第6話 襲撃準備

 口座が凍結されていた。金が下ろせない。

 手持ちはバーに置いてきた財布に入れたままの二十万円だけだ。

 とにかく早く遠くに逃げなければならない。

 あまりに急いでいたので保栄茂は二階堂が店に入って出ていったのに気付かなかった。

 新幹線に飛び乗ろうとした。そこは『尾田川急速電鉄』だ。この略して小田急の駅構内にいると駅員が飛んできた。

「あなた二階堂さんですよね」

 否定しようとすると顔写真を突きつけられた。

 タクシーに乗っても「あなた」と運転手が写真を出す。

 だったら長距離バスに乗ろうとするとこれもまた写真が出てきた。

 ダメ元で行った空港には制服警官がいた。

「お前出来高か、飛行機には乗れないぞ、なにをしたんだ」

 そこから職務質問に発展したので辛うじて撒いた。

 どこにでも娘がついてくる。動きにくかった。振り切ったと思ったら側にいる。娘の服装はどうしても目立ちすぎるのだ。

 この状況で簡単に日本を出る方法。

 二階堂には一つ思いつきがあった。港へ行った。

 コンテナ船が出来する場所港だ。そここにコンテナが積み重なっている。

 海外への輸出品がしまわれてあるコンテナの置き場に走った。

 コンテナの一つを見繕って中に滑り込んだ。

 しっかりと蓋を閉めた。中には積み荷がある。密出国者がいない。正規の輸出品のコンテナらしかった。

 真っ暗でなにも見えない。行き先が中国かベトナムか台湾かさえもわからない。

 買い込んでいた水で喉を潤し、菓子を食べた。

 コンテナが動くのを待った。

 さすがにここまでは尾田川ホールディングスの力も及ばないらしい。

 いつの間にか娘がいた。コンテナを締めきった頃にはいなかったはずである。

 コンテナから目を離さなかった。誰も入ってきていないはずだ。

「いてもいいけど黙ってろよ」

 娘は返事もよこさなかった。

 コンテナを開ける音がした。点検に来たのかも知れない。

 予め確保しておいた積み荷の隙間に娘と一緒にはまり込んだ。

 ひさしぶりの光りがコンテナ内部に差し込んだ。

 砂を靴底に蓄えたブーツがじゃりじゃりと鳴る。奥へ奥へと足音が近づいていた。

 彼らが去るのを息を殺して待つ。

 懐中電灯の光に二階堂は呻いた。

「お前、二階堂小夜だな」

「お前ら誰だよ」

 手で光を避けながら訊いた。

「税務署だ」

 どこに逃げても警察や社員や税務署員がいてままならない。諦めて両手を挙げたままコンテナから出て行った。

 もう他に手段を思いつかない。

 貯金は二〇〇〇万円ほどある。

 ただ強盗をしょっ引くだけでなく、たまには警察からの依頼も受ける。

 この依頼時には高額の報酬が支払われるのだった。趣味もなく、買うものもない。いつのまにかこれだけ溜まっていた。

 二十代にしては多すぎる。それでも一億となるとまだまだ足りない。

 働くしかないか。

 歯車の態度を想像し、重い足取りで警察署に向かった。


 歯車の機嫌は良くなる一方だった。

 にやにやして飴を一つ軽やかに口に放り込んだ。

「とんずらここうとしやがったな、報告のメールがいっぱいきたぞ」

「なんとかマークを剥がせないのか」

「逃亡のおそれもないし、金も払えるって状況じゃないとな。すべての道は税務署に通じる、だよ。ま、福岡から泳いで隣国にでもいきなよ」

「じゃあさ、昨日いってた仕事回してくれよ、報酬が良いんだろ」

「金じゃねぇんだろ」

「んなことで大の大人が拗ねるなよ」

「いいけどよ、お前に出来るかどうか心配になっちまったんだよ。突然な。元々お前に回す仕事でもなかったんだし」

「どうでもいいよそんなことは。で、どういう仕事だ」

 歯車が机に前のめって声を低くした。

「誘拐だ」

 また深く椅子に腰掛ける。

「表現規制委員会の表現を借りるなら生きたまま優しく確保、いや保護ってところだな」

 二階堂は呆れ果てた。

「お前ら警察だろ」

「今朝のニュース見ただろ。あのお嬢さんには山ほど嫌疑がかかってる。そのための極秘保護ってところになるな。プレスカンファレンスもなし、お嬢様の行方を知る人もなし」

 で、と歯車が二階堂を挑発するように訊いた。

「できるか」

「やってみせるよ」

「ほんとかァ」

 歯車の太い眉毛が八の字に曲がった。

「殺してばっかりのお前がァ」

「だったらなんでお前から話を持ちかけてきたんだよ」

 飴が詰まったのか慌ただしく咳払いをした。

「それはそのときはお前にも出来そうだと思ってただけだ」

「あ、どういう意味だ」

「いちいち凄むなよ、ちょっと間違えたくらいで。それより、それよりもだそのガキ」むせながら突き殺さんばかりに娘を何度も指さした。「連れて行くつもりか」

 歯車の態度には引っかかる物があったが、二階堂に頼れるのは歯車くらいしかいない。渋々気持ちを収めた。

「追い払おうとしてもいつの間にか居るんだよ」

 締めっぱなしておいたコンテナの中にもいつの間にか居た。神出鬼没というがさすがに常識的でなさ過ぎる。

「もしかしたらそいつ貧乏神かもな」

「はは、まさか」

 歯車の冗談に苦笑で答えた。


「どうだこのドレス」

 娘の前で回る。

 黒いドレスの裾がひら、と試着室の床の上で浮いた。高い服屋の試着室は二階堂の部屋以上に快適そうだ。

 深い切れ込みのはいったスリットから健康的な太ももが光った。胸もざっくりと谷間が深い。背中も大きく見えている。

「黒くておしとやかで私のイメージにぴったりだろ」

 例によって娘は無言で両手を体の横に垂らして二階堂を見上げていた。

「お洒落なんてひさびさにしたな」

 このハイヒールも買っていこう。ハイヒールを摘まんで普段履きにしているスニーカーから履き替えた。

「これ、着たままで」

 化粧品も買って軽く化粧をした。スキップしそうになってやめた。

 駅のコインロッカーに保栄茂に借りた服とスニーカーを収めて目的地の帝都帝国提供ホテルへと向かった。

 これも尾田川ホールディングスが経営するホテルだ。オリンピックにあわせて建てられたものだという。

「おまえこれもってろ」

 娘にショルダーバッグをかけた。

 中にはスニーカーが入っている。鉄火場になるとハイヒールでは立ち回れない。

 ついでに緊急用の小袋も忍ばせておいた。

 街の連中に見せびらかしながら悠々と歩いて見せる。視線を感じるのも気持ちが良かったのだ。

 歩みの軽やかさが消えた。ショーウィンドウに移った自分と街を歩く連中の姿が違いすぎる。スーツの中にドレス姿の女がいるのは痛々しい。恥ずかしくなって足早に歩いた。

 今回のターゲットはハイクオリティだ。

 ターゲットの名前は尾田川浄子。あの尾田川ホールディングスの総裁である尾田川寛一のひいひい孫だ。

 浄子の父は尾田川ホールディングスの実権を握っているといわれている政財界の大物洋一である。世間には一切姿を見せない。だが、その胸先三寸で大臣が変わるとも言われている。

 その娘の浄子は偉大な父と比べると鼻くそだった。

 自家用ジェット機を墜落させたり、ギャンブルで五〇〇億勝ったとニュースになる。ホワイトハウスに招かれた際、大統領が避難し指揮を執るシチュエーションルームと大統領危機管理センターの場所を見つけ、さらにこれを言いふらした。また、機密に属する核兵器発射用の部屋を見つけ、これも言いふらす。そのせいでCIAやFBIに追われたこともある。

 たびたびメディアに露出するお騒がせセレブだった。

 今朝もホテルのスウィートルームを爆破したニュースが流れていた。

 浄子がなにかすると当然株価が上下する。そのたびに浄子と会っていた人間が大儲けしていた。

 わざと騒ぎを起こしているのではないか。インサイダー取引を疑われた。

 証拠不十分で不起訴となっているものの、疑いは深いらしい。

 大富豪のお騒がせ娘として世界的に見ても有名だった。

 現代のマリーアントワネットと呼ばれるほどのパーティー好きで暇があればパーティーを催している。

 当たり前のように犯罪行為もしていた。

「会社が警察官僚との付き合いをもっているため見逃されている」

 歯車が苦々しい顔で話していたのを思い出す。

 今回は尾田川ホールディングスのライバル企業から献金があり警察にひっそりとこのお嬢様を誘拐せよ、と依頼が下った。

 依頼主の名前は伏せられていた。そんなことができるのは尾田川ホールディングスの次点に甘んじているものの世界的な巨大な企業である桔梗製作所以外にない。

 その分報酬は並みじゃない。

「絶対殺すなよ。依頼主は交渉カードとして使うつもりだ。もし殺したら報酬全部がお前の賠償金になる」

 まれにみる歯車の真剣な表情だった。二階堂が失敗すると彼にも責任が及ぶらしい。

 いくら危険で、保障が効かなくてもやらなければ金は貰えない。

 前金だけで一〇〇〇万ある。

 この前金でさっそく潜入用のドレスを買ったのだ。

 タクシーに乗ってホテルの前まで乗り付けた。


 エレベーターで上階まで上がる。最上階の一つ下だ。

 会場の机にはキャビアフォアグラ、トリュフ、ツバメの巣といった珍味が並んでいた。

 それだけでなく七面鳥や透明な脂を滴らせるローストビーフの塊を料理人が長包丁で細く切っている。

 長机に並べられた料理には葡萄のつるが自由気ままに伸びていた。

 来客者も豪華だ。テレビで見るような顔も多々あり、当たり前のように政治家がいる。

 全員が全員身なりが良かった。それなりに高い店で買ったはずの二階堂のドレスも安っぽく見えてしまう。

 だが、ここに二階堂は入れ薙いでいた。

 受付に招待状を求められたのだ。

「おい、あれ押してこい」

 娘に向かって指さしたのは火災報知器だった。娘は頷くと真っ直ぐ火災報知器まで行き、そのボタンを押し込んだ。だが、不思議と音はない。スタッフが一様に忙しげに走り回った。階段の方からは微かにベルの音がする。どうやらこの階では混乱を避けるためにベルが鳴らないようになっているらしい。

 とはいえ、受付が慌てていることに変わりない。どさくさに身を任せ会場に侵入した。

 会場に入る。第一段階はクリアだ。

「やったな」

 娘は悪戯を見とがめられ、ホテルの従業員にこっぴどく叱られていた。無言のままで見つめ帰している。気味悪がったホテルの従業員はどうせ子供だから、と娘を解放した。

 拳をぶつけようとして手を上げる。だが、娘は首を傾げるだけだった。分からないのならしなくていい。手をポケットに突っ込んで誤魔化そうとしたが、ドレスにはポケットがなく二階堂の手はドレスの太もも辺りを彷徨う羽目になった。

 意思疎通の心配が娘にはあったが、簡単な命令なら聞けるようだ。

 二階堂が会場で料理を摘まんでいると、娘は両手で料理を掴んで頬張っていた。どうやら食器のない国で過ごしていたらしい。

「口についてるぞ」

 上品に取り出したハンカチで娘の口元を拭った。娘は咀嚼しながら口元を拭かれ、じっと二階堂の目を見ている。

 浄子は噂に違わぬ騒ぎぶりだった。首元までぴっちりと覆われている白いドレスには、金色の装飾がきっぱりと上品の型を作っている。

 にもかかわらずボーイの股ぐらを鷲づかみにし、ウェイトレスの胸を揉みしだいていた。

 立食パーティーを全身全霊で楽しんでいる。

「貧相なお胸ですわねぇ」

 自分の胸を棚に上げて浄子は大笑していた。

「その小さなお胸を私のお金の力で大きくして差し上げますわ。あとで私の部屋に来なさい」

 ウェイトレスは上司らしい男に視線を向けた。上司は力なく首を振るだけだった。

 浄子は騒ぎを振りまきながら料理をつまみ荒らしていく。腰ほどまである金色の髪がロールしていた。

 さながら竜巻だ。その進行予想図にちょうど二階堂が被った。

「あら」

 浄子が二階堂を見下した。

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