いつか終わる桜の色
嘘を吐いたことがある。
あれからずっと嘘を吐き続けている。
トントン。『日向小春』と書かれたネームプレートの扉をノックする。
「開いてるよー!」
中から元気そうな声がしたのを確認して、俺はドアのぶを捻った。少しだけ埃が舞う。
先日、返事がくる前に扉を開けたら怒られたことがある。本人いわく『女子のブライベートは繊細』らしい。
「おっはよー、浅野! 今日も辛気くさい顔してるねー!」
「……そっちこそ、いつも寝てるくせに元気だな」
嫌みで言ったつもりだったのだが、彼女は「元気が一番だからね!」とベッドの上で胸を張る。上半身だけを起こしていて、腹から下は布団で隠れている。
「体調はどうだ」
「うーん、まあまあ? 浅野と喋れるし、桜が綺麗だし……今日もいい一日だなって」
そう言いながら、彼女は俺が持ってきた新聞を開く。適当な記事を眺めては「なるほど、分からん」と呟くその姿を、近くに置いてあった椅子から眺めていた。
色白の肌、艶のある髪、綺麗な瞳……こんな部屋に引きこもってなければ、男女問わず沢山の人が彼女を愛しただろう。そう考えると少し勿体無い。
ふと腕時計を確認する。八時四十分。しまった、彼女に新聞を渡してからもう十分が経過している。
「……じゃ、俺は高校行ってくる」
「えー! まだ少ししか経ってないのにー!? もうちょっと、ちょっとだけでいいから待って!」
「明日も来るから……って掴むな。服が伸びる」
涙目になってこちらに向かってくる彼女をなんとか剥がし、部屋の外に出る。このやりとりも、今回で何回目か忘れてしまった。初めこそ焦ったものの、今となっては馴れたものだ。
扉を閉めた後、そっと呟く。
「……ごめん、いつもこんな感じで」
それから、俺は駆け足で学校へ向かった。
「おっ、浅野ぉ! 暗い顔してんなぁ!」
「……俺の顔、そんなに酷いっすかね」
走って校門をくぐると、一人の教師が右肩を叩いてきた。筋肉が凄くて、いつも声がでかくて、明るくて……まさに体育会系、というよりボディービルダーって感じの人。運動より文芸を嗜む俺と、本来なら接点が無さそうな存在。
こうして話しているのは、クラスの担当だからである。
「酷いというより、悩んでそうな顔だなぁ! 先生に相談してもいいんだぞぉ?」
「……大丈夫です。斉川先生は無さそうですよね、悩み」
「はっはっは! 考え事は汗と一緒に流すのが一番だからなぁ!」
嫌みで言ったつもりだったのだが、逆に先生のポジティブ思考を聞かされてしまった。俺には皮肉のセンスがないらしい。
当然かもしれない。俺が得意なのは文章を書くことではなく、絵を描くことなのだから。
「……ところで浅野、今日も行ったのかぁ?」
「行ったってどこに……」
「そりゃお前、日向の家だよ」
その言葉に内心ギクリとする。別に後ろめたいことは無いのだが、心の内を見透かされたようで変な汗が流れた。
当然、先生にそんな意図は無いだろう。この会話の意図は追及ではなく確認。
「……はい」
「ま、先生は止めないけどなぁ」
ため息混じりに言う先生の顔には、呆れではなく同情が浮かんでいた。別にその同情を受け入れる義理はないが、拒絶する理由もない。
「だが浅野、いつかはその感情と向き合わなきゃならん。一年後か二年後か、それ以上の時間が必要かは分からんがなぁ」
分かってる。
俺だけが苦しいわけじゃない。俺も前を向かなきゃいけない。それは俺自身がよく分かってる、だけど……
キーン、コーン、カーン、コーン。
学校から鳴り響くチャイム。いつの間にか、時計の短い針は九時を指していた。
「時間ってのは、本当にせっかちだよなぁ」
先生が空を見上げる。最近では珍しい、雲一つない青空。
「あれから一年も経ったんだぞ? なのに先生は、まるで昨日のことみたいに覚えてるよ」
「……俺もです」
それからはお互い何も言わず、しばらく無言で空を眺めていた。ホームルームは完全に遅刻。だけど俺は先生と一緒にいたし、何より先生が教室に行かないから大丈夫だろう。
これが初めてって訳でもないし。
それからは、他の高校生と変わらない生活を送った。
適当に授業を受けて、ノートに落書きして、居眠りして、そして怒られて。クラス担当の斉川先生以外とは仲がいいわけでもないから、学校内で先生と話すこともない。
「浅野、どうした? 最近元気ないぞ?」
「……え? いや、特に何もないけど」
昼休みに突然、隣にいた友達から心配の声をかけられ顔をしかめる。今日は色んな人から心配される日だ。
「深くは聞かないけどさー、あんまり自分を追い詰めて変なことするなよ?」
「変なことって?」
「その、ほら……自殺とか? あとは犯罪に走ったり、それから」
「別にしないよ、そんなこと」
死んだところで何一つメリットは無いし。そう言おうか迷ったが、余計に心配させるだけなので黙っておいた。
メリットが無いからやらないだけ。もし悪魔から『命を差し出せば過去を変えてやろう』なんて言われたら、自殺でも何でもしそうではあるが。
「とにかく、いざとなったら学校休めよ。そうだ、あの噂知ってるか? この近くには幽霊屋敷があるっていう……」
「忠告どうも。あと噂には興味ない」
そう言って適当に会話を終わらせる。友達には悪いが、俺はこれからも学校を休まないだろう。
授業が終わるとすぐ学校から出た。前までは美術部に入っていたのだが、今は見る影もない帰宅部である。
トントン。扉を叩く。
「……寝てるか」
そっと扉を開けると、そこには今朝と同じ光景が広がっていた。ベッドに椅子に新聞、そして窓から見える桜の木。
「覚えてるか。日向、桜が好きだって言ってたよな」
今朝と同じように椅子へ腰かける。布団の上に置かれていた新聞を取る。
「知ってるか? この新聞の記事、間違ってるところがあるんだ」
広げられた新聞には、大きく『未来の天才画家 十七歳にて開化』という見出しが書かれている。そして気付きにくいが、新聞の発行日は去年の春だった。
当時、描かれた絵のタイトルは『君と見た最期の桜』。
これを描いた生徒の名は『浅野翔大』。
「これさ、本当は『君が好きな春の華』って題名だったんだ……」
不意に言葉が詰まった。嗚咽のようなものが口から出そうになる。
大丈夫、まだ限界なんかじゃない。
「これを日向に見せたかった。喜んでほしかったけど……結局、無理だったな」
新聞を鞄の中に入れる。そして一息ついて、俺はその場から立ち上がった。
「また明日来るけど、寝ててもいいからな。日向はいつも元気すぎるんだよ」
それだけ言い残して、俺は部屋から出た。カラン、と後ろでネームプレートが鳴った。
嘘を吐いたことがある。
「浅野、恋とか興味ある?」
「……は?」
一年前の放課後、日向と二人で美術室にいた。既に飽きたらしい日向はともかく、俺はコンクールに向けて絵を描き進めていた。
「誰かを好きになったりしたこと、浅野はあるのかなーって。それで? 実際どうなの!?」
ずいと顔を近付けてくる日向。甘い匂いが鼻腔に広がり、少し気まずくなる。そんな自分が恥ずかしくなって、ふいと日向から顔を背けた。
「……ない」
「ないの? 今まで一度も!?」
「ねーよ! 悪かったな、生涯恋とは無縁な人間で!」
彼女がどんな顔をしていたか、その時の俺には分からなかった。からかっていたのかもしれないし、苦笑いしていたかもしれない。少なくとも真剣だとは思わなかった。
「でもさー、恋人っていいと思わない? 互いに心を許して、何でも相談できるような……」
「ああもう、分かったから。あまり変なこと言わないでくれ、気が散る」
適当に彼女の話を流して、俺はまた絵に集中した。その日はもう、日向からなにか喋ることはなかった。
嘘を吐いた。
本当は日向のことが好きだった。俺と一緒にいてくれて、よく笑って、たまに俺をからかってくる、そんな彼女のことが好きだった。
だから、俺なりに気持ちを伝える方法を考えた。口で言うのは恥ずかしいから絵を描いた。日向のことが好きだから、日向が好きな桜を描いたと。そう告白するつもりだった。
次の日、日向は死んだ。
自殺だった。学校に訪問してきた警察の話を盗み聞きしたのだが、遺書は見つからなかったそうだ。が、体には性的暴行を加えられた後があった。それも日常的に、ずっと前から。日向は俺が心配しないように、ずっと明るく振る舞っていたことになる。その事実に今さら気付かされる。
彼女の死から一週間が経っても、俺は後悔し続けていた。もしあの時、俺が嘘を吐いていなかったら日向は死ななかっただろうか。日向が好きだと言うべきだったのだろうか。
そんなことを考えながら、ふと登校中に立ち止まった。日向の家の前、本来なら彼女と待ち合わせする場所。いつもの癖、というものだった。
事件の後、日向の両親は引っ越した。日向との思い出は、いつ壊されるかも分からない空き家だけだった。
試しにチャイムを鳴らしてみる。当然誰も出ない。玄関の扉を引く。ガチャリ、と、意外にも鍵はかかっていなかった。そのまま中へ入る。不法侵入とか礼儀知らずとか、そんな言葉は頭に残っていなかった。ぼーっとした頭のまま、階段を上って日向の部屋へ向かう。
もし、この扉の先に日向がいたら。そんな願望が無かったわけではない。
ガチャリ。『日向小春』と書かれたネームプレートの扉を開く。
「ひゃああぁぁ!? だ、だだだ誰っ!?」
聞き覚えのある声。見覚えのある顔。二つの情報が合わさり、俺は目の前の光景を疑った。
なにも入ってない本棚、なにも置かれてない机、そして……日向がいるベッド。白いシーツが敷かれたベッドの上には、確かに日向が座っていた。
「……日向?」
「って、浅野じゃん! も~ビックリして損した~!」
あり得ない。日向は死んだし、この家だって空き家だった。じゃあ、目の前にいる日向は……幽霊? それとも幻覚か?
「いい浅野? 女子のプライベートは繊細なの! ノックもせず乙女の領域に入るなんて、無礼すぎると思わぶぇっ」
試しに日向の頬をつついてみる。プニッとした感触が指を伝う。幻覚ではないように思える。
「ちょ、人が話してるでしょ! なに突然触ってきて……はっ。変態? 浅野、もしかして変態?」
「……ウザいところまでそっくりだな」
「ふふっ、そう?」
あまりに彼女が饒舌なので、いつもの癖で嫌みを言ったつもりだった。だが俺の思考とは裏腹に、日向はそれを聞いて笑みをこぼす。
どうやら、俺は嫌みを言うのが下手らしい。
「やっと笑ったね、浅野」
突然そう言われ、自分の顔を確認する。口元が少しつり上がって、目も細めてて……確かに笑ってた。
「最近、笑ってなかったでしょ。ひどい顔してたよ? というか表情筋が死んでたよ?」
「……はは、そりゃどーも」
ここまで徹底的だと、逆に笑うしかなかった。明るく笑うところも、お人好しなところも、それを演じているところも。すべて生前の彼女と同じだった。
「ところで時間、大丈夫? 学校あるでしょ?」
「は? ……あ、本当だ」
左手の腕時計を確認すると、いつの間にか八時四十分になっていた。学校が始まるまであと二十分。走れば間に合うギリギリの時間。
「えっと、それじゃあ……行ってくる。高校に」
「うん。行ってらっしゃい」
部屋から出る前に一度振り向く。俺を見送る彼女の顔は、まさか自分が死んでいるとは知らないような笑顔だった。
その日の午後、もう一度向かってみたが日向はいなかった。だが次の朝に扉を開けると、まるで俺を待っていたかのように彼女がベッドに座っていた。その次の日も、さらに次の日も。土日や祝日には居なかったが、登校中に立ち寄れば必ず彼女がいた。
それでも、軽い気持ちでは彼女と話せなかった。「死んだはずの人間だから」とか、そんな単純な理由ではない。
彼女が彼女自身の死を自覚したらどうなるだろう。俺は超常現象とかに詳しくないから分からないが、消えてしまうのではないか。それなら、例え幽霊だとしても、俺は好きな人と一日でも長く居たかった。
「日向のことが好きだ」とは、まだ言えてない。
あれから一年。いつものように、トントンと扉をノックする。
「開いてるよー!」
いつもの声、いつもの光景、いつもの彼女。その笑顔を見るたび、心のどこかがズキリと痛む。
「おっはよー、浅野! 昨日はよく眠れた?」
「……まあまあって感じ」
この部屋の中で、彼女の下半身はいつも布団に隠れていた。今も必死に隠しているんだ。俺を心配させないよう、明るく振る舞って。
俺はどうするべきなのだろう。彼女に謝るべきなのか、真実を伝えるべきなのか。
「……そろそろ時間だ、行ってくる」
「ちぇー、行ってらっしゃい!」
結局、今日も言えなかった。真実も気持ちも、何も伝えられなかった。
俺が前を向くには、まだもう少し時間が必要そうだった。
嘘を吐いたことがある。
あれからずっと嘘を吐き続けている。
「……ごめんね」
すべて知っている。実は私が死んでいること、彼は私のことが好きなこと、彼が悩んでいること。
いつか言わなきゃいけないと思っていた。けれど、この空間が心地よくて、気がついたら一年も経っていた。
なんで、時の流れはこんなにせっかちなんだろう。
潰れた下半身ではベッドの外を歩けない。偽りの笑顔では、彼に本音を吐き出せない。
「だから、もう少しだけ嘘を吐いていいですか」
そう呟いて、私はまた眠りについた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます