第2話 契約書
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
一年に一度しかない親の誕生日ともなればなおのことだ。
そう、今日は一年に一度しかない日。だってもう、僕にはお父さんがいないから。もう、死んでしまったから。
「ねえ、何これ?」
不思議そうに首を傾げる涼花姉さんの姿を認めて、そして頭が真っ白になる。
だって涼花姉さんの持っているその紙は。
「契約書?」
間違いなく日本語で記されたそれは、異世界で働くにあたっての契約書。
それを今見られるのは、嫌だった。それを見れば、しばらくの間家族と離れ離れになるだろうことが家族に分かってしまうから。
僕は異世界への出稼ぎに行くつもりだった。
僕たちは実験によって大金を得たと言ってもまだまだ貧乏だ。だから僕が異世界に出稼ぎに行こうと思っていた。
「伊吹……?」
心配そうな声音で僕に話しかけたのはお母さんだった。
僕は拳を握り締めて、覚悟を決めた。この件を家族に打ち明ける、覚悟を。
「お母さん。僕、異世界に働きに行きたいと思う」
「……?」
家族はみんな、揃って首を傾げている。そりゃそうか。
いくら信用している家族とはいえ、いきなり異世界なんて言われたら信じられないに決まっている。
でも、あの姫らしき人物を見たら、信じてしまうんだ。
「好条件なんだ。仕送りだってたくさんできる」
「そもそも怪しいし。それに、それなりの対価があるってことでしょ?」
それは確かに、僕も疑問に思った。
月給百万。何らかの危険が伴う仕事なんじゃないか、と。
でも、それでも僕は働きたい。そして大好きな家族を幸せにしてあげたい。それなら、危険を冒しても構わない。
「僕はみんなに、幸せになって欲しいんだ」
父が死んで、収入は無くなった。お母さんのパートじゃ家計には到底足りない。だから、僕が幸せにしなきゃいけない。
家族と会えなくなるのは寂しいけど、僕が頑張ってみんなが幸せになるなら、それも一つの選択肢だと思うのだ。
「あのね、伊吹。確かにお金があったら大体のものは買えるわ。でも、お金じゃ買えないものだってあるでしょ」
お母さんは僕が子供のころから今と同じセリフを言っていた。
僕のお父さんは決して収入の多い方じゃなく、でも、僕らは幸せだった。
「伊吹兄ちゃん、行っちゃやだよぉ……」
いつもの強気な口調は鳴りを潜め、年相応の弱々しい口調になった有彩を見て、胸が締め付けられた。
本物の幸せはここにあるのだと、改めて気づくことができた。
「伊吹がいるだけで私たちは幸せが百倍になるわ。家族みんなで一億倍ね、ふふっ」
「何言ってるの、お母さん。お父さんがいるから百億倍だよ」
「あら、そうだったわね、ごめんなさい」
お母さんは楽しそうに、あるいは嬉しそうに笑って、家族みんなが幸せそうに微笑んでいて。
これならもう、異世界になんて行かなくていいと思った。
「僕、やっぱりここに残るよ」
いつまでもこの場所にいたい。この暖かい場所が、やっぱり僕の帰るべき家だ。
だからいつまでも——
ドッ。
背中に強い衝撃を覚え、何事かと振り返る。
その瞬間、僕はもう既に元に戻るという選択肢を失っていたことを悟った。
だって、そこにいたのは——
「異世界のことを知られてしまいました。なら、殺すしかありませんね」
悲し気に目を細めた、あの姫だったから。
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