第36話 相乗り
ライターをしている澤田は、取材のため、某県のある企業に向かっていた。
ところが仕事の追い込みで疲れていたのが災いしたのか、電車の乗り換えを間違えてしまった。次の電車は30分後で、このままでは約束の時間に到底間に合わない。
多忙な先方に、ようやく入れてもらった取材の予定だった。仲介してくれた人物の面子も潰すことになる。遅れるわけにはいかなかった。
彼は駅周辺で、タクシーを捕まえることにした。幸い、駅を出てすぐのところに、後部座席のドアを開けたタクシーが停まっていた。
「すいません、○○駅まで」
運転席に座っていた、初老の男性運転手が振り向いた。
「○○駅ですね? 新幹線の新○○駅でなくて」
「そうです。在来線の」
助手席の真後ろに乗り込みながら、そう答えた。
タクシーは滑らかに発車した。運転手は何か話しかけてくるでもなく、静かにハンドルを握っている。
「何分くらいで着きます?」
「空いてますから、だいたい20分くらいでしょう」
時計を見ると、余裕を持って到着できそうな時間だった。やれやれ、とほっとした途端、疲労が溜まっていたせいか、眠気がどっと押し寄せた。
少し眠ってしまったらしい。
澤田がはっと目を覚ますと、タクシーはまだ走っていた。時計を見ると、タクシーに乗ってから10分ほどが経過していた。
知らない土地だが、どんなところだろう。ふと前方に目をやった澤田は、思わずぎょっとした。
誰もいなかった助手席に、人が乗っていた。
顔は見えないが、長い黒髪が肩に垂れているところを見ると、どうやら女性のようだ。
いくら寝ているからといって、客に断りもなく、人を乗せるなんてことがあるだろうか。仮に彼女に何か、のっぴきならない事情があったとしても、一言断るべきではないか。
少し腹が立ってきた澤田は、運転手に尋ねる前に、どんな奴が乗ってきたのか見てやろう、と考えた。
そこでシートベルトを外し、運転席の側へと移動した。その途端、黙って運転していた運転手が口を開いた。
「お客さん。運転中ですから、危ないですよ」
ずいぶん白々しい態度だ、とカチンときた澤田は、
「助手席の人、誰?」
とぶっきらぼうに尋ねた。
運転手は助手席を見ようともせずに、
「誰も助手席には乗ってませんよ。お客さんと私しかいません」
と答えた。
「いや、乗せてるでしょ。見えてんだから」
「乗せてませんよ。お客さんと私だけです」
明らかに自分のことを話しているとわかるはずなのに、助手席の女性らしき人物は、その間もまったく口を挟もうとはしない。身じろぎもせず、澤田を見ようとすらしなかった。
普通の反応とは思えない。彼もさすがに、気味の悪い女だな、と感じ始めた。
「お客さん、バックミラーで見てもらえませんか」
運転手がさっと左手を挙げて、バックミラーを示した。つられるようにそちらを見る。と、気づいた。
バックミラーには、女が映っていない。
彼女の頭に隠れて映らないはずの助手席のヘッドレストが、鏡の中にあった。
後部座席を移動するが、やはり運転手と澤田自身しか映らない。
バックミラーに映る自分の顔が、みるみる青ざめていくのが見えた。
「ね? 見間違いじゃないですかねぇ」
やけに落ち着き払った態度で、運転手が言った。
「ああ……そうかも……すみません……寝ます」
「着いたら起こしますね」
澤田は大人しく引き下がって、後部座席でもう一度目を閉じた。
助手席の人影が鏡に映らないと悟ったとき、とっさに「見えないふりをした方がいい」と感じたのだった。
目を閉じたものの、まったく眠れないままに、彼はタクシーに揺られ続けた。
途中でちらっと目を開けてみたが、助手席には変わらず、髪を肩まで垂らした人影があった。
「どう見ても、そこにいるとしか思えなかったんだけど」
澤田はそう振り返る。
目的地でタクシーが停まってから目を開けると、助手席の女は姿を消していた。いつ、どうやってタクシーからいなくなったのかわからなかったが、もういないならどうでもいいと思った。
料金を支払うと、運転手は何か小さな白いものを、おつりと一緒に彼に手渡してきた。
「塩なんで、こう、肩越しにやってください」
そう言いながら、自分の背後に何かを振りかけるような動作をした。
澤田が何か聞くよりも早く、タクシーはドアを閉めると走り去った。
手の中には、和紙できれいに包まれたひとつまみの塩が残されていた。
なぜこんなものを用意していたのだろう、と考え始めたが、すぐにやめた。
有り難く使わせてもらってから、澤田は取材先に赴いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます