第1話 家族

 家に入ると、普段はあまりない甘い香りが漂ってきた。

 貧乏な家には決してあるはずのない、金持ちのみが嗅ぐことができる匂いが、今日ばかりはぼろい家屋の中に充満していた。


「あ、伊吹お帰り! みんな待ってるよ!」


 玄関にパタパタと音を立てて迎えに来てくれたのは、僕のよく知る家族の顔。家族を見ると、何だか心が解けていくような優しい感覚がする。

 だから僕は家に帰るのが何よりも大好きだ。


涼花りょうか姉さん、ただいま。もう準備できちゃってる? 準備手伝いたいんだけど」

「ふふっ、伊吹は優しいね。そういうところ大好き」


 三歳年上の涼花姉さんは名前に反してあまりクールではなく、どちらかというと明るい人だ。

 何でもできていつも僕を褒めてくれる美人な姉さんを、僕は尊敬している。ただ、頭を撫でてくるのは恥ずかしいから突然にするのはやめて欲しいかな、なんて。


「伊吹兄ちゃん、遅いぞっ! ケーキが冷めちゃうのだっ!」


 こっちはだいぶ年が離れていて、八歳年下の有彩ありさ。子供らしさが残る言葉遣いはいまだ治らないようだが、僕の可愛い妹だ。

 ケーキが冷めるというところも可愛いな、なんて、ロリコンでもシスコンでもないが、そんなことを思ってしまう。


「ごめんね、有彩」


 苦笑しつつ誤ると、わいわいと賑やかに三人でリビングに向かっていく。

 とはいっても家はそんなに広くないので、ゆっくり歩いても五秒もすれば着いてしまうのだが。

 リビングの扉を開けると、軋む音がする。僕はこの懐かしい音が嫌いじゃない。家に帰ってきた感じがして、心が温かくなる。


 そして姿を見せるのは今日の主役。お母さんの絢子あやこだ。優しくて、そして何より女手一つで僕たちをここまで育ててくれた大切な家族。

 そんなお母さんはろうそくの準備をしていた。


「もう、母さん! 私たちが準備するって言ったじゃん!」

「えへへ、ごめんね。何かしてないと落ち着かなくって」


 涼花姉さんがお母さんを叱った。優しい心遣いから生まれるこういう会話が大好きだ。

 ろうそくを刺し終わって電気を消すと、長い四本のろうそくと、短い五本のろうそくが煌々と光っている。


 こうして、お母さんの誕生日会が始まった。


 ————僕は後ろ手に隠したその書類をみんなに見せることができなかった。

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