第13話
「あぁ……気が重いわね」
翌朝、質素なベッドで目を覚ましたマリアは、低い天井を見上げて深いため息をついた。
昨夜は、マリアに課せられていた奉仕活動(・・・・)のある夜であった。にもかかわらず、昨夜はその悪夢が訪れることはなかった。
もちろん、決まった日に必ず奉仕活動があるとは限らない。けれどその逆、決まった日以外にもおこなわれることもあり、奉仕活動の予定がなくなることは滅多になかった。
その滅多にない一日が、リスティアが訪れた日の夜であることを考えれば、そちらと絡めて考えるのが妥当だろう。
つまり、あの天使のようなお姉さんの笑顔が、今日は曇っているかもしれないと言うこと。
何度かそれとなく忠告してみたのだが、リスティアは聞き入れてくれなかった。
それ以上は、ゲオルグ院長に逆らう行為と取られかねず、そうなっては他の子供達が苦しめられるかもしれない。
それが、直接的に警告できなかった理由――だけど、だからといって、マリアがリスティアが酷い目に遭うことを黙認したことに変わりはない。
その事実は、まだ十五歳のマリアの心を苛んでいた。
――せめて、水桶とタオルを持って行ってあげよう。マリアはそんな風に考える……けれど、それは、罪滅ぼしの気持ちだけではなかった。
もし、“穢れた”リスティアが孤児院を歩き回ったりしたら、マリアが必死に隠していた孤児院の闇が、他の子供達に知られてしまうかもしれない。
それにマリアは今まで、他の子供達に秘密が漏れないように、一人で抱え込んでいた。
――つまり、マリアは孤児院の中でも孤独だった。けれど、自分と同じ苦痛を味わったリスティアとなら、痛みを分かち合えるかもしれない。
それらの理由により、水桶とタオルを持ってリスティアの部屋を訪れたマリアは――お姫様ベッドですやすやと眠る天使を目の当たりにした。
「……え、なに、どういうこと?」
マリアは心の底から混乱した。
もちろん、リスティアが眠っていること自体は想定のうちだけれど、想像していたのは意識を失って泥のように眠っているとか、そんな感じ。
よもや、なんの痕跡もないベッドで、すやすやと眠っているなんて思ってもみなかった。
いや、そもそも、部屋からしておかしい。天井には豪華なシャンデリアが吊されており、部屋は暖かくて空気は澄んでいる。
しかも、床にはふわふわの絨毯が敷き詰められているし、窓にはレースのカーテンがかけられ、質素で硬かったはずのベッドは、まるでお姫様が眠るようなベッドに変わっている。
「……一体なにが起きてるの?」
マリアはぽつりと呟く。
それはマリアにとって、心からの疑問だった。けれど――
「おはよう、マリア」
寝息を立てていたはずのリスティアに問い返され、マリアは飛び上がらんほどに驚いた。
「リ、リスティアお姉さん、起きてたの!?」
「うぅん。いま目が覚めたの」
「えっと……それはもしかして、私が起こしちゃったってこと?」
「そうだけど、気にしなくて良いよぉ。あたしは本来、数日くらい寝なくても平気だから」
よもや、言葉どおり睡眠をあまり必要としない――なんて想像もしなかったマリアは、リスティアが慰めてくれているのだと思い込んだ。
そもそも、先ほどまでのリスティアは安らかな寝息を立てていた。それを妨げてしまった事実は、マリアが罪悪感を抱くには十分だった。
「本当に気にしてないよ。それに、あたしの心配をして、様子を見に来てくれたんだよね?」
「え、それは、もしかして……?」
昨夜、ゲオルグ院長がこの場に来たのかと、言外に問いかける。
「うん、来たよ。ゲオルグ院長ともう一人、知らない屈強そうな見た目だけの男の人」
「――っ」
マリアは思わず唇を噛んだ。ゲオルグ院長も問題だが、もう一人の男の方は特に乱暴で、マリアは苦手としている。
最初から、そんな二人を相手にさせられた。リスティアの不幸を嘆いたのだ。
……あれ? でも、そうしたら、どうしてリスティアお姉さんは、こんなに平然としてるんだろ? もしかして、こう見えてすっごく経験豊富なのかしら?
「お姉さんってもしかして、そっちのお仕事の人なの?」
「あたしは普通の女の子だよ?」
「なら……どうして元気なの?」
「それは、マリアちゃんが思うようなことにはなってないからだよ」
「それは、一体どういう……」
ちなみに、マリアが十五歳という年齢でありながら、大人びたしゃべり方をするのは、一種の自己防衛である。
つまりは、自分はお姉ちゃんなのだから、他のみんなのために頑張らなくてはいけない。そんな風に自分を騙し続けた結果、今のしゃべり方が定着してしまっただけ。中身がまだ子供のマリアは、リスティアの言葉に混乱を来していた。
だと言うのに――
「結論から言うとね。孤児院(ここ)は今日から、あたしが管理することになったの」
リスティアは更に意味が分からないことを口にする。
「えっと、えっと……それはどういうこと、なの?」
「言葉どおりの意味だよ。ゲオルグ院長――元院長が、孤児院の院長という立場を、あたしに譲ってくれたの。だから、今日からここは、あたしの管理下にあるんだよぉ」
「……そう、なんだ」
混乱するマリアは、その事実だけを受け止めた。そして次に、リスティアが院長であれば、今までのような非道はおこなわれないかもしれない。
少なくとも、今よりはずっと快適になるだろうと安堵した。
そうして、それらを理解したマリアはホッと一息。
「……………………………………え、リスティアお姉さんが院長?」
ようやく、院長の座を譲り受けたという言葉自体が、意味不明である事実に気がついた。
そもそものマリアは、ゲオルグ院長の非道により、リスティアがひどい目に遭っていると予想して、それをフォローしに来たのだ。それがなぜ、リスティアが院長の座を譲り受けたという話になっているのか。まったくもって意味が分からない。
「ええっと、ごめん。よく分からないんだけど……リスティアお姉さんが院長になるの?」
「そうだよぉ。委任状も、ほら」
「たしかに、院長の字みたいだけど……いやいやいや、そうだよぉ――じゃなくて。一体なにがどうなったら、そんなことになるの!?」
「なにがどうなったら……相方の腕がなくなったら?」
「……はい?」
まさか本当に、腕を物理的に切り落としたなんて想像もしなかったマリアは、ゲオルグ院長の右腕だった男の弱みを握ったとか、そういう意味なのかなと考えた。
「とにかく、孤児院があたしのものになったのは事実だよ。引き継ぎで、誰かがなにか言ってくることもあるかもしれないけど、そのときはあたしが対処するから心配しないで」
「……本当に?」
「うん、本当の本当だよ」
リスティアはそう繰り返すが、ゲオルグ院長の非道ぶりを知っているマリアは信じることが出来ない。だからマリアは部屋を飛び出し、隣にあるゲオルグ院長の部屋をノックした。
けれど――
「返事がないでしょ? その部屋はもう空室だよ」
追いかけてきたリスティアに言われるが、そう簡単に信じられるはずがない。だってマリアは、もう何年も、院長に苦しめられてきたのだから。
だから、マリアは思いきって扉を開いて中に飛び込むが、部屋には誰もいない。ただ、少し家具などが散らばっているだけだ。
「院長は……どこに行ったの?」
「ゲオルグ院長はいままでの罪を悔いて
「罪を悔いて旅立った……?」
あの院長が罪を悔いるなんて、とてもじゃないけど信じられない。けれど、ゲオルグ院長がこの時間部屋にいないなんて、普通では考えられない。
理由はともかく、旅だったというのは事実なのかもしれない。――と、そこまで考え、マリアはようやく、リスティアの言葉が本当かもしれないと思い始めた。
「それじゃ……リスティアお姉さんが、ここの院長?」
「うん、そうだよ」
「じゃ、じゃあ……その、私が、今までさせられていた、その……奉仕活動(・・・・)は?」
「奉仕活動(・・・・)と言うのが、ゲオルグ院長に強要されてたことなら、もう二度とする必要はないよ。他の誰に言われても、そんなことはあたしが許さないから」
「で、でも、あたしが頑張らないと、他のみんなを食べさせるお金がないって……」
お前が働かなければ、子供達の食事代を稼げない。だから、お前が働かなければ、他の子供に働かせるか、他の子供を捨てるしかない。そう脅されたから、マリアはゲオルグ院長の言いなりになっていたのだ。
そしてその事実は、院長が変わろうとも、変わることのない事実のはずだった。
けれど――
「大丈夫。たとえ今までがそうだとしても、あたしがなんとかしてあげるから」
天使の笑顔が、マリアの闇を照らした。
「……本当の本当に、私はもうあんなことをしなくても良いの?」
「本当の本当の本当だよ」
リスティアが右腕を伸ばしてくる。それを見たマリアは、最初の時と同じように、リスティアの手を払いのけてしまった。
マリアは別にリスティアを嫌っているわけじゃない。ただ、夜な夜なおこなわれていたおぞましい行為を思い出し、反射的に手が動いてしまったのだ。
「ご、ごめんなさい。でも、その……私には触れない方が良いわ。私は、その……お姉さんと違って、穢れちゃってるから」
「……大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない。お姉さんは知らないかもしれないけど、私は――」
マリアは最後まで言うことが出来なかった。リスティアの細くてしなやかな指が、マリアの頭を優しく撫でつけたからだ。
そしてそれと同時、暖かい温もりがマリアの身体に染みこんでくる。
「……リスティアお姉さん?」
「ほーら、もう大丈夫。怪我も病気も、ぜんぶ、ぜぇんぶ、悪い痕跡はみんな消したから。だからもう、マリアちゃんは穢れてなんていないよ」
言葉の意味は分からない。だけど――理解させられた。ここ最近ずっと苛まれていた気怠さも、下半身にあったわずかな痛みも、全て消えてしまっていた。
まるで――いや、文字通り生まれ変わったかのような気分だった。
「……お姉さん、一体何者なの?」
「あたしは普通の女の子だよ?」
明らかな嘘。それは真実を打ち明けるつもりはないという意思表示だろう。だからマリアは、リスティアが普通の女の子を自称する、普通じゃない女の子だと理解する。
だけど、リスティアが何者でもかまわない。少なくともマリアにとって、リスティアは自分を救ってくれた天使様だと涙を流した。
「あり、がとう。ありがとう、リスティアお姉さん」
ポロポロと涙をこぼしていると、リスティアがそっと抱きしめてくれた。優しい温もりが、マリアの中に残っていた不安な気持ちを全て洗い流していく。
そうして、嫌な気持ちを全部吐き出して、マリアはようやく泣き止んだ。
「そ、それで、リスティアお姉さんはこれからどうするつもりなの?」
たくさん泣いて落ち着きを取り戻したマリアは、リスティアから身を離して問いかける。頬が少し赤いのは、先ほど泣いて恥ずかしかったからだ。
「孤児院の
「孤児院の
マリアが奉仕活動をして回らなくてはいけないほどに貧窮している。そんな孤児院を上手く回すには、経済状況の立て直しが必要なのは明らか。
まさか、その状態で建物を建て直すなんて言うとは思わなかったマリアは完全に誤解した。
「建て直しについては、既に色々考えてあるの。あたしが手配するから心配しないで」
「……立て直す手段まで考えてあるの? この街の管理を貴族から任されている市長はケチで有名だから、資金援助なんてしてくれないと思うよ?」
「資金援助? うぅん、お金はこっちで用意するから大丈夫だよ」
「……本気で言ってるの?」
孤児院を立て直すには、資金をどこかから引っ張ってくる必要がある。
つまりは、立て直しに必要なのは、資金を引っ張ってくる手段そのもののはず――なのに、リスティアは、資金は最初から問題にしていないという。
まさか、子供達に私と同じような仕事をさせるつもりじゃないわよね?
奉仕活動(・・・・)をしなくて良いと言った。それがリスティアの本心だと思いたいけれど、それ以外の手段がどうやっても想像できない。
あまりにも楽観的なリスティアを前に、マリアは少し不安を覚えた。
「とにかく、建て直しの件は心配しなくて良いよ。それよりも、あたしは一つ、マリアに聞きたいことがあるの」
「……なにかしら?」
「貴方の身体は、あたしが完全にまっさらにした。それは紛れもない事実だよ。けど、貴方の心にはまだ、嫌な記憶が残っているでしょう?」
「……そう、ね」
ずいぶんと気持ちが軽くなったとは言え、そうやってほのめかされるだけで、奉仕活動の光景が思い浮かぶ。マリアは無意識に自分の身体を抱きしめた。
「マリアが望むなら、その記憶も全て消してあげるよ」
「……記憶を、消す?」
なにそれどういう意味とマリアは首をひねる。
「うん。魔法を使って、貴方の中にある嫌な記憶と、それにまつわる記憶を消去するの」
「……お姉さん、魔法使いなんだ?」
「うん、秘密だよ?」
イタズラっぽい微笑み。天使の微笑みを見たマリアは、リスティアは正義の魔法使いなのかな? なんて思った。
だけど、もしこの場に魔法に携わる者がいたのなら、こう叫んだだろう。
他人の記憶を消すなどと、そんな悪魔じみた魔法があってたまるか! と。
まあ実際にあるのだから、叫ぼうがなにをしようがしかたがないのだが。……人間に扱える領域の魔法かどうかはともかく。
「それで、お姉さんの魔法なら、私の嫌な記憶を消せるってこと?」
「嫌な記憶も消せる――って言う方が正しいかな。ちゃんと消すには、矛盾が生じないように多く消すことになるから、関連する他の想い出も消えてしまうと思う」
マリアには、そのデメリットを完全に理解することは出来なかった。
だけど、一つだけ理解する。もしここで記憶を消されたら、リスティアに助けられたことも忘れてしまうのだろう――と。
「……記憶を消すのは、なしでお願い」
「良いの?」
「ええ。記憶が消えちゃったら、お姉さんに助けられたことも忘れちゃいそうでしょ?」
「……そうだね」
「なら、やっぱり、記憶は消さないで」
「マリア……」
自分への恩を忘れたくないと、マリアが言っていることに気付いたのだろう。リスティアがとてもとても嬉しそうな表情を浮かべる。
「か、勘違いしないでよ。記憶を消されたら、お姉さんが約束を守るか分からなくなるでしょ? だから、私がお姉さんの側で、みんなを護ってるか見張るだけだからね!」
照れ隠しに、つっけんどんに言ってしまう。
「あたしは、これから孤児院をより良くしていくつもりだよ。だから、マリアにも協力してくれると嬉しいな」
リスティアは微笑んで、マリアに手を差し出してきた。マリアは白く細い、シミ一つない手を見て、考えを巡らす。
本音を言えば、朝起きたらリスティアが院長になっていたというのはよく分からないし、本当に大丈夫なのか不安でもある。
けれど、もしあと半年、ゲオルグが院長を続けていたら、マリアだけではなく他の女の子達も奉仕活動に駆り出されていたかもしれない。そうでなくても、何人もの子が確実に“卒業”させられていただろう。それをリスティアに救われたのは事実。
だから――
「私も協力するわ。これからよろしくね、リスティア院長(・・)」
精一杯の敬意を込めて、リスティアを“院長”と呼んだ。それは、リスティアを孤児院の院長と認め、これからずっとついていくという意思表示だったのだけれど――
なぜか、リスティアは床の上に突っ伏した。
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