第25話 言ったら
晴夫さんは、ある地方都市の住宅街で、小さな美容室を営んでいる。
数年前、常連客に広本さんという女性がいた。旦那さんは単身赴任で家におらず、小学生の息子さんと二人暮らしだという。
「息子も野球の試合だ何だって、留守が多いんですよ。だから一人でいると何だか寂しくって」
愚痴ることもあったが、穏やかで感じのいい女性だった。
ある時、広本さんの髪を切っていると、彼女がやにわに口を開いた。
「あのぅ、ちょっと変なこと言ってもいいですか」
「はい? どうぞ」
「あのぅ、私一人で家にいると、どうも誰かがもう一人、家にいるような気がするんですよね。息子とか、たまーにダンナがいる時はいいんだけど。なんか、誰もいない部屋から足音がしたり、溜息が聞こえたりするような気がするんですよ。嫌ですよねぇ、更年期かなぁなんて」
「広本さん、まだお若いでしょう。やっぱりお一人で広い家にいるから、落ち着かないんじゃありませんか」
「そうですよねぇ。やっぱり私もそうかなぁと思うんですけど」
そう言うものの、鏡の中の広本さんの顔色は、どことなく冴えない。
「気になるようなら、盛り塩でもしてみたらどうです? 変な意味じゃなくて、厄除けってことで」
「実は、私もそう思ってやってみたんです」
カクテルグラスに塩を詰めて、きれいな三角錐になるよう皿に盛った。
「そしたら、塩が水でもかけたみたいにぐずぐずになっちゃって。お皿もびしょびしょになっちゃったんです。なんか、気味が悪くなっちゃって」
「そうですか……」
晴夫さんも、思わず言葉に詰まってしまった。それを察した広本さんは、
「あ、気味の悪い話しちゃってごめんなさいね。一人じゃない時は平気なんだから、やっぱり気のせいですよねぇ。家だってもう、最近なんか湿気がすごいんだから」
と、強引に話を「家の湿気の話」に変えてしまった。
それからしばらく経ったある日、晴夫さんの親戚が亡くなった。突然の出来事だった。
葬儀の日だけは店を休まなくてはいけない。たまたまその日に広本さんの予約が入っていたので、急いで電話をかけ、事情を説明して謝ることにした。
『そうですか。それはご愁傷様です。どうぞ気になさらないでください。じゃ、別の日に入れてもらえます?』
「本当に申し訳ありません。助かります」
彼女はテレビを観ていたらしく、電話の向こうから、たまに大勢がどっと笑う声や、タレントらしき人のしゃべる声がする。
ふと、テレビの音と違う質の声が聞こえることに気付いた。
広本さんがしゃべる合間に、『……んで』とか『……なの』とか、切れ端のような声が聞こえる。
テレビのように、少し離れたところの音が入っているのではなく、受話器の近くでささやいているような声に思える。
「すみません、広本さん、どなたかおいででしたか?」
『いいえ? 一人ですけど』
『いったらいくよっ』
広本さんの声にかぶせるように、早口の言葉が聞こえた。
かすれた、低い女の声だった。
「あっ、そうですか・・・・・・なんだ、テレビの声ですね。失礼しました」
『ああ、こちらこそすみません。点けっぱなしで』
その後、新しく予約を入れ直してもらって、電話を切った。
背中が汗でぐっしょり濡れていた。
「言ったら行くよって……困るよねぇ、こっち来られたら。うちも家族がいるし、お客さんだって来るんだもの」
罪悪感を覚えつつも、結局告げることができなかった。
数か月後、広本さんの息子さんが小学校を卒業した。広本さんは親子揃って、旦那さんの単身赴任先に引っ越すことになった。
名残惜しかったが、正直ほっとしたという。
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