観覧車の話も恋愛の話だと思っている節がある

 観覧車、廻る、馬鹿みたいに、は観覧車の悪霊と市間いちる、「二人ぼっち」の物語で、互いがどうあれ互いを「想って」いるので恋愛小説です。(無理矢理論)


 人を想う気持ちは愛なので、そういうことです。あまりにも極論ですが。


 恋愛の可能性は多様化しています。色んな恋愛の可能性があります。同性同士の恋愛など、珍くもなんともなくて普通です。


 だから極論、突き詰めれば愛というのは人を想う気持ちであって、それ以上でもそれ以下でもあるべきではなくて、もっと深く掘り下げるべきは「どう想うか」に対して「どうあったか」なのだと思います。観覧車の悪霊が「想い」に対して「どうあったか」はご存じの通りで、過程があって結果がありました。なのであれは「ふたりぼっち」の関係に対する悪霊なりの決着の付け方だったはずです。そうであってほしい。もちろん、本当に純粋に呪いのことだけ考えていたのかもしれません。何も考えず、何の意味もなく、馬鹿みたいに無意味な出会いだったと彼は思っているのかもしれません。


 無意識もまた「想い」のうち、なんて話をすれば取り止めが無くなってしまいますが、逆にいえばそれだけ他人の考えていることなんて色々あって分かりゃしないのです。だから、自分が「どうしたか」に対して「どうなったか」を大事にすれば、恋愛で傷つくことは無くなる――などと手癖で書こうとして、「全力でぶつかって破れたのに傷つかないのは本気じゃなかったから」なんて思うあたり本当に取り止めがない。


「想い」も多様性の結晶ではありますが、本物であってほしいとは思います。フェイクで済ませてしまえばいつまでも周囲をうろうろし続けるのでしょうから。それこそ、成仏のできない悪霊のように。(……綺麗にまとまった!)


 次の章で終わりです。

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