第109話 なかま、ふたりめ
◆ ◆ ◆
翌日、早朝。
陽が昇ったばかりの空はどこまでも青く澄み渡っていて、陽光も眩しく感じた。
家を出てから近くの開けた草原にたどりつくまでも、里はとても静かだった。この時間だと他のエルフの民はまだ眠っているのだろう。
穏やかな風は草原に咲く草花を優しく揺らす。心地よい風に雲一つない快晴。こんな日は門出にちょうどいい。
俺たちと、そしてリオンの。
「それじゃ、行くわよ」
アンジェが
この風の渦に飛び込めば、セリナの待つ『オルヴィルカ』まで戻ることができる。
あれだけ長い道のりだったから、この移動魔法の便利さに呆気なさと寂しさを感じた。
それでも、俺たちの帰りを今か今かと待っている人がいるのだからこれを使うに他はない。エルフの里ともこれでお別れだ。
旅立つというのに、リオンの荷物はなかった。というのも、彼は自分の物を持っていないのだ。今着ているサイズの合わないぶかぶかの古びた服だって、おそらくライザのお下がりだ。彼がこの里で残すものといえば思い出と、唯一の家族であるライザくらいだ。
そんなライザも口を噤んで弟の旅立ちを見守っている。
「本当にリオちゃん借りていくわよ?」
念押すようにアンジェが訊くと、ライザは乾いた笑みを浮かべながらこう返した。
「リオンが決めたことだし、俺もこっちのほうがリオンのためになると思っているからいいんだよ」
「そう……ありがとう。あたしたちのことを信頼してくれて」
「信頼している訳じゃねえよ。ただ、ほんのわずかな出会いが人の運命を変えるってのを知っているだけだ」
それが、親父さんにとってのオリビアさんで、リオンにとっての俺たち。
どこか遠くを見つめるライザの目は、そんなことを言っているような気がした。
一方、リオンは物寂しそうな眼差しでライザを見つめている。
無理もない。これまでずっと一緒にいたライザと別れるのだ。今生の別れではないとはいえ、心細くないはずがない。
「リオン、ちょっと来い」
不意にライザに呼ばれたリオンは、くりっとした目をさらに丸くしながらライザに近づく。
すると、ライザからポケットから輪になった紐がついた何かを取り出し、ひょいっとリオンの首にかけた。それは緑色の石がついたペンダントだった。
「昔、オリビアがお前に作ったものだ。持っていきな」
説明するライザの隣でリオンは不思議そうに緑色の石を太陽に照らす。
石は
その色は彼の髪と瞳の色と同じで、リオンはしばらくその緑色の光を見つめていた。
あどけないリオンの様子にライザは小さく笑い、ポンっとリオンの頭に手を置く。
「……安心しな。そばにいる。親父もオリビアも――そして俺も」
それだけ言うとライザはそっとリオンの頭から手を離し、徐に俺たちに背中を向けた。
「おい、もう行くのかよ」
大事な弟の別れなのに、淡々としすぎではないか。そう思って声をかけたのにライザはひらりと手を振っただけで何も言わなかった。
「おい、ライザってば――」
引き戻そうと一歩前に出ると、アンジェが俺の腕を強く掴んだ。
ハッとアンジェを見ると、彼は眉尻を垂らしながらゆっくりと首を横に振った。
「これが、あの子の別れ方なの」
そう言われてしまうと俺もこれ以上何もできず、渋々その場から退いた。そうしている間もライザは足を止めず、黙々と歩いている。
「……行きましょう」
「……うん」
もらったペンダントを見ながらリオンはコクリと頷く。
こんなに空は晴れているのに、リオンの表情は曇っていて重々しい。
本当に彼を連れていいのだろうか。彼の顔を見ていると、そんな迷いすら生まれた。
それでもリオンはゆっくりと風の渦に近づいた。まるで寂しさも、迷いも、全て振り払うように。
――その時、あれだけ穏やかだった風が途端に強くなった。
まるで、彼……いや、彼らの背中を押すように。
立ち止まったリオンが勢いよく振り返る。
その振り返った先にはライザがいて、彼も弾けたようにリオンの元に駆け出した。
「兄ちゃん!」
「リオン!」
共に名前を呼んだ彼らは同時に両腕を広げた。
駆け込んだリオンをライザはひざまずいて力強く抱きしめる。その顔は今にも泣き出しそうだったが、口元は確かに微笑んでいた。
彼らが言いたかったのは、たった一言。
「――行ってきます」
「ああ……行ってこい」
言葉を告げた途端、ライザの目からはらりと涙がこぼれ落ちた。
それは初めて見た彼の涙だったが、その涙のあまりの美しさに俺もアンジェも破顔したまま何も言わなかった。
「おい、お前ら」
それが伝わってしまったのか、見計らったようにライザが俺たちに言う。
「リオンに何かあったら……ぶっ飛ばすからな」
物騒なことを言いながらも、その目からは涙がこぼれている。
そんな強がるライザにアンジェは「やれやれ」と息をついた。
「……わかってるよ」
そう言ってグッと握った拳をライザに向けると、ライザは目を濡らしたまま、ニッと口角を上げた。
「じゃーな、人間ども。くたばるんじゃねえぞ」
「お前もな、このヤンキーエルフ」
それだけ言い合うとライザは抱きしめていた腕を緩め、そっとリオンから体を離した。
穏やかな風が、俺たちの髪を静かに揺らす。
――緑の風の混血エルフ、リオン。
優しく吹き抜けるその風は、まるで彼の旅立ちを祝しているようだった。
六章【流浪人とエルフの子】終
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