の寝る場所もないではないか、と詰め寄る繁一郎に対して二人は、悪びれる様子もなく、荷物が片付くまで徹を預かってほしいと言った。
徹はこれらのやり取りに口を挟むこともできなかったのだが、なるほど今の部屋の状態で、今日のうちに寝る場所ができるところまで片付くとはとても思えない。おじさんが迷惑でなければ落ち着くまで泊めてほしい、と繁一郎に頼んだ。
当の徹からそう言われてしまっては、繁一郎も矛を収めないわけにはいかず、自宅に連れ帰った。妻はやはりいい顔はしなかったが、この事情で徹を追い返すほど冷淡でもなかったので、あくまで家が片付くまでと念押しして、徹を泊めた。
繁一郎は徹の家の片付き具合について、毎日確認に行っては、敦子やその夫に嫌な顔をされていた。
まだ片付かない、と言われ続けて二週間目、業を煮やして敦子を責め立てに行ったのは繁一郎の妻だった。
なにしろ同じ団地の別の棟である。5分も歩けば着いてしまうので、夫の出かけた隙に、徹に荷物をまとめさせて連れ出した。
今日こそは、片付いていようがいまいが、徹を置いていく、これ以上泊めるつもりはない、と敦子相手に言うだけ言って、繁一郎の妻は帰ってしまった。
残された徹は途方に暮れたが、自分がいるせいで繁一郎の家の雰囲気が日に日に悪くなるのにも気付いていたので、台所で寝てもいいからこっちに置いて欲しいと敦子に訴えた。
敦子は徹には聞き取れないような小声で、何か不穏な罵り言葉をつぶやいたが、最終的には彼を家に入れた。
「アンタの寝るとこなんかマジでないから。夜は玄関か、外の廊下にいて」
徹は、これは大変なことになった、と思ったのだった。
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