第9話 国際化しているかな?


 かつてよく見る夢は2種類あった。1つは幸せなものだった。誰かが隣にいて、一緒に笑ってくれる。共感してくれる。それは起きれば消えるもので、あまりにも名残惜しく、目が覚めてすぐは呆然としていた。もう1つは恐ろしいものだった。唐突に何かから逃げる。逃げなくてはならない。追いかけられる。それは現実味を帯びていて、起きてすぐは動悸が止まらなかった。最も辛かったのは幸せなものが急転して何かに追いかけられるものに変わることだった。隣にいた誰かのことが心配で、しかしもうほとんど覚えておらず、やがて完全に忘れてしまうことに寂しさを感じていた。





 進級してクラスが変わった。前回は理系だったから今回は文系に行こうかとも思ったが、やめた。そこまでの心の余裕はなかった。沙那恵さんは祖父母から受験が認められず、どこかでパートと家事手伝いをすることにさせられていた。まあ、これに関しては準備を進めていたが、その前に偶然、2人とも死んでしまった。元々あった持病が悪化した。沙那恵さんは泣くことも喜ぶこともなく、ただ無だった。


 誰も葬儀をしそうになかったので、私が手続きを行い、未成年後見人は司法書士に頼んだ。その時に初めて沙那恵さんの家に入った。小綺麗にしてあったが、沙那恵さんの部屋は狭く、必要最低限の物のほか何もなかった。自分の部屋を見ているようだった。思い入れもないそうなので、家も土地もほとんど全てを売り払って高校の近くにアパートを借りた。沙那恵さんはしばらく落ち着いて過ごすそうだ。大学には一緒に行く予定だ。


 引っ越しが終わったある日、沙那恵さんの家に遊びに行った。インターフォンを鳴らすと彼女がエプロン姿で顔を覗かせた。


 「おじゃまします」


 「ふふっ、違うよ。ただいま、だよ」

 沙那恵さんの言う通りだ。少し期待した顔で微笑んでいる。


 「ただいま」


 「おかえり」


 2人とも、たどたどしく口にする。同時に目をそらして、また同時に合わせる。頬が染まっている。当たり前の幸せがある。


 「ただいま」


 「おかえり」


 家の中で何度も繰り返す。家族がいることはこんなに素晴らしいのか。今度は逆にして……。ああ、美しい。頑張ってよかった。


 初めて食べた沙那恵さんの料理は、何故か懐かしく、心の温まる、私に合った味だった。


 「おいしい、沙那恵さん」

 ほんの少しだけ不安げで、でも柔和な顔でこちらを見ている彼女に伝える。幸せだ。


 「ありがとう、○○さん。好きな人に食べてもらうと私も嬉しいよ」

 目が細まり、輝くような笑顔が私に向けられる。ずっと見ていたい。





 それからはしばしば沙那恵さんの家に帰る日が始まった。話をすることもあれば、何もしないでただいるだけのこともある。それが全く苦にならない。部屋は掃除が行き届いていて、物は少なくさっぱりと、中性的なデザインの家具類が置かれている。その中にちょっとした女の子らしい置物があるのが可愛い。、私の物もクローゼットに入れてある。貸倉庫は解約した。


 窓から漏れる夕日が部屋に彩を添える。夕食を一緒に食べて、幸せな時間を過ごす。ちょっとした仕草を見つめ合う。内職の道具が部屋の隅に置いてある。やらなくていいと言ったのに、彼女は自分にできることをと言ってくれた。お互いのことを想いあって、思いやっている。


 もちろん長くはいられない。家に戻って奴らを欺く必要がある。ばれたら殺される。陰湿に、支配しようとしてくる。前回はやっとまともな家庭になったのかと騙されていた。人を騙すときは恐怖を与えてから味方の振りをする。それだった。洗脳だ。死ね。


 学校生活に大きな問題はない。前回はこの時期、地獄から逃れるためにずっと勉強していて、ほとんど周りのことを覚えていない。今回は適度に楽しんで、学生とも程よく仲良くしている。勿論仕事もある。仕事の種類も時代に合わせて変えている。基本はPCを使ってできることだ。



 夏休みのある日、沙那恵さんと遠くの動物園に行った。普段着の彼女も見ているが、こういう時の少しだけお洒落した姿も良かった。初めて理科室で会った時から、背丈などは変わっていないけれども、少女らしくも大人びた表情に、分かる人には分かる明るさが乗っているから一層似合っていた。

 動物園に入る前に近くの和食屋で昼食を食べた。この手の年季の入った店に普段2人で入ることはできないから、それだけで楽しかった。浮かれながら入場券を買って、柵を通って、パンフレットを見ながら気の向くままに散策をした。


 「やっぱり私達、生物部だね。楽しい」


 「そうだね」


 「何か飼いたいな」

 この、ちょっとだけ甘えるようなポーズがたまらなく可愛い。庇護欲をそそる。


 「将来は、そうだね、犬と猫を飼おう。きっと楽しいし、子供にもいいよ」

 少しいじわるをしてみる。おかえしだ。


 「はい。じゃあ、もう少しだね」


 お互いに分かってやっている。ただのじゃれあい。生きている。


 私達は特に鳥類園が気に入った。様々な色の鳥が自由に飛び回り、可憐な鳴き声で歌い、仲睦まじく羽繕いしあうさまはかつて私達にはなかった光景だった。今はもう違う。お土産にはフクロウの置物と、シロクマの置物を買った。沙那恵さんの家に飾ってある。



 クリスマスには2人で家でゆっくりした。小さなツリーや雪だるまの飾り、ささやかな、家族でするようなパーティーだった。それが新鮮で、子供っぽくて、少しふざけ合いながら楽しんだ。沙那恵さんはグラタンを作ってくれた。鶏肉入りのだ。ショートケーキを食べて、お互いにプレゼントを交換して、それから隣に座って、クリスマスソングを聞きながら幸せを噛みしめた。


 大晦日も元旦もそれから誕生日も、家でやるようなイベントをおずおずと、しかし羽を伸ばして、あどけなく楽しんだ。今までできなかった分を取り戻すように。沙那恵さんが喜んでいれば私も嬉しい。私が喜んでいれば彼女も嬉しくなってくれる。そばにいてくれることがどれだけ幸福か。窓の景色はどんな天気でも私達を祝福してくれているようだった。





 進級して3年生になり、本格的に受験勉強を始めた。沙那恵さんは卒業して予備校に通い始めた。それぞれの志望分野は違った。同じ総合大学に行くか、首都の違う大学に行くかを話し合ったが、やはり首都に行くことにした。広く世界に触れるには首都に行くのがよい。同じ意見だった。まあ、それぞれの志望大学は近くにある。


 家では何も変わらない。人格否定、言い訳が繰り返されるばかりで、自分の世界の常識を押し付けてくる。死ね。志望校を一応伝えたが、応援されることはなかった。当然、塾、家庭教師、通信教育などは許されなかった。参考書を買う金さえない。弟がいない分静かに勉強できるのはよいが。ちなみに妹は高校受験のためにとこれらを無節操にやらせてもらっていた。別に、奴らの金だから、誰にどうコストをかけるかは自由だ。だから、私が何をどうしようかも自由だ。そう、阻害されるいわれはない。


 学校はまだ受験モードになっていない。大体の運動部の大会が終わって、そのあとの体育祭が終わってからだ。今はやっている人とやっていない人の間で意識の差がある。だから、ああいうことが起こるのだろう。



 体育祭の準備でクラスは盛り上がっていた。私の通っている高校は伝統的に体育祭に力を入れていて、特に3年生はリーダーとなって全てを行うことになっている。だから団結力と自立心が育つ、というものだ。とはいえ、例年通りの伝手を先輩から引き継ぐから一から何でもするわけではない。


 私はチームのポスターを作製する担当の一人になった。仕事も大事だが、スケジュールを調整してやることはやるようにしている。せっかくだからと他の学生と楽しくやっている。前回こういうことをできなかったから新鮮だ。自分の分のタスクは全うする。与えられるばかりも与えるばかりもやっていられないと思う。



 準備途中のある朝のことだった。登校したらクラスが、というか学年がざわついていた。女子の衣装がなくなっていたからだ。それがまた、偶数のクラスの、可愛い子だけのがだ。私のクラスを含む奇数の方は犯人がいると疑われ、衣装を盗まれた女子は気落ちしていて、と混沌としていた。ちなみに、盗んだ犯人の審美眼は見事に確かだった。

 まあ、犯人は簡単に分かるのだが。前回も起こったことだから今回も起こると知っていた。だから監視カメラを仕掛けておいた。犯人は、へえ、ENだったのか。この後は先生の巡回が増えて、衣装や大事な物は鍵のかかるロッカーに入れることにして、それで体育祭が終わるはずだ。


 犯人は外部かもしれないという期待のもと、大きく問題にはならなかったが、もし学生が犯人と分かれば体育祭が中止になるかもしれない。学生の間では元々持っていた熱に疑心暗鬼が加わって、段々熱く、過激になっていた。



 そんな中、騎馬戦の練習中に、腹に重い一撃を入れられた。蹴ったのは、PJか。動くに動けずもろに当たった。痛い。この空気に乗じて、お祭り気分で何をしても良いと思っているのか。周りもそんな雰囲気だ。万が一にも後遺症や、あるいは骨折などしたら受験に響きかねない。遊びとの線引きができていないんだな。


 PJはこの時期、とにかく調子に乗っている。謝りもしなかった。それどころかお前が悪いと喚き始めた。仮に、駄々を収めるのにこちらが譲歩して謝ったとしたら、次から次に何でも私のせいにして騒ぎ出しただろう。だから、シンプルに無視をした。それさえも気に入らなかったようだ。通り魔と変わらない。


 多分前回は別の人が味わったのだろう。学校内の立場が変わった影響だと思う。こうした変化は度々あるが、大局を変えることは困難で謎の激痛を伴う。まあ、前回何もなかったからと言って見逃すつもりはない。さくっと終わらせよう。





 さあ、どうしてやろうか。奴が誰であろうが特別とは思わない。時間をかける気はしない。大ごとになれば体育祭が中止になってしまう。だからシンプルに、大人しくなるようにする必要がある。


 PJの家は市外のすさんだ場所にあった。チャラい大学生に変装して後をつけた。追跡に使う物を買うのも、隠し場所も、金があれば簡単だった。次の機会を窺っていると、PJが次の休日に遠出をすると誰かに話しているのが聞こえた。当日、遠くからPJの家を観察していると、確かに一家揃って車で出かけていくのが見えた。


 (早く終わらせよう)


 チャラい大学生の格好で家の近くまで行く。辺りの目はそこそこあるが、一瞬の隙をつけば簡単に窓から侵入できる。狭い家だ。すぐに台所の場所が分かった。家全体が臭い。地味に厄介なことに埃がそこらに残っている。足跡がつかないように注意して進む。


 (やっぱりあるよな)

 冷蔵庫の中には外国産の加工食品が入っていた。思った以上だ。しかし、することは変わらない。


 懐から重金属XXXを取り出して、開いているものに混ぜる。以前から用意していたものだ。


 (というかこの容器……)

 開封したことが分かるデザインになっていない。さすが外国製。


 ついでに全てのものにXXXを入れておく。多めに持って来てよかった。さあ、早く終わらせて出よう。鼻が曲がりそうだし、頭の中で解いていた問題も一区切りついた。



 PJは徐々に体調が悪くなった。そのため周囲に噛みつく力もなくなり、私は遠巻きに、安全に過ごすことができるようになった。下手に近づけば体調不良もお前のせいと言われかねない。

 体育祭が目前に迫る頃にはPJは嘔吐と下痢が止まらなくなっていた。家族も同様のようで、そのために食中毒が疑われた。実際、それでXXXは見つかったのだが、その国の製品なら入っていてもおかしくない。製造元は混入経路を突き止めることに非協力的だったようだ。報道の続きはなかった。PJの執着はその製造元に行ったようで、家族総出で粘着しているらしい。


 まあ、その製品から別の混入物がすぐに見つかるから、XXXが混ざっていても不思議ではない。体育祭が終わればもう用はない。関わり合いたくもない。関わると損をする。彼らの目についてはいけない。総出で延々と絡んでくる。彼らにとってのその他大勢でなくてはならない。





 夏休みになった。沙那恵さんも私も受験勉強は順調で、このまま行けば合格するだろう。そこで、息抜きを兼ねて新幹線で遠くの神社に行った。学問の神様として有名な所だ。こういう所の神聖さは嫌なことを忘れさせてくれる。あるいは周りの大自然がそうさせてくれるのだろう。独特の匂いで深呼吸をしたい衝動に駆られた。私は沙那恵さんが合格するようにと祈願した。彼女だけでも幸せになって欲しい。昼食には豚カツ定食を食べた。それから新幹線に乗って帰った。食後だったから、それに連日勉強していたからだろう、沙那恵さんは乗ってすぐに眠ってしまった。無防備に頭を持たれかけてきて、その横顔は可愛かった。ずっと見ていたと思う。


 家の中は妹の高校受験があることで、ピリついたムードになっていて、何でも妹が最優先になっていた。私の時は全くなかったのに。というか私も受験なのに。妹はそのことに増長してはいるが成績は振るわず、八つ当たりをしては宥められて悦に浸っている。弟がいないから前回よりも余計に過保護にされている。私の時は少しでも気に入らなければ殴る、叫ぶ、だったはずだが。気味の悪い集団だ。死ね。


 仕事はというと、一時的に量を減らしている。全くやらないと収入に不安が残るから少しだけでもしなければならない。


 学校はすっかり受験モードだ。良いことだ。推薦で決まった学生は一足早く春を謳歌している。流石にこのレベルの高校だと騒ぐ人はいない。



 クリスマスとお正月を沙那恵さんの家で過ごし、センター試験も無事に終わった。思い返すと前回も解いたような気がする問題がいくつかあった。多分ほとんど同じだったのだろうが、そこまで詳しく覚えていない。沙那恵さんの家で自己採点をした。


 「ねえ、○○さん、私、大丈夫かな?」

 採点が終わってすぐに、沙那恵さんに聞かれた。不安げな顔が寂しそうにこちらを見ている。


 「大丈夫。模試でもいつも良い判定で、過去問もスラスラ解けていたんだから。それに、センターの結果も余裕があるでしょう?」


 急に自信が喪失する感覚は分かる。極めて重要な時に現れる。何をやっても失敗すると思ってしまう。動けなくなる。これも毒の呪いだと思う。自分のは断ち切った。沙那恵さんのもなんとかしてあげたい。


 「うん……」


 「私を信じて、ね?」

 彼女を抱きしめる。普段全くしないことだ。慣れていない。柔らかく、温かい。安らぐ香りがする。心臓の鼓動が微かに伝わる。優しく背中をさすり、大丈夫と言い続けていると、彼女の体の緊張が解けていくのが分かった。


 「ありがとう。もう、大丈夫。○○さんを信じる」


 沙那恵さんが落ち着いてくれてよかった。少しだけ、その熱、振動、感触が名残惜しかった。



 そして迎えた二次試験当日、前日から首都の空気に触れて脳が活性化していた私は、難なく試験を終わらせた。ここでも前回解いた気がする問題があった。どうせなら試験前に思い出していればまだよかったのに。

 自己採点の結果、ほぼ合格していることが分かった。沙那恵さんも手応えはあったらしい。首都から戻ってまずは沙那恵さんとゆっくりした後、彼女は後期試験に備えて勉強を続けた。





 私は、二次試験が終わった時から、ある予感がしていた。何かの枷が外れたような感触だった。家に戻り、通帳と印鑑、その他貴重品をまとめてカバンに入れる。それから部屋の、壁紙の一部を剥いで一緒に入れる。お前達には前回も今回も随分助けられたな、ありがとう。みんな持っていけなくてごめんな。


 夕食のみそ汁に睡眠薬を盛った。家の連中、男親と女親、それから妹は深く寝入っている。用量もばっちりだ。動けないように縛り付けていると、これまでの、今までの、蓄積したものが込み上げてくる。まだだ。ガソリンを車から抜き取る。それを奴らの寝間着に染み込ませる。大事なのはかけ過ぎないことだ。四肢の付近なら動けなくなってからもしばらくは生きるだろう。計算済みだ。勉強したことだ。

 それから、YYYやZZZが発生するような物を奴らの周りに自然に置く。余ったガソリンや調理用油、灯油などに空気がよく通るようにして、気流が上手く回るよう、一部の窓やドアを開けて、その他あり得る範囲で配置換えなどをして……。台所にのガスを程よく充満させたら、後は、時限発火装置がやってくれる。こういうのも学習の成果だ。奴らに警戒しながら作製したものだ。


 自転車でコンビニに行って、近所の公園でゆっくりと待つ。やがて、消防車のサイレンが響きわたる。野次馬が集まっている。携帯電話に連絡は入らない。警察も近所も誰も知らない。

 火の手は早く、空気が乾燥していたのも幸いして、あっという間に燃え広がった。あの煙や炎の色、勢いなら、今頃、手足が爛れて、毒ガスによる呼吸困難と熱風による気管支火傷でさぞ苦しんでいるだろう。断末魔が聞けないのは残念だが、確実に始末するにはこうするのが一番だ。その後で焦げてしまうからそう簡単には分かるまい。



 あつく なれ……



 やっと、やっと終わった。いや、ようやく始まった。長かった。逆行転生してからほとんど毎日奴らを焼き殺そうと試していた。毎回激痛に襲われながらも1日でも早く、生き残るために、挑戦した。積年の願いが叶った。自由な、人間になる権利を得ることができた。本当に、本当に、よかった……。これから人間らしく、夢に向かって生きることができる……。


 放水作業が終わった頃には3人とも計算通り死んでいた。しれっと焼け跡に戻り、警察に話しかけたら奴らの顔を見せられた。原型をとどめていなかった。スッキリした。後の検死も捜査も望まなかったから、簡単な調査の後、失火による焼死となった。引き取りもしなかったから、奴らは奴らの金で直葬となった。奴らは保険に入っていなかったから何の足しにもならず、相続放棄したからマイナスにもならなかった。だから近所がどうなっていようが知った話ではない。お前らもさんざんやってくれたよな。憶えているよ。これで、解放された。



 その日のうちに住所を沙那恵さんの家に移し、分籍して一緒に行った神社のある場所に本籍を移し、司法書士に頼んで未成年後見人となってもらった。年金や健康保険などの手続きも恙無く行った。調べてあったからだ。


 その後、首都に行き、2人それぞれの大学に近いマンションを探した。色々と当たって、近所に品もあり、程よく安く、セキュリティの堅固な所を押さえておいた。教養と言うと格好つけているように聞こえるが、大屋さんの趣味の話に知識のある相槌を打って、褒めれば気持ち良くなってもらうことができたというわけだ。


 その間に2人とも合格が発表されたので、結婚した。見届け人は司法書士の先生に頼んだ。契約ができるようになったので、押さえておいたマンションを借りた。結婚式は行わなかった。2人とも一応親族が立て続けに死んだからだ。それぞれが少ない友人知人に話して小さく祝福された。高校の校則には何も書かれていなかったから特に連絡はしなかった。結婚指輪は値段でなく、しっかりしたものが欲しいと沙那恵さんが言ってくれたので、申し訳なかったけれどもその通りにさせてもらった。


 「沙那恵さん、待たせてごめん。幸せにします」

 婚姻届けを出すときにも言ったけれども、ついまた言ってしまう。やはりこのことが心の中で気がかりだったのだと思う。彼女の細い陶器のような指に指輪を通す。


 「全然、待ってないよ……。私も幸せにするね……。2人で幸せになろう……」

 彼女も私の指に指輪を通す。どちらからともなく目が合って、微笑み合う。



 卒業式前日にアパートを引き払って、ホテルに泊まった。卒業式には別に出なくても良かったのだが沙那恵さんに「出たほうがいいよ」と強く勧められた。お姉さんぶって怒っている振りをしている彼女が可愛くて仕方がなかった。

 部屋はツインだった。金銭的に余裕がないから安い方がよかった。それに、夫婦なのだから何もおかしくない。その夜はお互いこれまでの人生で一番幸せだったことは言うまでもない。愛している人とともに安心して眠ることができたのだから。


 卒業式が終わった後、すぐ首都に行った。2人とも大して物を持っていないから荷解きはすぐに終わった。それから近所に挨拶をして、大学の手続きをしていたらもう入学式が迫っていた。


 仕事を再び始めたがやりすぎるつもりはない。前回は大学を卒業してからあれも勉強しておけばと後悔していた。今回は広く深くやろうと思っている。今まで独学でしていたがそれにも限度がある。生活資金の遣り繰りはできるだろう。給付型の奨学金を少ないながらも貰って、無利子のを上限まで借りて、学費は免除されている。沙那恵さんもアルバイトをすると言ってくれている。


 毎日が幸せだ。ずっと努力した結果だ。

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