第7話
走り出す私たちのバスを、緒方は笑顔で手を振りながら見送ってくれた。私は悟られないように、ちょっと泣いていた。その日と翌日は、しょんぼりしていたと思う。
そして、そのせいなのか、坂本がますます私にやさしくなった。
二月のモスクワは、地獄のように寒い。
まるで、寒さから庇うように、坂本は私にくっついていてくれた。必然的に、新田だけが一人であとからついてくる形になる。
クレムリンの前、赤の広場にいた時だった。
ギリシャにいる間中、楽しそうだった新田が、急に不機嫌そうに言った。
「歩いている人が、みんなこわい顔をしてる。見てると、こっちの気も滅入ってくる」
確かにそうだった。
おそらく、寒すぎるからだ。とにかく空気が痛い。
昼間でもマイナス10度前後。笑いたくてもうまく笑えないくらいだった。
ましてや、ロシア人特有の涼しげな顔立ちだと、笑ってない時は怒ってるように見えなくもない。道を訊いても、私の拙いロシア語ではなかなか通じず、寒いせいもあってか相手も言葉少なで、心細い気持ちにはなる。
そんな寒寒しい行程で、新田の堪えていた何かが吹き出してしまったのだろうか、と私は他人事のように同情した。
それでもなお。
モスクワ川を橋の上から眺めながら、坂本が私の手を取って、自分の外套のポケットに入れた時——。
私は、その行為と温もりに完全にやられてしまった。
何もかも、寒さと温もりのせいだった? 橋の上は特に凍てついていたから。
それから明らかに、私の方からも坂本に引き寄せられるように行動するようになっていった。まるで『スノースマイル』に出てくる女の子みたいにはしゃいで、恋人同士のようだったかもしれない。
新田はどんな思いだったろうか。
モスクワの二日目の夜、新田が高熱を出した。
夕食のあと早々に部屋に引きこもり、薬を飲んで寝ると言う。一通りの世話を焼いてから、坂本が私の部屋に来て言った。もともと体調が悪くなりかけていて、あの弱気な発言をしたのだろうかと。
私たちはそのまま、夜遅くまで二人で話した。坂本はギリシャで買ったネックレスを私にくれると言って、手渡してくれた。
「本当は、別れた彼女へのお土産のつもりだったんだけど、北沢さんにあげるよ」
「えっ!? いいんですか」
「もう、撚りは戻せないと思うし」
「そうなんですか……。どうして別れたんですか?」
坂本は、そのいきさつを話してくれてから言った。
「卒業したらどうせバラバラになっちゃうんだし。まあ、いい思い出だよ」
卒業したらバラバラになる。それは、私たちも同じだった。
もうそこで泣き出してしまいそうなカウントダウンが、すでに始まっていた。
***
あとで聞いたのだが、新田は翌朝、「まさか坂本さん、ゆうべ北沢さんとデキちゃってないですよね」と言ったそうだ。
それは想像に任せるが、やはり彼は気にしていたのだ。
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