第5話 火災襲撃

 自分のくしゃみで起きた。寝癖で荒れ果てた頭のまま下に降りていった。

 ジンをひっかけた。身もだえするような草味だ。目は覚めた。起き抜けにはこれがぴったりだ。

 またくしゃみをした。

「なんだ風邪か」

 垂れそうな鼻水をすすり上げた。

 保栄茂が上機嫌にグラスを拭く。

「おい、ガキも起こしてこい飯作ってやるよ。あの子なにが好きなんだ」

「寿司」

「お前じゃねぇ」

「しらねぇよ」

「け、馬鹿が」

 毒づいて保栄茂がグラスを置いた。

 時計は朝の六時を指している。店じまいはこの三時間前のはずだった。

 保栄茂は見た限り寝不足という様子もなく元気そうだ。禿げてはいるが腕の筋肉はいまだ隆々としていて体格もかなり大きい。

 身長が一九〇あるというのだけは保栄茂の見栄ではなさそうだ。

「おまえいつ寝てるんだよ」

「お前が寝てる間に寝てるんだよ」

 得意げな顔に苛立った。

「だから禿げるんだよ」

「天辺だけだ。まだ横はふさだよ」

 禿げの世界では十分な量の毛がはえていることをふさ、というらしい。

 テレビをつけた。

「政財界のお嬢様大暴れ。大迷惑を繰り広げる」

 ニュースをやっていた。

「あの政財界の大物の娘がまた部屋の爆破騒ぎを起こしました。これにより場は一時騒然となりましたが、奇跡的にけが人はいませんでした。本人は『ホテルの部屋のガスコンロをつけっぱなしにして寝ていた、起きたときには部屋が燃えていてびっくりした』と故意でない旨を主張しており、警察は事故と断定し責任の追及をしない方針です。ホテルの被害は大きくスイートルームが全焼し」

 二階堂がニュースを笑った。

「馬鹿が部屋を燃やしてら。どんな馬鹿やったら燃えんだよ。アホくせぇ」

「おい、うるさいから消せ」

 抵抗せずテレビの電源を切った。保栄茂に逆らうと面倒なのだ。理屈っぽい話は暇つぶしにもならない。

「朝は静かに過ごしたいんだ。知ってるだろ。それに人の不幸を笑うのはよくねぇ、てめぇの身に同じ不幸が降りかかったときに惨めだからな」

 バーの鈴がなり、客が入ってきた。

 疲れ切った顔をしている。夜勤でもしていたのだろう。顔見知りの警官だった。

「なんだ、またサボってるのか出来高」

 話しかけてきておいて警官は微妙な顔をした。

 伝えた方がいいのか、それとも放って影で笑った方がいいのか迷っているという顔だ。誰かの悪い出来事を目の前で見てきた顔でもある。悪い出来事の体験者が目の前にいる時の顔でもあった。

「なんか用か」

「二階堂、お前の家燃えてるぞ」

 言うなり警官は吹き出した。


 火の粉が降っている。天つく炎はアパートを丸ごと包み込んで、地獄へ真っ黒なのろしを上げていた。

 バケツで消せる規模ではない。

 火の手は二階堂の部屋から上がっている。一目瞭然だった。そこが一番火の力が強い。炎は二階を舐めつくし隣の部屋の扉も赤く覆い隠していた。人の命の心配よりも賠償金や部屋に残してきた物が気になる。

 部屋のものはどうせ銃撃で壊れてしまったからよいとしても、賠償金。これは安くつきそうにない。なにせアパートは素人が見ても分かるほど全焼しているのだ。

「おい、こっちに手を貸せ」

 近隣住民が怒鳴り合っていた。手にしているのはバケツではなく大きなハンマーやノコギリである。

 とある家の壁を男が思いきりハンマーで殴った。

「なにしやがんだ」

 その家の住民が肩を突いた。男はそれを振りほどき、ハンマーを振り上げる。

「うるせぇ鎮火だ鎮火ァッ。どうせ消防車なんてこないんだからよ」

 あちこちで破壊行動に勤しんでいた。

 他人の家から家財道具の一式をとってきてその家主に売りつけている奴もいれば。気に入らない者の家の柱に勝手にノコギリを入れているやつもいた。

 貧困地帯は木造建築ばかりだ。火の手は広がる。大火に発展しそうだったが、家を壊しているのが功を奏しているらしい。

 近隣の建物には広がらず、アパートとその近くに立っていた木が燃えるだけで済みそうだ。

「火元はどこなんだよ」

「この女の家だよ」住民が二階堂を指さした。「畜生、戸締まりくらいしとけよぼんくら」

「弾ぶち込まれて穴開いてたんだよ、てめぇの歯みたいにな」

「このバァタレがよ。だから出来高の近所に住むのは嫌なんだ」

「嫌なら引っ越せば良いだろうが」

「引っ越せる場所と金があると思うかよ」

 怒鳴り合っているところを一人の男が覗いている。二階堂、という名前を聞いて、片手で祈るようにして言い合いしている二階堂と十人との間に割り込んだ。

「はいはいすみませんね」

 身なりがいい。上等のスーツを着ていて高そうなフレームの眼鏡をかけている。髪は七三わけで神経質そうな顔。

「私こういうものです」

 尾田川不動産の名刺だった。

「あなた、二階堂小夜さんですね」

 男を突き飛ばし、走り出した。尾田川不動産はアパートの家主だ。

 思い出したこともある。二ヶ月ほど前だ。家の郵便受けに封筒が入っていた。任意保険の更新書類だ。

 面倒くさくて放っておいた。書類は情報屋の血にまみれて今頃は炎の中だ。もし、この男に捕まれば満額補償は間違いない。

 口に手を当てて男が叫んだ。

「みなさん、その人が賠償してくれますよ」

 直後、足に重さを感じた。近隣住民の一人が足にしがみついているのだ。静観を貫いていた住人までもが飛び上がって二階堂にのしかかる。

 あれよあれよという間に二階堂は埋まった。どさくさに紛れて胸や尻を揉むやつもいる。

 銃を抜いた。

「撃ち殺すぞ」

「家がなけりゃ死んでも同じだね」

 誰一人離れはしなかった。揉む手も止まらなかった。

 二階堂の顔に尾田川不動産の社員らしい男の影がさした。

「保険に入っていないようなので、すべてご自分で賠償下さい。大体五千万円ほどでしょう」

「もう五千万上乗せしろ」

 ヤジが入った。

「では、計一億円で」二階堂に向き直った。「あなた、払えますか」

「払えなきゃここで殺されちまうよ」

 胸と尻を揉みしだいている住民たちを睨めつけた。彼らに向かって喚いた。

「恨むなら税金恨め、この馬鹿が」

「言うだけ言って逃げようと思ってもいけませんよ、我が社は警察や税務署とも提携関係にあります」

 尾田川ホールディングスは大企業だ。

 政府の無茶な財源確保と癒着のために全国企業の大倒産があった。法人税を上げて雑魚企業を一掃し、国産企業の独占を目論んだが部品製作を担う中小企業が倒産し、その煽りを食らって大企業も軒並み死んだのだ。

 その荒れ地を一気に掌握して産まれたのが超巨大企業尾田川ホールディングスだ。

 ロビイングに余念がなく影響力は甘くない。時価一〇〇〇兆円企業は伊達ではなかった。日本だけでなくアメリカでも強い力を持っている。尾田川の支援する政治家が大臣にもなった。

 公的機関を手懐けているというのは案外ウソにも聞こえない。

 日本の財政はこの尾田川ホールディングスによって支えられている。尾田川ホールディングスの会長のジジイだかが死ぬかもしれない云々をわざわざNHKで流すのも頷けた。

 鷹揚な口調で社員の男が住民たちに語りかけた。

「まず、私たち尾田川ホールディングスがこの泥棒、二階堂小夜に代わって補償します。良いホテルで当分暮らせますよ。この方が補償を完了するまでホテル暮らしです」

 住人が質問した。

「すると、この女が会社から金を借りるから俺たちはこの女が借金を全部返すまで遊んでて良いってことか」

「そういうことです」愚直に社員の男が頷いた。

「なにが遊んでいていいだ、どうせずっと遊んでんだろ」

 二階堂の憎まれ口は届かない。

 揉む手も止まって「ホテル代はどうするのだ」だの「アメニティは取って良いか」だの「ルームサービス代は」だのと金臭い質問を男にぶつけている。金勘定は馬鹿でもできると証明し続けている。そのうちギネスにも載るだろう。

「もちろん、この方の賠償に上乗せします」

 住民が快哉の声を上げた。

 体の重みが一気に消え去る。

 アパートを包んでいた火は燃やすものを燃やし尽くしたらしい。いつの間にか消えていた。

 焦げ臭さと燃え滓だけが残っている。

 地面に座って服の土埃を払った。

 ため息が一つ出た。保栄茂に借りた服だというのに。

 また小言を言われる。

 袖に誰かが触る感覚があった。

「ああ?」

 怒気を込めて振り返った。

 いつの間にかあのヤクザの娘がいる。威嚇にも動ぜず、服の袖を握っている。丸い月のような目でじっと二階堂の目を見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る