第5話 とある宿屋の女将と受付嬢

宿の受付嬢に、女将が開口一番に言う。


「ちょっと、アンタ。203号室の部屋、

掃除が終わったってさっき言ってたわよね!」


「はい、やっておきましたけど?」


「それじゃあこれは何なのよ!?」


女将が一本のつまんだ髪の毛を見せる。


「こんなものが床に落ちていたわよ!

これでよく掃除が終わったなんて言えるわね!」


「こんなものって……髪の毛一本だけですか?

それぐらいは仕方ないと思いますけど」


「おバカ! アンタは宿屋の仕事を軽く見ているから

そんなことが言えるのよ!」


「はあ」と気のない返事をする受付嬢に

女将が苛立たしげに言う。


「いいこと。宿屋ってのはね、旅人にとっては

唯一の憩いの場なのよ。私たちは常に、

最上級のおもてなしをしなければならないの。

でもね、そんなことは序の口。

重要なことはね――」


女将が一旦息をためて、噛んで含めるようにゆっくりと話す。


「宿屋に泊まると、どんな疲労も怪我も完全回復する。

そんな魔法みたいなイメージを、みんなが当たり前に

持っているってことなのよ」


「完全回復って……また無茶苦茶なイメージですね」


呆れる受付嬢に、女将はうなずきつつも、強く頭を振る。


「でもね、それが現実。

旅人が宿を使う一番の目的は、

夜を越すことよりも

体力や怪我の回復なのよ。

だから私たちは、彼らのそのイメージを

壊さないために、

彼らのストレス要因となるものは

すべて排除しなければならないの」


「……髪の毛一本がそれに当たると?」


「当然よ。僅かな汚れでも、それを見て

あ……嫌だなって感じたら、彼らの回復を

妨げることになるでしょ? もしも宿に泊まって

回復量が最大HPに届かなければ、もう

クレームの嵐よ。そうならないために、

髪の毛一本、ホコリ一つ見逃さず、

香りは常に清潔に、明かりは暗くもなく眩しくもなく

ルームサービスは一分以内が鉄則よ」


「もはや人間業じゃないですね」


「そうね。私たち宿屋の人間は、

人を超えなければならない」


腕を組み、そう語る女将に、

受付嬢はふとつぶやく。


「まあでも、今回は勇者様もお泊りになっていますからね。

変な悪評が立たないよう、気をつけるのは確かにです」


「別に勇者様がいようといなかろうと、

私たちのサービスに変わりはないわ。

もっとも……気が張るのはそのとおりね。

今日のお客様は勇者様一行だけだから、

まだ良かったんだけど……」


「え? 勇者様の他にお客様はおられますよ」


受付嬢の言葉に、女将がはっと表情をこわばらせる。


「なにそれ!? 私は聞いてないわよ」


「ああ……すいません。話してませんでしたね。

女将さんが留守のときに受付を済ませたんです」


「そのお客様はどこの部屋にご案内したの?」


「えっと……そうそう、201号室です。

いや、なんか勇者様の大ファンだとかで、

ぜひ勇者様の隣の部屋に泊まりたいとお話していたので」


「はあ? 何でうちに勇者様がお泊りになっていること

その人が知っているのよ?」


「さあ?」


「第一、201号室? あそこは確か、

ついさっきお客様がチェックアウトされて

掃除がされてないはずよ」


「ええまあ……ただお客様がそれでも良いのでって」


「おバカ! 良いわけ無いでしょ!」


女将が憤慨して、駆け足で階段を上がっていった。



=================


「くっくっく、勇者め……今頃安心しきって

いることだろう。目にものを見せてくれる」


壁の向こう側で休息している勇者を想像し、

人間に化けた魔族は、そうほくそ笑んだ。


「さて……このまま奇襲をかけても良いが、

やはり寝静まるまで待つべきか――」


ここで、部屋の扉が勢い良く開かれる。

びっくりして扉を見ると、そこには

バケツやらモップやらを持った女性が一人立っていた。


「申し訳ありません、お客様!

こちらのお部屋はまだ掃除が済んでおりません!

ゆえに、すぐに掃除に取り掛からせていただきます!」


「は?」


女性はそう言うと、魔族の返事も聞かずにズカズカと

部屋に入り、バケツに入れた水でモップがけを始める。


「お……おい。余計なことはするな!

掃除などどうでも――」


「そういうわけには参りません!」


女性が眼球が溢れるほどに、まぶたを見開き絶叫する。


「快適なお部屋を提供することは、

宿屋としての誇りです!

何人たりとて、その誇りを汚すような真似はさせません!

それがたとえお客様であってもです!」


「し……しかし俺は――」


「ほんの三十分程度です! どうかご了承ください!」


一方的に話をして、掃除を継続する女性。

魔族はそれでもグチグチと文句を言うも、

暖簾に腕押しでまるで聞き入れてもらえなかった。


(くそ……仕方ない。三十分ぐらい待つか)


――三十分が経つ。予告通りに

掃除をあらかた終えた女性に、魔族が言う。


「もう良いだろ。さっさと部屋を出て行け」


「はい。申し訳ありませんでした。

ただ最後に――」


「まだ何かあるのか?」


苛立たしげな表情をする魔族に、

女性がスプレーを取り出しニコリと笑う。


「これを一振りするだけです。空気が清らかになり

とても快眠できると思いますよ」


「そうかい。なんでも良い。さっさとやれ」


「はい。では――聖水を撒かせてもらいます」


――聖水?


ぞくりと魔族の背筋が凍える。


「いや……ちょっとま――」


「それ、シュッシュ!」


部屋に巻かれる聖水に、

魔族の皮膚が火にあぶられたように焼かれていく。


「ぎゃあああああああああ!」


「お客様!? どうされたのですか?」


バタリと床に倒れる。聖水の中でも

かなり純度の高いもののようで

一瞬にして魔族の意識が遠のいていく。


「なんのさわぎ……ちょっと女将さん?

お客様、どうされたんですか?」


「わ……分からないわ。急に倒れられて」


狼狽する女性に、あとから現れた少女が

パタパタと足踏みしながら言う。


「と……とにかく、お医者様を呼ばないと」


「ままま……待ちなさい。憩いの場たる宿屋で、

人が倒れたなんて知れたら、

うちの宿の評判がガタ落ちじゃない!

そそそ……それは駄目よ」


「それじゃあ……どうするんですか?」


かすれていく魔族の意識。

彼が最後に聞いたものは――


「……近くに、誰も使ってない井戸があったわよね」


「……ありますね。それじゃあ、あたし荷台持ってきますね」


そんな冷たい二人の声であった。

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