第4話 それだけで



 小学五年生の時。クラス替えの後、馨はクラス中から透明人間のように扱われていた。彼を見ようともしない。話しかけると自分も無視されるから、彼がいないふりをする。全部、クラスでリーダー的存在の子が決めたことだった。その子にどうして馨が嫌われたのか、私はすぐに知ることになる。

 友達の女の子が、耳元でささやく。あの子、なずなちゃんのこと好きなんだって。だから、仲良しの築島くんが気にくわなかったみたい。

 理由が分かっても、私は馨に伝えなかった。むしろ、彼にだけは知られてはいけない。私のせいだと知ったら、馨は自分は悪くないと思うことができるのに。

 いじめっ子は、それでも自分になびかない私を切り捨てるように、私のことまで無視するように命じた。


「ごめんね、なずなちゃん。僕のせいで、なずなちゃんまで」


 泣きながら、馨が言う。違うよ、私のせいなんだ。出かかった言葉は、喉の奥に消えていく。

 このままでいい。だって、他の子なんて本当にどうでもいいのだ。ずっと一緒なのは馨だけでいい。馨だけが、私を必要としてくれる。

 親しくてよく一緒に遊んだ子が私を無視してきても、仕方がないと思うことにした。少しは悲しくなったけれど、馨のそばにいるためだから。

 涙の粒が、馨の頬を濡らす。ごめんね、と何度も繰り返して、真っ赤になった目で見つめてくる。

 ああ、これでいい。彼の泣き顔を間近で見られる。その権利が私だけに与えられたものだとしたら、それ以上の幸せなどない。

 いくらでも泣いていいよ、私の前でなら。私がずっと、そばにいてあげる。


「これで、私が馨をひとりじめできるね」


 馨の肩に手をのせて笑う。馨は少し驚いたような顔をして、すぐにまた泣きじゃくり始める。彼はきっと、私が自分を元気づけたいがために強がりを言ったと思ったのだろう。ありがとう、と小さく呟いて、私の手を取る。

 全然、お礼を言われるようなことはしていないのに。むしろ私のほうが謝るべきなのに。私は彼にそう言わなかった。ただただ、彼を独占できていることに喜びを感じていた。

 馨、私以外の人を見ないで。

 その時、目が覚めた。汗をかくほどの悪夢だった。肩で息をして、掛布団を握り締める。

 なぜ、あんなに昔のことを突然夢にみたのだろう。斎宮さんに、向き合えるといいね、と言われたから? 私は何かと向き合うべきなのだろうか。

 当時のことを思い出して、何かに気づいた自分がいる。

 私は、彼に自分以外の特別な人がいるということを認めたくないのだ。

 中学に入って、馨は自身の個性をいかすということを知り、女子たちから恋愛相談を受け、的確なアドバイスをすることで有名になっていった。

 私以外の人が彼に近づき始める中、それでも彼が私を特別扱いしてくれることが自信になり、なんとか自分を保っていた。

 けれど、彼が笑顔で、


「なずなちゃんも、好きな人ができたら僕にいつでも相談してね」


 なにげなく言ったはずの言葉に、ひどく動揺してしまった。

 馨は、私に好きな人ができてもいいんだ。許せない、なんて思わないんだ。私は違う。馨に好きな子ができて付き合うなんてことになったら、絶対我慢できない。

 私は、馨の特別なんかじゃないんだ。全然。

 今まできずいてきた自信は砕け散り、彼と少しだけ距離を置くようになった。それでも仲がいいのは変わらなかったけれど、私には、時間が必要だったのだ。

 同じ高校に入学し、しばらくはなんの問題もなく過ごした。だが、数か月後、彼には彼氏ができた。

 しかも、相手はあの志賀くんで。幼なじみの馨と、私と比較的仲のよかった志賀くんが付き合うことになって。両方と気まずくなって。何かが崩れていくのを感じた。

 


 登校しながら、学校いくの嫌だなあと思う。今は誰にも会いたくない、特に馨には絶対会いたくない。

 今なら実感できる。私は身勝手でわがままな人間なのだ。誰かの特別じゃなければ普通に生きていくこともできないような。

 馨が一言、私のことを特別な人だと言ってくれたら、救われそうなのに。

 彼がいなくても私は生きていかなきゃいけない。そう思うのに、馨がいない世界はあまりにも彩りがなくて、くじけてしまいそうだ。

 私は、馨のこと好きだったんだろうか。

 そんなことを考えながら、校門の前を通ろうとした時、

 

「おはよー、なずなちゃん」


 いつもと変わりなく笑いかけてくる馨。私は固まってしまう。どんな顔をしていいのか、全く分からない。どうして、どうしてよ。

 私は彼に引きつった表情しか返せなかった。逃げ出したい。馨を前に、こんな気持ちになったのは初めてだった。


「どうしたの」


 明らかに様子がおかしい私に、馨が首を傾ける。気づいてほしくなかった。馨は優しい。そういうところ、大好きだった。

 何を思ったのか、自分でもよく分からないまま、私は彼に話しかけていた。


「馨、私ね」


 口に出そうとした瞬間、その言葉のあまりの醜さにぞっとする。何を言おうとした? 何か彼にとって足枷になるようなことを言おうとしたのではないか。

 そう気づいた時、自分がすごく汚い生き物になってしまったような気がした。信じられない。自分が許せない。

 私は、やっと幸せになれた大切な幼なじみに向かって、「私、馨のことが好き」と続けようとしたのだ。そう言えば、彼が困るのは容易に想像できる。なのに、私は言おうとした。

 何が、大切な幼なじみだ。私は彼が欲しくて欲しくてたまらないのだ。ずっとそんな気持ちに重い蓋をしてきた。

 全部、自分で決めてきたことだった。なのに、今、肩が震えてしまう。馨、どうして私のこと、見てくれなかったの。彼を責めるような言葉があふれてくる。

 どこからか流れてきた風が、私の前髪を揺らす。その時、分かってしまった。私だって、彼のことを見ようとしなかった。ただ、大切にしたいあまりに、目をそむけてきた。

 だって、気が付かなかったじゃないか。彼のこと。かわいそうだと彼に話しかけてあげる私は、彼よりもかわいそうだった。気持ちがよかったのだ。彼の弱さが。彼には私がいなきゃダメだと思うことが。ひどく愚かで、おごり高ぶっていた。

 そんな自分を見つめることが何よりも恐ろしくて、ずっとずっと拒んできた。だけど、今なら分かる。

 こんな私でも、馨は許してくれた。笑ってくれた。私は、そんな馨のことが。


「私のこと、好き?」


 かすれた声を出して、彼を見つめる。馨は少しぽかんとした後、にっこり笑った。


「もちろんだよ。だって、なずなちゃんは僕のヒーローだもん」


 ヒーロー、か。私は馨の、特別になれたのかな。

 素直に嬉しいと感じるとともに、少し苦い気持ちになる。

 ヒロインじゃない。私は、彼のヒーローにはなれたけれど、ヒロインになれなかった。

 でもね、馨。私のヒーローは、馨だったんだよ。

 最後まで、思いを伝えることはできなかったけれど。


「ありがとう、馨」


 そう言って、笑みを浮かべることはできた。

 これが、自分に向き合うということなのだろうか。じゃあ、私はできたのかな。斎宮さんもこんなふうに、自分の汚い部分を認めることで、前に進めたのかな。

 心から、嬉しいと思えた。いつもどおりに馨と話し、笑い合えることができる毎日が、私にあるのなら。こんなに嬉しいことはない。

 彼の幸せを本当の意味で喜ぶこと。それが今、私が馨にしてあげられる、唯一のことだ。 



「で、結局、丹下さんは築島くんのこと恋愛感情で好きだったの?」


 斎宮さんが、椅子に腰かけて足を組みながら顔を覗き込んでくる。

 馨の件をなんとか認められるようになった後も、斎宮さんとの交流は続いている。私は彼女の目をまっすぐに見ながら、


「好きだったよ、間違いなく」


 私の気持ちを全て話してある斎宮さんには、呆れられてしまった。


「丹下さん、違うよ。それ恋じゃないよ。もっと接吻を交わしたいとかさー」


「接吻て」


 あはは、とのんきに笑っている私に、斎宮さんの目つきが鋭くなる。


「幼なじみを独占したいとか普通のことなのに、どうしてそこまで自分を追い込むのよ。もう一回言うけど、それ全然恋じゃないから。私たちの年代の恋って、もっと楽しいから」


「それは、本気で恋できる時が楽しみだね」


「ほんとだよねー、男に男をとられたもの同士、新しい恋探そうね」


 馨が志賀くんと付き合い続けていても、私の日常は変わっていない。むしろ、斎宮さんと仲良くなれて前より楽しい毎日を過ごせるようになっている。

 特別、という言葉に執着することもなくなった。まるで曇り空が晴れたみたいに。

 だって、気づくことができたから。自分が、どれだけ馨のことを好きか。

 大好きな馨が、私のことを大切に思ってくれている。それだけで。


「とりあえず、カラオケ行こうか、斎宮さん」


 私は、それだけですごく嬉しいから。

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