第11話 ぬばよいがえりの夜

 小野沢はここ何年か、実家に帰っていない。

 彼の故郷は、某県の山際にある小さな村だという。不便なところだが、食べ物や水はおいしいし気候もいい。景色もきれいで、三百人ほどいる村人たちは皆仲良く暮らしていたという。そしておそらく今もそんな村であるはずだ、と。

「まさに桃源郷のようなところなんだよ」

 そう小野沢は言う。


 その村には、毎年秋に行われる「ぬばよいがえり」という行事があった。

「ぬばよい様って神様がいて、普段は山に住んでるんだけど、年に一度村に降りてくるんだ。その日は日が暮れたら、絶対に外に出ちゃいけないって決まりがあってね。ぬばよい様は人に見られるのが嫌いだから」

 故にその日は、有志が村役場に集まり、一晩中閉じこもってどんちゃん騒ぎを行う。もちろん、自宅に引きこもって過ごす村人も多い。

 当時の小野沢は、村から毎日三時間近くかけて、県内の大学に通っていた。そこまでしても、村から出たくなかったのだという。

「どうしても帰りが遅くなるから、ぬばよいがえりの日は一日大学を休んだよ。日が暮れたら、村に入れなくなるからさ」

 大学の友人にその話をすると、面白い行事だな、と興味を示してきた。

「お前も来るか? 役場で酒飲むだけだけど、と誘ったら、二つ返事で来ると言われたよ。いや、別に外部の人間を入れちゃいけないとか、そんなことはなかったんだ」

 ただ、日が暮れたら外に出てはいけない。それだけだった。


 ぬばよいがえりの日、その友人は三時間かけて村にやってきた。

「一泊だってのに、やけに大きな荷物でね。酒やらなにやらを持ってきたと言ってた」

 村を案内すると、彼は「映画のセットみたいなところだなぁ」と目を輝かせた。

 日暮れ前、小野沢は友人を伴って村役場へ向かった。村人も客人を歓迎してくれた。元々屈託がなく、明るい性格の友人はすぐに村の人々と打ち解け、夜になる頃にはすっかり出来上がっていた。

 村役場は公民館の役割も兼ねていて、小さなステージのある、ちょっとしたホールがあった。そこに百人近くが集まり、宴会が始まった。

「一応パイプ椅子出したりしてるんだけど、みんな酔っぱらって床に座っちゃってね。でも楽しいんだ、それが」

 小野沢も楽しんでいた。何本目かわからないビール缶のプルトップを開け、げらげら笑いながら床に腰を下ろす。時刻はそろそろ日付が変わろうかという時だった。

 突然、友人が両手で顔を押さえて唸り始めた。

「相当飲んでたし、気分が悪くなったんだと思った。おい、どうした? って声をかけたら、奴の指の間からどろどろ血が流れてきた」

 両目から出血していた。小野沢の絶叫に、周囲の村人がどっと集まってきた。宴会の騒々しさが、あっという間に別の種類のざわめきに変わった。おろおろしていると、友人が「ぼっ」というような声をたて、床に倒れた。

「それで金縛りが解けたみたいになってね、救急車! 救急車呼んで! って叫んだんだ。でも誰も呼ばない。それどころか怒鳴られたんだ」

 馬鹿野郎! 今日はぬばよいがえりだぞ! 人なんぞ呼んでみろ!

「ガツーンと頭を殴られたみたいだった。ショックでさ」

 それでも小野沢は、なら自分が呼んでやろうと携帯電話を取り出した。その時、誰かに頭を殴られた。

 気が付くと、どこか暗いところにいた。体が動かなかった。どこかで時計の秒針の音がしていた。大声を出したが、誰かが来る様子はなかった。

「自分がどうなってるかも、ここがどこなのかもわからなくて、気が狂いそうだった。散々声を出して騒いでも誰も来なくてね。とうとう声が枯れて、もう嫌だ、嫌だってぶつぶつ言いながら泣いてたら、いきなり明るくなった」

 見慣れた村人の顔が見えた。

「夜が明けたぞ」

 小野沢は村役場のステージの下、普段パイプ椅子を収納しているところに押し込まれていた。手足がガムテープでぐるぐる巻きにされていた。

 茫然としていると、サイレンの音が聞こえてきた。


 友人は亡くなった。

 床に倒れた時点で、すでにこと切れていたという。内側から目玉が潰れ、頭の中身がぐちゃぐちゃになっていたと聞いた。

 のちに、材木置き場の陰から壊れたビデオカメラが見つかった。友人が村役場に行く直前、小野沢たちの目を盗んで仕掛けたものらしい。

「十時間くらい撮影できるやつだって。そんなもの持ってたのか、と呆れちゃったよ。要するにあいつ、ぬばよい様を撮影しようとしたんだろうな。でも、ぬばよい様は人に見られるのが嫌いだから」

 次の日、小野沢はほとんど身一つで村を出た。以来帰っていない。実家にも電話をかけるだけだ。

「あいつを村に連れてったから居づらくなった、っていうのもあるけど、あの夜の村の人たちが怖くてね……救急車を呼ばせないために、あの夜だけは外に人を出さないために、何でもするんだって。それがね……それに、村人のくせにそれができなかった自分が、なんかすごく情けなくて。その、情けないって思う自分も怖くなって」


 ずっとあの村にいたのに、何もわかってなかったんだ、俺。

 そう呟くと、小野沢は口をつぐんだ。

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