第34話 海に臨む
木内さんという、三十代の男性がいる。
会社員の彼は、東京にある某企業の本社に勤めているが、全国各地に支店があるという。
ある時用事があって、山梨県の支店に行くことになった。
木内さんは新宿駅から特急電車に乗って、支社の最寄り駅を目指した。
平日の午後一時半頃の電車だったが、乗客はほとんどいなかった。目的地に着くまでの間、のんびりできると思うと嬉しかった。
駅で購入したコーヒーを飲みながら、読みかけの本を開いていたが、少しすると睡魔が襲ってきた。
幸い目的地が終点なので、寝過ごす心配はない。少し寝ておくか、と本を伏せると、木内さんは目を閉じた。
電車が激しく揺れて、目が覚めた。
はっと顔を上げて窓の外を見ると、一面に海が見えた。
曇天の下に、灰色の海がどこまでも広がっている。
木内さんは思わず立ち上がった。
東京から山梨へ向かう途中に、こんな海沿いを走ることがあっただろうか。
彼はとっさに、電車を乗り間違えたのだと考えた。どのくらい眠っていたのかわからないが、目的地から相当離れてしまっただろう。
時計を見ると、二時を少し回ったところだった。眠ってしまってから、あまり時間は経っていないようだ。
しかし今どの辺りにいるにせよ、これから電車を乗り換えたのでは、予定の時間には間に合わないだろう。となるとやはり、早く会社の人間と連絡をとらなくてはならない。
車内を見渡した。同じ車両に乗客の姿はなかった。誰もいないのなら迷惑にならないだろうと、会社から支給されている携帯電話を取り出し、山梨の支店に電話をかけた。
数回呼び出し音が鳴ってから、カチャ、という音がした。
「もしもし、本社の木内ですが」
受話器の向こうからの返事はなかった。ただ、たくさんの人が電話の傍にいるような、ざわざわとした気配が伝わってくる。
「もしもし? すみません、そちらの声が聞こえないんですが」
その途端、轟音と共に辺りが真っ暗になった。どうやら真っ暗なトンネルに入ったらしい。立ち上がっていた木内さんは、慌てて近くの椅子に手をかけた。
チカチカッと音を立てて、車内の電灯が点いた。
先ほどまで空っぽだった車内の座席が、すべて埋まっていた。
崩れた粘土で作った人形のようなものが、ぎっしりと腰かけていた。
木内さんの喉の奥から、「ヒッ」という声が出た。
その途端、座席を占めている泥人形たちが、真っ黒い穴のような目を、一斉に彼に向けてきた。
車窓が急に明るくなった。
あまりの眩しさに、木内さんは思わず目を閉じた。
おそるおそる目を開けると、窓の外には緑の山並みが連なっていた。
少し離れたところに座っている年配の女性が、こちらを不審そうに見つめていた。目が合うと、さっと視線を逸らされた。
木内さんは、座席の背もたれに手をついて、特急電車の通路に立っていた。
時計を見ると、二時を少し回ったところだった。アナウンスが流れ始める。どうやら予定通り、目的地に向かっているらしい。
ほっと溜息をついて、座席に座り込んだ。
夢を見たのだろう、と思った。
すっかり眠気が覚めていた。彼は窓の外を睨みながら、終点まで電車に揺られていった。
支店に到着すると、担当者が出迎えてくれた。
「木内さん、わざわざお疲れ様です」
「いや、そんな遠くでもないですから」
少し雑談を交わしていると、担当者がふと思い出したように言った。
「そういえば木内さん、二時くらいに電話をいただいたようなんですが」
それを聞いた途端に、全身がぞっと粟立った。
「私がですか?」
「木内さんの携帯の番号だったはずなんですけどね。でも、何も言わないで切れちゃったんですけど」
「そうですか……いや、記憶にないですね」
電話をしたのは、夢の中のことだったはずだ。木内さんはそう思った。
とっさに「どこか変なとこ押しちゃったんですかね?」と言うと、担当者は「最近の携帯でも、そういうことあるんですねぇ」と言って笑った。
「ま、でも僕の勘違いかもしれないです。なんか、波の音みたいなのが聞こえてたんで、変だとは思ったんですよ。東京から山梨に来るのに、波の音なんてねぇ」
木内さんが震える手で携帯電話を取り出してみると、画面に泥をなすったような痕がついていた。
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