第10話 熊ではないことはわかっている
いよいよ魔物がこちらまで近づいてきた。
俺もノアも頭を下げて地面に這いつくばる。
幸い、俺たちの体は伸びた草花のおかげでギリギリ隠れられていたので、魔物からはこちらの姿が見えていないようだ。
息を殺して、奴が通り過ぎるのをひたすら待つ。
こんな恐怖は初めてだった。
動いたら見つかる。
動いたら襲われる。
動いたら死ぬ。
死なないようにこうして必死に耐えているのに、生きた心地がしなかった。
この時だけ妙に心臓の音が大きく感じて、時の流れも止まっているように感じた。
早く行け。早く行け。
心の中で何度も念じる。
しかし、俺の祈願とは裏腹に奴の足音がピタリと止まった。
なぜ、こんな何もない原っぱで足を止めるのだ。何かしているのか?
嫌な予感がするが、ここで顔を上げると奴に気づかれてしまう。今はただ、こうして奴が立ち去るまで忍ぶしかない。
だが、嫌な予感ほどよく当たる。
魔物からクンクンと何かを鼻で嗅ぐような音がする。
そして、嗅ぎ終わったのか、「ククッ」と小さく笑った。
「におう……におうねえ……人のにおいだ」
ゾクッと背中に悪寒が走った。
この大きな独り言は、明らかに俺に向けて言っている。つまり、俺の存在に気づいているのだ。
「一人……いや、他にもいるな。これは……猫か?」
魔物が舌舐めずりした音が聞こえる。
そして、ゆっくり、ゆっくりと俺に近づいてくる。
やばい。やばい。このままだと気づかれる。
そうは思っているのに、足が震えてまったく動かなかった。まるで金縛りにあったように指一本も動かせない。
だが、魔物は何もためらうことなく、俺に近づいてくる。
そしてついに、魔物の足が俺の視界に入った。
「なんだこいつ、寝てるのかあ?」
頭上から魔物の声がしたが、俺は反応をしなかった。
こうなったら、死んだふりをするしかない。
前々から熊に会った時もこうすれと言われている。死体だったらこいつだって相手にしないだろう。
迷信? 知るか、もうこれしか縋るものがないのだ。
必死に死体のふりをしている隣で、ノアが「にゃーにゃー」鳴いている。こいつはこいつで倒れた飼い主を心配している猫の真似でもしているのだろうか。
お互い、どうにかしてこの状況を打破しようとしている。
そんな俺たちをあざ笑うように魔物は俺の腹をつま先で蹴った。
「おら、起きろよ」
魔物の足がスライムに突進された肋に当たる。奴が蹴るたびに腹部に激痛が走るが、「動いてはいけない」と言い聞かせる。
目をつぶり、声もあげず、ピクリとも動かず、奴が去るのを待つ。
だが、もう痛みが治まらない。あと一回やられたら、今度こそ声が漏れてしまう。
――もういい加減やめてくれ!
閉じた口で奥歯を噛み締めながら、俺はひたすら念じた。
すると、頭上から魔物のため息が聞こえた。
「なんだ……死んでるのか」
魔物のつまらなさそうな声が聞こえる。
これはもしかして、本当に死んだふり作戦が効いたのか? はっ、ざまぁ見やがれ。
このまま興醒めしてお家に帰って子供の面倒でも見てな、カンガルー野郎。
勝利を確信し、心の中でほくそ笑む。
だが、思惑通りに進んでいると思っているのは俺だけだった。
ズルリと舌舐めずりした魔物が、ニヤリと笑ったような気がしたのだ。
「それなら……ぶっ刺してミンチにして食っても文句言われないよなあ……」
魔物の低い声がする。それと同時に、ぞくりと背中に悪寒が走った。
気づいたら、俺はバトルフォークを持ったまま起き上がっていた。
バトルフォークを構えた先には、ビッグナイフを振り下ろした魔物がいた。
奇跡的にナイフはフォークの先に挟み込まれた形で押さえられた。
しかし、ナイフも奴の顔も近すぎてどうすればいいのかわからなかった。
焦る俺をあざ笑うかのように、魔物の口角がニヤリと上がる。
「なんだ……やっぱり生きてるじゃねえか」
口元は笑っていたが、目は笑っていなかった。
その鋭い眼差しで睨みつけられてくると心臓が鷲掴みされたように胸が痛かった。
呼吸も浅くなる一方で、体も震えた。
だが、そうすると奴にパワーで押し負けてナイフで切りつけられてしまう。けれども、今の俺にはこんな魔物を振り払える程の気力もパワーもない。
それでも無理矢理ナイフを押さえていると、俺の肩にノアが乗ってきた。
「なんだよ、こんな時に!」
今の状態ではノアに顔を向けることはできない。それはノアも承知のようで、俺に耳打ちするようにそっと呟いた。
「おい、隙を見て逃げるぞ」
「逃げるってどうやってだよ」俺も小声で返す。
「どうとでもいい。魔法でもなんでも使ってひとまず体制立て直せ」
そんなこと言われたって、できたらとっくの前にやってるわ。
それに、そもそも
あったとしても……。
そう思ったところで、俺はハッと息を呑んだ。
抑えたフォークの先の面はちょうど魔物の一直線上にある。
面と奴の顔面は奴の息がかかるくらい近い。
――それならば、ひょっとしたら。
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