第15話 階段

 折原くんは大学生の頃、半年ほど喫茶店でアルバイトをしていた。

 その喫茶店は、ある地方都市にあるデパートの二階に入っていた。チェーン系ではない、落ち着いた小さなお店で、店長とその奥さん、それに古参のおばさん従業員の三人でのんびりと営んでいた。しかし奥さんが怪我をして入院してしまったため、急遽ピンチヒッターとして雇われたのが折原くんだった。

 真面目で頭のいい折原くんはすぐに仕事を覚え、店長たちから信頼されるようになった。バイトを始めて数週間後、彼はある仕事を任された。

 デパートは八階建てで、最上階は売り場ではなく、デパートを運営している会社のオフィスとして使われている。喫茶店は七時に閉店するのだが、レジを閉めた後、そのオフィスまで売上金を届ける決まりになっていた。

「遠くて時間がかかっちゃうから、悪いんだけど折原くんが行ってくれない?」

 ということで、彼が売上金を運ぶことになった。その際に店長からこう言われた。

「エレベーター使った方がいいよ」


 デパートのバックヤードには、従業員専用のエレベーターがある。しかし一基しかない上にスピードが遅く、待っているとイライラしてしまう。

 店長からのアドバイスは覚えていたものの、ほどなく折原くんは、バックヤードにある階段を使うようになった。

 二階から八階までは確かに遠いが、大学でワンダーフォーゲル部と柔道部を兼部していた彼には、かえってちょうどいい運動に思えた。それに階段を上り下りした方が、結局はエレベーターを待つよりも手っ取り早かった。

 その階段は広さこそあるものの、きわめて殺風景だった。壁はコンクリートの打ちっぱなしで、寒々しい色の電灯に照らされている。夏でもひんやりとして、むしろ肌寒いくらいだった。ホラーゲームに出てきそうな所だな、と彼は思った。

 ここで他の従業員と出くわすことは稀だった。一基しかないエレベーターを使う人がほとんどらしかった。


 バイトを始めて三ヵ月ほどが経ったある日のこと。

 折原くんはいつものようにオフィスに売上金を預け、バックヤードの階段を下っていた。ほとんど駆け下りるくらいのスピードで二階を目指していると、四階に差し掛かったあたりで、電灯がジーッという音を立て始めた。消えたりしないだろうな、と折原くんは足を止め、電灯を見上げた。

 彼の足が止まった直後、カンカンという足音が聞こえ始めた。誰かが階段を上ってくる。それもかなり急いでいる様子だ。

 珍しいな、と思った。すれ違ったら挨拶をしようと息を整えていると、唐突に人の姿が目に入った。

 髪を長く垂らした女性が、真下を向いたまま、ものすごいスピードで折原くんの横を通り抜けていった。

 映像でしか見たことのないバブル期を思い起こさせるような、肩の張った真っ赤なスーツを着ていた。

 驚いた折原くんが振り返ると、すでに女性の姿はなかった。

 思わず立ち尽くしていると、上の方からガン! と何かを蹴飛ばすような音がした。

 見上げると、階段のずっと上、手すりの間から女がこちらを見下ろしていた。

 目鼻はなく、大きな穴が顔の中心に開いていた。

 折原くんは絶叫しながら階段を駆け下りた。


 店長も古参の従業員も、その女性については何も知らないという。

 ただ誰も、折原くんの話を否定することはなかった。

 奥さんが職場復帰して退職するまで、彼は一基しかないエレベーターを使い続けたという。

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