第2話

 もうすぐ日が落ちるという頃、小舟はようやく岸に着いた。

「起きられるか?自分で降りられそうなら、そうしてくれりゃ助かるが」

 舟底から起き上がるのに手を貸してやり、船頭と二人で桟橋に引っ張り上げると、アリなんとかと名乗った少年はふらふらしながらも自分の足で立ち上がった。

「地面が揺れてる……」

「そりゃ水の上にいたからだ、ぼうず。少しすりゃあ治るよ。じゃあ旦那、あたしゃここいらで」

「色々助かった。渡し賃だ。機会があればまたよろしく」

 重いとは言えない財布からなけなしの硬貨を取り出して船頭に渡し、漕ぎ出すのを見送った。

「さて……本当なら休ませてやりてえところなんだが、急ぎの仕事が待ってる。この集落で多少でも物資が手に入ればいいんだが」

「仕事……?」

「ああ、仕事だ。既にかなりギリギリの日数なんだ。早いところ村に向かって様子を聞かなけりゃあ。歩けるか?」

「……仕事なら行かないと」

「おっ、やる気が出てきたな。頼むぞ、おまえの力が必要になるはずなんだ。幸いこの辺りは『湖』が近いおかげで、夜行性の動物に襲われるような心配もない。朝までには依頼の村に着けるはずだ」

 船頭の言っていた、寝床を貸してくれる家はすぐに見つかった。宿は断り、替わりに干し魚をいくつか買い求め、角灯に灯す明かりの魔法を売る老婆を紹介してもらった。

 それらのことで俺が集落をうろついている間、少年は素直にあとをついてきていた。まだ少々ぼんやりしているが、足取りは舟を降りた時に比べてずいぶん確かになっている。

「だいたいこんなもんだろう。腹は減っているか?」

「いや……大丈夫。ありがとう」

 神官なら少なくとも成人しているはずだが、ガキみたいな顔をしているせいで、つい世話を焼いてしまう。

「じゃあ出発だ。村までは明かりがあれば迷うような道じゃないらしい」

 角灯をかざし、森の中に続く道を進んでいく。

 奥の村とはかなり行き来があるようで、道は固く踏みしめられ、荷車の轍らしきものも見えた。

「問題が起きなきゃ、夜明け前に着けるだろう。途中で多少の休憩も入れるつもりだから、あんまりキツいようなら遠慮なく言え」

 懸念が正しくて、腐頭狼じゃないヤツが脅威の正体だった場合、俺一人では少々手に余る。まだ状況が手遅れでなくて、全て滞りなく進んだとしてもだ。赤字を出さず、死なずに依頼を成功させるためには、神官はどうしたって必要だ。


 どうやら少年の転移酔いはすっかりおさまったようで、行程は順調に進んだ。

 良さそうなところで休憩を提案し、道の脇の適当な木の根本にしゃがみ込んだ。火を焚くような時間は流石にないので、隣に来て同じようにしゃがんだ少年に水筒の葡萄酒を一口飲ませて、集落で手に入れた干し魚も一尾渡してやる。少年はしばらくそれを物珍しそうに手の中で矯めつ眇めつしてから、かじりはじめた。

「そういや、荷物や装備はないのか。転移の時にどっか行っちまった?」

「えと……うん、なんにもないみたいだ」

 脚衣の腰回りや尻のあたりをごそごそしてから、少年は言う。

「そりゃ災難だ。財布も?」

 頭巾に包まれた頭がこくりとうなずく。

「じゃあなおさら、依頼を終わらせねえとな。報酬が出れば、村で細々したもんを売ってもらうこともできるだろう」

 船頭から聞き出した話によれば、香木の切り出しを主な生業にしている村で、まあまあ栄えているそうだ。報酬が悪くないのはそういうわけなのだろう。

「あの、聞いてもいいか?」

「どうした?」

「さっき、『湖』が近いから安全みたいなこと言ってたけど」

「ああ。この辺に来るのは初めてか?俺たちが舟で渡ってきたのは、『湖』だ。ただの湖じゃないぞ、『湖』のエルフの本拠地だよ」

「エルフ……?」

「まさかエルフを知らんとは言わないだろ?それとも、よっぽどの僻地から出てきたのか」

「聞いたことはあるけど、実在するものだと思ってなかった。本当にいるの?」

「おいおい、まさかだろ。確かに田舎の方じゃ実際見る機会はないかも知れんが……」

 遍歴に出るような神官がこんなに世間知らずで大丈夫なのか。それとも世間知らずだから遍歴に出されたのか?

「まあとにかくエルフの領地の周りは、たいていやたら高度な魔法で守られてる。だから動物も怪物も、危険なヤツは居付かないのが普通だ。でなきゃさすがに、夜間にこんな無茶な行軍しようとは思わねえ」

 やっかいなのはむしろ人族の野盗やらだが、それは昼夜で危険の度合いが変わるわけじゃないので置いておく。

「今回は依頼から日数が経っていて、まずい状況になってる可能性がある。急いでるのはそういうわけだ」

「わかった」

「いい返事だ。……ほんとにわかってる?」

 あんまり素直にうなずく様子に不安を覚えて尋ねると、これまで妙に無表情だった少年は、はじめてちょっと不服そうな顔をした。

「オレたちは朝まで歩いて村に行って、仕事を終わらせる。他にわかってないとならないこと、何かある?」

「……ねえな。充分だ」



 仄暗い夜明けの森に、遠く篝火がゆらめくのが見える。目的地の村が近いのだ。

「人の気配がするな。夜回りは続いているらしい」

 木造葺きの屋根の家や納屋が並ぶのが見える距離まで近づいたところで、村を囲む塀の内側から、若い男が二人出てきた。それぞれ使い込まれた斧と鉈を手にしている。

「そこで止まれ。誰だ?」

「ニルレイの街に張り出された依頼を見た者だ。村長のメルンドーさんに会いたい」

 一人がすぐに村の中に駆けて行き、ほどなく初老の男がやってきた。

「よく来てくれた。待ち兼ねたぞ」

「すまなかったな。人手を見つけるのに手間取ってしまったんだ。早速だが、問題の洞穴に向かいたい」

「もうか?別に遅かったことを責めたわけではない、気分を悪くしたなら許してくれ」

 まずは我が家で休憩でも、と続けようとしていた村長が面食らったように言う。

「いや、違うんだ。実は依頼の件だが、こちらの村で考えているよりも、深刻な相手の可能性がある」

「なに、本当か。どうしたらいいんだ?」

「誰か現地まで案内してもらえるか?様子だけでもすぐに確かめに行きたい。放置しては手がつけられなくなるかもしれん」

「わかった。若い者を一人付けよう。他に何か必要なものはあるか?大したことはできないが、松明の用意は?」

「明かり屋はいるか?」

「村には明かりの魔法が使える者はいない。すまないな」

 俺も明かりの魔法は使えない。船着場の集落で明かり屋の老婆から買うのを黙って見ていたところから考えると、少年も同様だろう。角灯の明かりがある間に行動するべきだということが、これで確定した。

 今のところ、洞穴に巣食ったヤツの正体について俺はほとんど確信を持っている。松明では少々具合の悪い相手だ。

 一本だけ用意してもらい、火をつけずに持っていくことにした。途中で角灯が消えた時の備えだが、使わずに済むことを祈りたい。


「見えますか、あそこです」

「ああ……」

 村の入口で村長を呼びに走った若者が、俺たちを案内する役を務めてくれている。彼が洞穴を指すのを待つまでもなく、かなり遠くからでも位置はわかった。なぜなら、あたりにものすごい血臭が漂っているからだ。腐頭狼なら、せいぜい臭っても腐敗臭のはずだ。危惧していたとおりの相手なのは間違いない。

「前に見に来たときは、こんなじゃなかったんですが……」

 案内の若者は異様な状況にすっかり怯えて、腰が引けている。

「それからだいぶ、動物なんかを食ったんだろう。あんたはここで引き返していい」

 こちらを気にしながら来た道を帰って行く背中を見送り、連れを振り返った。

「じゃあ、ここからは俺たちの仕事だ」

 まずは、敵がどの段階なのかを確かめる必要がある。俺たちだけで対処可能か、それとも前衛や魔法使いを含めた十人規模の一団が必要なのか。後者なら村に引き返して、ニルレイの街か『湖』に救援を求める使いを出さねばならない。

「冷気の魔法をかけるぞ。物音や明かりはさほど気にしなくていい。まあ、あんまり騒ぐとさすがにまずいが」

 集中して魔法を練り上げ、冷気だまりを自分と少年の周りに作り出す。ややひんやりするかな?程度のものだが、やりすぎると逆にまずい。

「よし、行こう。ひとまず偵察だ」


 胸の悪くなるようななまぐさい血臭に辟易しながら、洞穴を進む。

 案内の若者から村人も普段入らない場所と聞いていたとおり、足元は踏みならされた様子がなくて、かなり歩きにくい。もちろん足音を殺すのは不可能だ。聴覚が鈍い相手で幸いだった。

 しばらく進むと、やや開けた空間があるのが見えてきた。血臭はもはや、鼻が痛むほどの強さになっている。

「しゃがめ。ああ、いるな……」

 後ろ手に少年に合図し、手近な岩場の影に身を潜める。背後から息を飲む気配が伝わってきた。

「なんだ、あれ……」

 かすれた声で少年がうめいた。

「血袋鼠だ。見るのははじめてか?」

 人族二人が並べるかどうか程度の狭い通路がそこでゆるやかに広がり、幅だけでなく奥に向かって天井も高くなっている。

 手元の明かりではこの空間の全貌は見えない。魔法の光がぼんやりと照らす範囲の中程に、人族の子供くらいの大きさの、赤黒いものがうずくまっていた。

 頭を奥の方に、こちらに尻を向け、蛇のような鱗のある長い尾がだらりと伸びている。

 そして、背を向けていてもはっきりと分かるほど腹部は大きく膨れていて、透けるほど引き伸ばされた皮膚の内側が、不自然にでこぼこしている。それは、脈動するように不規則に蠢いていた。

 俺も呻き声を上げそうになったのをこらえた。冷気の魔法を練り続けている集中が途切れそうになるのを、危ういところで維持する。

 母鼠が一匹。子鼠はまだ腹の中。

 呼び名に鼠とつくだけあって、血袋鼠は最初の一回の出産を許してしまうと、そこからは文字通りのねずみ算式に増える。本当にギリギリだが、間に合ったのだ。

 血袋鼠が出産までの間に作り出しているはずのの姿が見えないのは気になるが、本体がまだ群れになっていないので希望が持てる。

「危ないところだった……今なら俺たちで対処できる」

「あんなのに?どうやって」

「落ち着けって。あれは耳も鼻もさほど良くねえ。光もたいして感じてないらしい。問題になるのは熱だ。血袋鼠は熱を見ているんだ。俺たちの体温や松明なんかの炎、そういったもんだ。角灯の明かりの魔法は熱を帯びない。冷気の魔法を維持していれば、見つかる心配はない」

 岩陰で肩を寄せ合っていると、少年の緊張と体の震えが伝わってきた。

 こいつまさか、怪物退治ははじめてか?

 ビンドが前の仕事はニルレイの街で、騎士の癒し手を務めていたと言っていたが、まさか街の外の仕事をしたことがないのだろうか。

 俺は内心の不安を隠しつつ、外套の下から剣帯を引っ張り出した。鞘から静かに剣を引き抜いて、少年に微笑んで見せる。

「一匹だし、やることは単純だ。俺が突っ込んで、剣でざっくりやる。多分、その直前にはしもべがこっちに気づいて、まあ……襲ってくる」

 少年の体はどんどん強張っていく。

「母鼠を殺せば、しもべも間もなく動きを止めるから、噛みつかれずにしのげれば最高だ。あらかじめ白状しておくと、多少はかじられると思う。そしたら、お前の出番だ。やつらの牙には毒がある。くらえばあっという間に意識を失って動けなくなる」

 嘘だろ、と言う悲鳴に近い言葉は、ほとんど声になっていなかった。

「いいか?俺が噛まれたら、母鼠としもべが動かないのを確認してから近づいて、治癒の魔法を使ってくれ。くれぐれも置いて逃げるなんてのは勘弁してくれよ。半日くらいでえらいことになるからな」

 頭巾の下にわずかに見える少年の顔はもはや角灯の明かりでもわかるほど蒼白だ。これ以上細かい説明をすると気絶しかねないので割愛したが、血袋鼠やそのしもべに噛まれた傷を放置すると、悲惨な末路が待っている。

 具体的には、噛み跡から入った毒で皮膚の内側全て、肉から内臓、骨までどろどろに溶け、まさに人の形の血の袋になってしまう。そして、母鼠のしもべとして、内容物を吸われたり、操られて獲物の狩り集めに使われることになるのだ。

 人里近くに巣食った血袋鼠はあまりに危険なので、見つけ次第討伐隊が組織されるのだ。巣を作ってから最初の出産までは半月ほどかかるので、大抵はその期間で退治できる。

 だから人族の活動範囲内で人を襲うほど数を増やしたり、勢力を広げることは滅多にないのだが、俺はしもべにされた人族を一度見たことがある。正直言ってあの死に方だけはしたくないと思うような有様だった。

「もういつ子鼠が生まれるかわからん。手順どおり頼むぞ」

「え」

 冷気魔法を二人分維持しながらさらに均衡の魔法をかけた。維持はきついが、これで滅多なことでは転倒せず、不整地でも石畳の上のように走れるようになる。

「さあ、行――」

「待った!ちょっと待って!」

 外套を掴まれて出鼻を挫かれる。

「なんだよ?!」

 こんな大声で話してたら、いくら耳の良くない血袋鼠とはいえ気づかれるぞ。

「まずいことがわかった。人違いだ」

「は?」

 何を言っているのか、一瞬理解ができない。

「だから……やっと状況がわかった、人違いなんだ、オレは、治癒の魔法なんて使えない!ただの、何にもできない奴なんだ!」

 はあ?!

「何言ってる?だってお前、アリ……なんとかって名乗ったろ?なんとか教会の神官の、アリなんとかじゃないのか?!」

「違う。自分がどこにいるかもよくわかってなかったけど、あんたが仕事だって言うから、いつもの荷揚げだと思ったんだよ!オレは神官なんか知らない、別、人……う、」

「う?」

「うしろ……」

 全身の血の気が一気に引く。

 維持していた冷気の魔法は、言い合いの間に切れていた。

 気力を振り絞って血袋鼠の方を振り返ると、俺と母鼠の間に、大小様々の赤黒い影が佇んでいた。

 今まで一体どこに隠れていたのか。

 元は家畜の驢馬だの牛だの、あるいは野兎や鹿だったのだとわかる程度に大まかな形と面影は残っている。しかしそれらは毛が無く、皮膚は内蔵を連想させるテラテラしたいやらしい光沢で、ぱんぱんに張っている。内側がどろどろの血袋になっているのは疑いようもない。目も鼻も耳も失われて塞がっているのに、口だけは裂けたように大きく、ただの動物だった頃はなかったはずの鋭い牙が並んでいる。

 しもべだ。

 それも、数えるのも嫌になる程の。

 奴らは気味が悪いほど揃った動きで足を一つ踏み鳴らす。

 そして、それを合図に雪崩を打って飛びかかって来た。

「逃げろ!!」

 立ち上がりざま、大口を開けたまま硬直している、神官でもアリなんとかでもないらしい少年の襟首を引っ掴んで無理矢理立たせる。

「こなくそッ」

 しもべたちに向けて手を振り下ろすと、叩きつけるような衝撃が降り注ぎ、第一陣は地に伏せた。衝撃の魔法というやつだが、ただ放ったのでは足止め以上の役には立たないものだ。

 だが、地面の凹凸で皮に穴が開いたものは内容物がこぼれ、もがくばかりで立ち上がれないところを後続に踏まれた。しもべはもろい。ごつごつした岩場が幸いして、何匹かは動かなくなった。

 魔法の使い方としては雑極まりないが、とっさに思いつくのがこれしかなかったし、練り上げがわずかで済むのも地味に重要な点だ。

 とはいえ、敵はあまりに数が多かった。続けて再度同じ魔法を放つが、後ろの奴らまでは攻撃が通らない。

「走れ、走れ!死ぬぞ!」

 少年を追い立て、自分も後退する。

 正直言って、俺は本職の魔法使いではないから、ここまでの連続使用で早くも息切れし始めている。

 俺の本来の戦い方は、均衡の魔法で足まわりを強化し、剛力の魔法で力を強くし、敵の弱点をつく魔法を剣に纏わせて斬りかかるというものだ。

 だが、血あぶらまみれの大量のしもべに剣を使うのは愚策でしかない。あっという間に刃が鈍って切れなくなるのが目に見えている。だからこそ、しもべを相手にせず母鼠を倒す作戦だったのだが、今や逃げるしかない状況に追い込まれてしまった。

 俺が魔法を切らして以降失策を重ねている反面、少年は思ったよりはかなり頑張っていた。

 本人の申告どおりただの荷役夫で、怪物を初めて見たのだとしたら、腰が抜けて一歩も動けなくなっても不思議ではなかった。しかしとにかく足を動かし続けていたし、出口に向かって進んでいる。

 だが、俺の魔法での妨害もそろそろ敵に読まれ始め、ついに、飛びかかってきた元は鹿だったっぽいしもべの攻撃を、剣で受けざるを得なくなる。

 がちりと刃と牙が噛み合い、押し合う羽目になった。

「ま、まっず……っ」

 両手が塞がったことに気付く。

 通路は鹿だった風のもの一体で幅いっぱい程度の広さの場所だったが、俺の動きが止まったと見るや、足元の隙間に小型のしもべが走り込んできた。

 一匹目は革の長靴が牙を防いだが、二匹目は腿に取り付いた。衣服を牙が貫通し、皮膚に突き立つ。途端、目の前が真っ暗になり、立っているのか倒れたのかもわからないようなめまいに襲われた。

「おっさん!おい、おっさん……!」

 少年の悲鳴を聞きながら、俺の意識は暗転した。

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