第32話 だれかくる

 美咲さんが小学校三年生の、冬の日のことだったという。


 彼女の家は二階建ての一軒家で、二階にある子供部屋をお姉さんと共有していた。

 両親は共働きで、中学生のお姉さんは部活で帰りが遅い。友達と遊ぶ約束のない平日の夕方は、家で一人で過ごすことが多かった。

 その日も美咲さんが小学校から帰ると、家には誰もいなかった。いつものことなので、子供部屋で学校の図書室から借りてきた本を読んでいた。

 夕方四時を過ぎ、少し部屋が暗くなり始めた頃、寒さも手伝ってかトイレに行きたくなった。

 子供部屋を出てすぐのところにあるトイレに入ると、手早く用を済ませて、本の続きを読もうとドアを開けかけた。

 その時、一階の玄関の方から

「みいちゃーん。おかあさんですよー」

 という声が聞こえた。

 ぎくっとして、トイレのドアを開けようとした手が止まった。

 知らない女の人の声だった。

 玄関のドアを開ける時の「ガラガラ」という音も聞いていない。

 急に誰かが、玄関に降って湧いたようだ。

 もう一度声がした。

「みいちゃーん。おかあさんですよー」

 やはり階下からだが、さっきよりも少し声が近いような気がする。

 怖くてトイレから出られない。

 美咲さんは内側から鍵をかけると、トイレのドアを塞ぐように座り込んだ。

「みいちゃーん。おかあさんですよー」

 階段のすぐ下から声がした。

「みいちゃーん。おかあさんですよー」

 階段の途中あたりまで上ってきた。

 声ははっきり聞こえるのに、足音がまったく聞こえない。

「みいちゃーん。おかあさんですよー」

 さらに声が近づいた。

 階段から二階の廊下に出ると、トイレまではほんの数歩だ。

 声を出さないように、両手で口をふさいだ。

 涙が止まらない。

「みいちゃーん。おかあさんですよー」

 少し声が遠くなった。

 廊下からドアを隔てた子供部屋に入ったのだ、と思った。

 子供部屋にいないのがわかったら、次はトイレに来るかもしれない。

 何が来るのかわからない。

 怖い。

 その時、子供部屋から

「みつけたぁ」

 と一際大きな声がした。


 それを最後に、声は聞こえなくなった。


 声がしなくなってからも、美咲さんは怖くてトイレから出ることができなかった。

 一時間以上経ってから、玄関のドアが開く音がして、「ただいまぁ」というお母さんの声が聞こえた。ようやくトイレから這い出したところで、階段を上ってきたお母さんと目が合った。

「みいちゃん、どうしたの?」

 驚いているお母さんに、大泣きしながら飛びついた。

 お母さんは彼女の話を聞くと、「隠れてたのね。偉かったね」と褒めてくれた。

 二人で子供部屋に戻ると、母方の祖母にもらって棚に飾っておいたはずの、大きな市松人形がなくなっていた。

 何度か家中を探したが、今に至るまで見つかっていない。


 お母さんは声の主に何か心当たりがあるようなそぶりだったが、何となく聞けずにいるうちに、不慮の事故で亡くなってしまった。

 あれが何だったのかわからないまま、美咲さんは先月、母親になった。

 とりあえず、生まれた娘には人形を買ってあげようと考えている。

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