第26話 理香

「ああ、来てくれたんだな」


「どこで話すか、ちゃんと決まってなかったので……」


 ここで話すのはいささか問題がある気がする。俺は立ち上がり、教室から出る。理香も俺についてきた。


「学校だと人に聞かれるかもだし、帰りながらにしようか」


「それなら、私の家とかどうですか? 親はまだ帰ってこないはずなので、ゆっくりはできますよ」


 理香はいつもよりも落ち込んだように言った。言ったというより、つぶやいたに近い声だった。これから何を話すのか、不安といった感じか。


「じゃあ、お言葉に甘えさえてもらおうかな。夕飯も作らなくていいから今日はゆっくりできるだろうし」


 できるだけ明るく話し、不安を少しでも和らげることができたら、と考えていたが、そんなことしても無駄だろう。


 俺たちはお互いに何も話さずに歩いた。それはいつもみたいなふわふわした感じではなく、倦怠期のカップルのようなギスギスした感じのほうがしっくりくるだろう。


 理香の家まではそんなに距離はない。しかし、授業残り五分前のような早く着いてくれ、という感情が俺の中で渦巻いていた。


 ようやく理香の家に着いたが、長い間歩いたような気分になった。実際はそんなことはないはずなのだが、精神的疲労が大きい。


「どうぞ」


 理香が家のドアを開けて俺を招き入れる。俺は理香についていく形で家の中に入り、靴を脱いだ。ずっと気まずいままで、このままでは空気に押しつぶされてしまいそうだ。


「適当に座ってもらって大丈夫ですよ。何もお茶菓子は用意できませんけど……」


 理香は申し訳なさそうに言うが、そんなに構う必要はない。今日は話をしにきただけなのだから。


「気にしなくていいよ。ゆっくり話したいって言ったけど、そんなに長居するつもりはないんだ。ちょっと話して帰るからさ」


 理香は俺の言葉を聞いて顔がこわばった。緊張、しているのだろうか。


「ええっと、なにから話そうかな」


 俺は考える。昨日の弟とのやりとりを。そして理香に話さないといけないことを。


「俺さ、お前が我慢してたら幸せじゃないって思ってた。でもさ、お前この前、別れ際に、幸せでしたって言ったよな。あれってどういう意味なんだ? 俺、わかんなくてさ。愛莉のことで悩んでて、俺にどうにかしてほしいって思ってたのに幸せだったってさ……」


 理香は俺の言葉をしっかりと目を見て聴いていた。そして、ゆっくりと話し出す。


「私は、先輩と一緒にいれるだけで幸せでした。でも、先輩は愛莉さんと一緒にいる方が楽しいのかなって思っちゃって。この前だって、愛莉さんのお見舞いに行ってたんですよね」


「なんでそのこと知ってるんだ」


「先輩のお友達の方が言ってました。愛莉さんのところに行くから勘弁してあげてくれって」


 俺は頭を抱えた。蓮の仕業か……。俺がちゃんと伝えなかったからこんなことになってしまっていたのか。


「そのことを話すとちょっと長くなるんだけどな。愛莉が学校休んだことって片手で数えれるくらい少ないんだよ。そんで、中学のとき一回喧嘩してさ、その次の日、学校休んだんだわ。俺は気になって愛莉の家に見舞いにいった。そしたら愛莉のやつ、二階の窓から飛び降りようとしてやんの。んで必死になって止めて……ってことがあったわけよ。あ、これ俺以外知らないから他言禁止な。愛莉になんて言われるかわかんねえし。だからさ、愛莉の方がよくなったわけじゃなくて、真剣に心配だっただけなんだわ」


「でも、先輩はこの前、私のこと嫌いになったって」


「そう思ってくれていいとは言ったけど、嫌いになったわけじゃない。いや、これじゃまた誤解されるか。お前と付き合ってわかったんだ。俺は理香よりも愛莉が好きなんだって。だから、その話をちゃんとしようと思って今日来たんだけど……」


 理香は泣き崩れた。ずいぶん酷いことを言っている自覚はある。しかし、ここでちゃんと言っておかないといけない気がしたのだ。


「わかってました……。でも、やっぱり私は先輩が好きで、諦めるなんて出来なかったんです」


 理香は泣きながら想いを語った。


「ごめん。こんなやつと付き合ってくれてありがとな」


 理香は涙ぐんだ顔で「大丈夫です」と呟き、俯いた。


「私は、愛莉さんのことはもうとやかく言いません。私のわがままで先輩の交友関係を崩したくありませんから。だから、最後にひとつだけ、私のわがままを聞いてください」


 理香は恥ずかしそうな顔で、俺を見つめた。真剣な表情に俺は生唾を飲んでしまう。


 理香は俺に近づいて、抱きついた。


 一瞬、時間が止まった気がした。理香が何をしているのか理解するのに時間を要する。


「なっ……理香?」


 俺は不安になって理香に声を掛けてみた。理香は黙って俺に抱きついたままでいると、すばやく俺から離れた。


「好きです、先輩。大好きでした」


「ありがとう」


 理香の言葉が俺の胸に突き刺さるが、ぐっとこらえた。今日、何のためにここにいるのか。それは、理香とちゃんと別れるためなのだ。


 理香はうなずくと、たまっていた涙がつうっと頬にたれる。


 これ以上、理香に悲しい思いをさせてはいけない。


「じゃあ俺はそろそろ帰るよ」


「はい。話してくれて嬉しかったです」


 理香は少し残念そうに俺に手を振って、見送ってくれた。理香の部屋から出て、まっすぐ玄関まで向かう。靴を履き、立ち上がったところで振り返り、理香に声をかけた。


「またな」


「先輩」


 理香は家を出ようとする俺を引き止めた。振り返ってみると、不安げな表情をした理香が言い出しにくそうにそわそわしている。


「あの……これからも、今まで通り私と接してくれますか?」


「あたりまえだろ?」


「……ありがとう、ございます」


 理香は安心したように笑い、俺に手を振る。


 俺は理香の家をあとにした。


 家に帰って弟と顔を合わせるなり、弟は気持ち悪く笑って俺に近づいてきた。


「ちゃんと話してきたみたいだね。兄ちゃん」


「健太、気持ち悪いぞ」


「うわ、ひどっ。今日の兄ちゃんのおかず一個取り上げね」


「冗談だ。カッコいいぞ、健太」


「現金なやつだね、兄ちゃん」


 弟は呆れ顔でつぶやいた。健太には今日起こったことがだいたい察することができたのだろう。やはり俺は顔に出るタイプなんだろうな、と改めて認識して夕飯を食べる。


「あんまり思いつめちゃダメだよ?」


 健太のつぶやきにふっと笑みがこぼれ、「ああ」と一言返す。

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