第187話 殴りたかった。ただそれだけ。
眉間にしわが堀深く刻まれるくらい険しい顔で威嚇するアンジェだが、盾を支える腕は血管が浮き出るくらい力が込められており、プルプルと震えている。きっと声を発することですらも手一杯なのだろう。セトの言う通り、あの巨大な岩を払いのけない限り、アンジェの助太刀は見込めない。
「そこで指を咥えながら勇者が死ぬのを見ておきな。あ、悪い。指を咥えるのもできないのか」
「クックック」と肩を揺らして嘲るセトを前にアンジェの目がさらに鋭くなる。だが、当の俺はセトに言い返すことも、アンジェにフォローを入れることもできなかった。
途方もなく揺らいでいると、突然掴まれたセトの腕からズシンと重力を感じた。何かがセトの腕に乗ったみたいだ。
セトの腕に乗ったのは、猫の姿をしたノアだった。彼も爆発に巻き込まれたらしく、小さい体に傷がついて、紺色の毛にべっとりと赤い血がついていた。
そんな満身創痍なノアの姿を見て、セトは愚弄した。
「馬鹿だな。元の姿で高みの見物をしていれば、そんな痛い目を見なかったろうに」
「うるせえ。人の意地に茶々入れするな」
言い返すノアだったが、呼吸は「フー」「フー」とひたすらに荒かった。きっと小さな体で受けてしまったダメージは俺たちより過大に入っているのだろう。それでもノアは生傷が絶えない体であっても、ノアは牙を剥き出しにしてセトに威嚇していた。
「邪魔なんだよ」
セトがノアの首根っこを掴んで摘まみだそうとしたが、ノアは爪を立てて抵抗する。絶対にここから離れない。そんな強い意志を感じ取れた。だが、どんなに抗っても、人間と猫では力の差が歴然としている。セトに捕まったノアは、抵抗も虚しくそのまま地面に叩きつけられた。
叩きつけられたノアが地面に転がった頃には、元の神の使いの姿になっていた。もう猫になる力も彼には残っていないみたいだ。幸い息はあるみたいだが、横たわったまま微動だにしない。
体中傷だらけの旧友を見ても、セトは渋い顔をしたまま舌打ちするだけで何も言わなかった。だが、ノアが最後に抗った爪の痕は、しっかりセトの腕に刻まれていた。
「本当……食えねえ奴」
セトが空いた片手を広げると、どこからともなく現れた三叉槍が手に収まった。
「どうだ? 同胞が次々と倒れる気持ちは」
三叉槍の切っ先が喉元に触れる。刺された喉元からツーと生温かい血が流れるのを感じるが、拭うことも、痛みを訴える気力もない。
セトは生と死の瀬戸際にいるというのに、命乞いどころか一言も喋らない俺がつまらないようだ。白けた顔をしながら、退屈そうに息を吐いた。
「興ざめだ。さっさと死ね」
ひんやりと冷めた口ぶりで告げられると、セトの手に力が籠った。
ああ、ここまでか。
みんな、ごめん。
心の中で懺悔をし、静かに目を閉じる。けれども、いくら待ってもセトは俺を殺そうとしなかった。
おぼろげに目を開けると、なぜかセトが苦しそうに顔を歪めていた。やがてセトの手から三叉槍が滑り落ち、そしてついにはあれだけしっかり掴んでいたはずの俺の腕もはらりと手放した。
俺が地面に落ちた後も、セトは俺に見向きもせずに頭を抱え一人悶えもがいている。一体セトの身に何が起きているのか。訳がわからずに呆然としていると、そのうちセトはうなだれたまま完全に停止してしまった。
「……セト?」
セトの異変に、倒れていたはずのノアが徐に起き上がる。だが、旧友の声であっても、セトはピクリとも動かない。
暫時の沈黙が流れる。静かで緊張感が漂う空気感に固唾を飲む。
やがて、セトがゆっくりと顔を上げた。そこで俺は、ようやく状況を理解した──セトと戦っていたのが、俺たちだけではなかったということに。
「少しくらい……
その声を間違えるはずがなかった。もう取り繕う気のない柔らかい口調。気取った「僕」という一人称。俺を小馬鹿にしたような眼差し。今、俺の目の前にいるこいつは──
「ライト?」
俺の弟、
その名を呼んだ途端、その場にいた誰もが唖然とした。同化の理屈はわからない。だが、今の今まで確かにセトが優勢だったはずだ。それなのに、いきなり人格がライトになった。いや、ライトに戻ったというべきか。
ライトがぼんやりと赤い空を仰いでいる。自分の体の感触を呼吸と肌で感じ取っているみたいだ。
「ライト……お前、無事なのか?」
おそるおそる尋ねると、ライトは俺の顔を見て呆れたようにため息をついた。
「無事な訳ないでしょ……今だって、あんたらを殺したくてうずうずしている」
そう言って頬を引き攣らすライトの額には冷や汗が流れていた。
剥き出しになったライトの胸元の
ひょっとして、あの
新たな可能性に思考が停止する。そんな俺を見て、ライトが面倒くさそうに舌打ちをする。
「早くしろよ……でないと、あんたも世界も壊しちまう」
徐に拳を構えたライトの姿勢で悟った。魔力もない。気力もない。今のこいつに残っているのは、拳だけ。
「ずっとこうして殴りたかったんだよね」
半笑いしながらライトが俺の顔面を殴る。しかし、たった一発でも今のライトには衝撃が耐えられず、その場で膝を突いて吐血した。
「ライト!?」
慌ててライトに手を伸ばすが、ライトは俺の手をパシッと払いのけた。
「人の心配している場合かよ」
ライトが俺を睨みつけながら、血がついた口を手の甲で拭う。きっと、セトが他人の体だからって酷使しただけで、本当はこいつも爆発を食らってボロボロだったのだろう。それでもこいつが今でも闘志を燃やしているのは、意気地とプライドのせいだ。
ライトは覚悟を決めている。俺も心積もりをしなければ。
「……やってやるよ、クソ野郎」
そう言い捨てて、俺は最後の力を振り絞ってライトに拳を向けた。
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