第6話

 数時間が経過し、ミケの意識は自然と覚醒した。

 起きたのなら目を開かなければいけない。けれど瞼はとても重かった。目を開けば見慣れた天井か、もしくはいつもの街の風景のどちらかが見えてくれる期待があったが、喋る黒猫がいれば気分が最悪になる。答え合わせが恐ろしく、なかなか瞼を開けることはできなかった。しかしいつまでもそうしているわけにはいかない。ゆっくりと、岩陰から様子を伺う魚のように静かに、世界を受け入れた。

 見慣れぬ天井が見え、なんだか澄んだ空気を吸い、

「あら起きた? おはよう。いえ、こんばんはかしらね」

 黒猫に挨拶された。

 返事の代わりに大きく息を吸い、これまた大きなため息をついた。

「貴方が起きたってことはこちらが現実? それとも夢の続きかな」

「もういいもういい。その話は頭が痛くなる」

 とりあえず、今を現実として受け入れるしかないようだ。自分が八雲が襲われている現場に遭遇し、何かがあって眠る。起きると知らない土地に移動していた。これを現実として受け入れるしかないんだ。色々と無理があるが。

 ミケは部屋が明るいことに気づいた。部屋の中央に置かれたテーブルの上で、簡素な燭台に設置された蝋燭に火が灯り、ささやかに部屋を照らしていた。

 可愛らしい火に目を奪われたミケは、跳ね飛ばされるようにベッドを転がった。ベッドの角、壁を背中にして少しでも離れなければともがいた。

「どうしたの、大丈夫?」

 さすがのクロも驚き、落ち着かせるため声をかけた。

「大丈夫、大丈夫大丈夫大丈夫。な、なんでも、なんでもない」

 声も体も震え、大量の冷や汗が流れる。動悸が激しくなり、自分の鼓動が五月蠅いくらいだ。火は好きなはずなのに、なんであんなにも蝋燭が恐ろしいんだ。恐ろしくてたまらないはずなのに、目をそらすこともできない。頭の中でチカチカと何かが横切る。蝋燭の存在は、ミケに何かを思い出させようとしていた。

 ミケの視線を追い、クロは原因が蝋燭だと判断した。ベッドからテーブルへと飛び移り、蝋燭の火に息を吹きかけて消した。部屋が真っ暗になる。

「大丈夫よミケ。貴方の怖いものはもうないわ」

 暗闇に浮かぶ二つの目がミケが近づいてきて、膝に重みを感じた。クロが乗ってきたきたらしい。

「火は好きなんだ、でもなんで、なんでこんな、胸が苦しいんだ。なんで暑くもないのに汗をかいてるんだ。なんで、なんで、なんでこんな」

「大丈夫、大丈夫だから、私がついてるから、ね。ねえミケ見て、私の目を。ゆっくり、じっくり。私の目を見て」

 言われるがまま、光る目を見た。見開かれた円形状の目の輝きは怪しく、それでいてどこか懐かしい。幻覚か、猫の目はどんどん大きくなりミケの視界そのものを飲み込んだ。ぼやけた視界はどこまでも広がり、そのうち、ミケは薄暗い空間の落とされた。暗いはずなのに明るくて、どこまでも、なんでもはっきり見える。重力を感じない空間は、コーヒーにミルクを入れてかき混ぜたような色をしていて、渦を描いている。落ちていく過程で、ミケからキラキラ光るものが染みだし、永遠に混ざらないコーヒーの渦に飲み込まれていった。全てを塗りつぶす黒、何にも冒されない白の二つにキラキラはなすすべなく潰された。

「どう、落ち着いた?」

 クロの声にはっとする。さっきまで何かを見ていた気がしたが、何も思い出せない。分かることは、動悸は治まっていた。

「ああ、落ち着いた。なんだったんだろ、なんで俺、あんな、火は好きなはずなんだけど」

「あはは、寝ぼけてたんじゃないの。寝起きだったんだし。怖い夢でも見たの?」

「いや、なんにも。はは、寝ぼけてた。そうか寝ぼけてたんだ、俺」

 滴る汗を服で拭う。まるで零した水を拭き取ったみたいに、服が濡れた。

 ゆっくり呼吸することを意識する。荒い呼吸を、わざと大きくゆっくりし、強ばった体もさすってほぐしていった。だんだんと心がリラックスしていくのを感じる。精神が落ち着くのに時間はかからなかった。

「でもなんで蝋燭に火なんて、俺が寝る前はついてなかったよな」

「ハチグモが火をつけてくれたのよ。本格的に夜になったら、付け忘れたからって。わざわざね」

「ふーん」

 応えながらポケットをまさぐり、ライターを取り出した。寝ぼけて蝋燭を怖がってしまったが、やはり暗すぎる。灯りがないのは不便だ。

 ライターの一瞬だけ光る火花から、手のひらにソフトボールくらいの火の玉を作り出した。部屋がさっきよりも明るくなる。この火を蝋燭に移しても良かったが、さっきまであんなに怖がっていたんだ。あまり蝋燭は使いたくなかった。

「まあすごい!」

 クロがミケがしたことに感嘆した様子で言った。

「貴方、魔法使いなの?」

 魔法使い。ミケが才能を披露したら言われる言葉ベストスリーだ。残り二つは超能力者と手品師。魔法使いがどんなものかは知っている。教えて貰ったし、子供の頃に魔法使いが出てくる絵本を読んでもらったことがある。呪文だとかをぶつぶつ呟いて、鍋によく分からないものを入れて混ぜてるばあさん。それは魔女だったか。ミケには違いが分からないのでどちらでもいいことだ。見るからにまずそうなものをせっせと煮るだけではなく、普通の人間ではできないことをする。何かに変身したり、させたり。自然現象を操ったり。それこそ、ミケのように火を操ったり。

 ミケは自分を魔法使いではないと思っている。勿論超能力者でも、手品師でもない。人間よりもでかい鍋をかき混ぜ合わせたりしたことなんてないし、魔法使いはもっと沢山できることがあるはずだ。ミケには火を操ることしかできない。

 手品師は必ずタネがあるものだと、誰かが言っていた。手品が手品であるには仕掛けがなければいけないと。タネがない手品はもはや魔法だと。それならば手品師でもない。

 それなら超能力者が一番近いかもしれない。パイロキネシスだったか。だがあれは何もないところから火を出すのではなかったのか。じゃあ違う。ミケには火種が必要だ。どんなに小さくてもいいから、火種がなければ火を操れない。

「魔法使いなんかじゃない。皆は才能だって言ってた。生まれた時からこんなことができたんだ」

「へえ、そうなの」

 クロがどこかうっとりとした表情で火の玉を見つめている。

「火、怖くないのか」

 ミケが知る限る、動物というのは大抵火を恐れるものだ。それだというのに、クロは火傷をしない程度の距離にいて、怖がる素振りを見せないでいた。

「私、火って好きなの」

「へえ珍しいな。やっぱり喋る猫は普通の猫と違うのかな」

 実際は火が平気な猫は多いのだが、ミケは知らなかった。

 部屋が明るくなり、体調が良くなったことから部屋の内部をじっくりと観察した。

 やはりミケの街の建物と違う気がする。壁を触ってみると、材質は似ているようだが作りに違和感がある。そうだ、この建物は二階に続く階段がない、つまり一階しないのだ。コンビニなどならいざ知らず、ミケにとって市民が住む家が平屋なのは珍しかった。

 単に知識がないだけかもしれないが、調理器具も見たことがないものが多い。木でできている物ばかりで、なんだか無骨な印象を受ける。

 知っているものもあれば、知らないものもある。そんな入り交じった風景のせいか半端に街を思い出したのかもしれない。ミケはどこか懐かしさを感じていた。昔の時代を生きていないのに、昔の文明機器に触れたりすると懐かしく思う感覚だった。

 家具と呼べるものは多くない。ベッドとテーブルぐらいだ。大きめの箱のようなものには服が収納されていた。そんな殺風景だが、確かに生活がされている家の中に、ミケの気を引く物があった。部屋の日の当たらない場所に人形が寄り添う形で置かれていた。数は四つ。家族なのか、父親と母親、娘二人に見える。人形の一つを手に取り、まじまじと見つめる。顔の作りが村の外にあった巨大な人形に似ている、気がする。制作者は同じなのだろうか。

「それはハチグモが作ったの」

「へえ、器用なんだな。この家に住んでた人にプレゼントしたんだ」

「……ま、この家の住人に手向けたって意味では、間違ってないけど」

「手向けたって?」

 ミケには言葉の意味が分からなかった。

「ねえミケ、散歩しましょうよ。まだ少し顔色が悪いから、外の風に当たりましょう。もう夜だけど、寝起きだから眠くないでしょ」

「え、おい、待てよ。手向けたってどういう意味だよ」

 クロは質問に答えずドアに向かった。体を縮ませて力を溜めて飛び上がり、ドアノブに掴まった。そのままノブを回し、体重をかけてドアを開けた。

「お前も器用だな」

「伊達に猫やってないわ」

 自慢げに尻尾を動かして鼻を鳴らした。

 クロと共に家を出た。空には雲が多かったが、二人が出てくるのを待ってましたといわんばかりに雲が月から離れ、地表を照らした。

「ああ、やっぱり今日は満月。明るくていいわね」

 確かに見事な満月だ。目が奪われるくらいに。

 輪郭がはっきりとした、完璧な球体。

 地上からはとても手が届かない。不可侵の領域。

 逸脱した科学力、もしくはそれこそ魔法がなければ個人では観測することしかできない場所がある。それは月の裏側。人々は月の神秘を夢見続ける。

 ならば、そんな絶対的位置にいる月が、なにかアクションを起こしたら、我々は抵抗することはできるのか。対抗することができるのか。

 例えば――そう。月が破裂するとか。

「ミケ」

 静かに、だがはっきりとした黒猫の声がミケの鼓膜を刺激し、はっと我に返った。

「明かりは月で十分よ。火は消していいわ。虫が寄ってきちゃう」

「え、あ、ああ」

 なんだろう、今とてもぼうっとしていたような。

 まだ寝ぼけているのかな。頭を振りながら、火を握りつぶした。消すタイミングが遅く、少し熱かった。

 廃墟同然の村が夜になるとさらに不気味だった。月の光によって視界は良好だが、それ故に影は濃くなる。建物の影などから得体の知れないモノが飛び出してきそうで、つい警戒してしまう。それに警戒すべきは得体の知れないモノだけではない。どこから聞こえる生物の息づかい。ミケは立派な穴だらけの柵から侵入した獣が徘徊してるのではないか、とつい考えてしまい身震いした。

「なあここ、本当に安全なのか」

「私が知るかぎり、この辺りでは一番安全だと思うけど」

「外の柵とかいうの、穴ぼこだらけだったけど。出入りし放題じゃん。凶暴な動物入ってきたら危険じゃん」

「火を扱えるくせに臆病ね」

「お前みたいに火を怖がらない動物もいるの。知ってるか、ヒグマってのは火が平気らしいぜ。それなのにでっかくて凶暴なんだ。どうにもできないっての」

 火を恐れない動物の知識はいくつかあった。特にミケが恐ろしく思ったのはヒグマだ。ホームレス仲間が持っていたラジオから流れるニュースに、熊が人を襲ったという事件があった。熊を見たことがなかったミケは、仲間からどんな動物か聞いていると、熊の種類にはヒグマというのがいると教えてもらった。ミケがいた街では最大とされる種で、凶暴で賢い生物だと脅された。馬鹿にされてるみたいだったのでミケは「ほんとにやばかったら火でびびらせりゃいいだろ」と強気で言った。しかし話を聞くと、ヒグマは火を恐れないし、なんなら向かってくるというではないか。その頃のミケは幼く、自分の力に自信があったので、火が効かないのはショックだった。さらにヒグマが起こした恐ろしい人食い事件をじっくり聞かされたものだから怖いのなんの。それ以来ヒグマは、ミケが生涯会いたくない動物ランキング堂々の一位になった。

「確かにただの火じゃ、あんまり意味ない奴らもいるわね」

「え、いるの」

 内心、「そんな凶暴なのはいない」と否定して欲しかった。いざ肯定されてしまうと、不安が倍増してしまう。

「だけど安心して。よほどのことがないかぎり、柵の内側は安全よ。この辺りの奴ら程度じゃ、侵入できたとして長くはないわ。この村に害をなす存在は排除されるもの」

「それってどういう」

 ミケが言い切る前に、地面に震動が伝わってきた。遅れてドーンという低い衝撃音も。音がした方を見てみると土煙が舞っているのが微かに見えた。

「なに、いまの」

「百聞は一見にしかず」

「何それ」

「見た方が早いってこと。見に行く?」

「いやいいよ、いいよ。止めとく」

「あらそう。残念」

 意地悪く笑うクロは、音がした方とは真逆の方向に歩いて行く。気を遣ってくれたのか、少しでもその場から離れたいミケは小走りでついて行った。

 夜の街は怖くなかった。どこまでいっても、どんな時間でも騒がしかったからだ。静かな場所に居ても、主張の激しい光がちらついていた。だが、ここは違う。明かりなんて自然の光だけで街ほど明るくない。音もまた、人間以外の存在を知らせているだけ。安心はできなかった。夜だとつい幽霊の存在を想像してしまうが、明るくて他者の存在を感じられれば安心する。そんな心理なのかもしれない。

 改めて破壊された家々を見ていると、住人の生活感を感じられた。物陰から現れ、食事をテーブルに並べたりて家事にいそしむ。もしくは子供達が本能の任せて室内を暴れ回り、親に叱られる。そんな日常を、リモコンの再生ボタンを押せば今すぐにでも始まりそうな雰囲気があった。

「……案外さ、中は綺麗だよな」

 ミケ達が居た所もだったが、家の外壁など、大きな被害に目が行くが、家具などは形を残していた。倒れたりもしていない。

「ハチグモが片付けたのかもね」

「ここに建っている家全部? 全部は見てないけど、今見たのはほとんど片付けられたってことになるぞ。一人じゃキツいだろ」

 ハチグモは八雲に似ている。ならば歳も近いはずだ。そこそこの高齢男性が村全ての家の家具、中には重いものだって十分ある、それを全て一人で片付けるのは難しいのではないか。

「ハチグモならできるわよ。時間をかければ確実に」

「そりゃ時間かければなあ」

 当たり前な回答は面白みがない。一日でこの量の家の片付けられたら超人だ、できたらダンベルみたいな力が必要な競技、トライアスロンみたいなスタミナを求められる競技の金メダルを総なめできる。でもゆっくりゆっくり、一日一軒、もしくはその半分でいい。期限を設ず、余裕を持って片付けを行えばいい。課程は違うが、ゴールは一緒なのだ。

「あっ」

 ミケが家の中に、ある物を見つけた。穴から家に入り、複数のうち一つを取り出す。

「ここにも人形」

 おそらくこれもハチグモが作ったものだ。作りが似ている。

 人形のデザイン、数からこれも家族をモチーフにしてあった。

ミケは人形達を見つめ、少し考えた。

「なあ、この人形って、この家の家族が元になってるのかな」

「そうね」

「この人形って、家全部に置いてあるのかな」

「でしょうね。今まで通り過ぎた家全部には置いてあったわ」

「今まで通り過ぎた家の住んでた人ってさ」

「まあ、たぶん、板になってるんじゃないかしら」

 最初は、この可愛らしい人形は仲睦まじい家族に与えられた、特に大きな意味のないプレゼントだと思っていた。しかしこの街の状況、住まう人を失った家、そんな寂しい空間に安置されていた人形。ミケの中で線がいびつに繋がっていき、記憶にある犬が埋められた場所に建つ板に辿り着いた。

「じゃあさ、じゃあこの人形って」

 ある種の墓なんじゃないか。

「生きていた者達の証明だよ」

 夜に背後から声をかけられる、これほど恐ろしい身近な奇襲は他に無い。思考に忙しかったミケは「うわあ」と、思い切りびびった悲鳴を上げた。クロはハチグモが近づいていたのを分かっていたのか、ミケの反応を見てくすくすと笑っていた。

「ああ、すまない。驚かせてしまった」

「できれば次からは前から出てきて」

 自分よりも長い悲鳴を上げている心臓を、胸の上から押さえてミケは言った。

 ハチグモはもう一度謝ってから、彼も人形を手に取った。子供、男の子の人形だ。

「この子はタイガ。モリモト家に生まれた長男。今年で六歳になった。モリモト家の夫婦は中々子供が出来ず悩んでいたが、結婚十年目にしてようやくできた子供だった。そしてタイガには、もう少しで妹か弟ができる予定だったんだ」

 ハチグモは手に持った人形を、話している子供そのもののとして扱っていた。所詮人形だが、向ける眼差し、頭を撫でる手つきで愛情が伝わってきた。

 それからタイガという子供がどんな性格だったか、何を目指していたか、これからどう生きて欲しかったかを、ハチグモは語った。語れば語るほど、彼は疲弊していった。肉体的ではなく、精神をすり減らしていたのだろう。ハチグモの心を揺さぶるほどのことがタイガに、その家族に起きたのは想像に難しくなかった。

「この家で、誰が、どんな家族に囲まれて生きていたか。……誰かに教えるために、私自身が忘れないようにするために。作ったんだ、この人形達を。それと約束だったから」

 ハチグモはこの村で起こったことを、聞かれない限り言うつもりはないのかそこで口をつぐんだ。好奇心の尾は再び出かけていたが、今度は勇気ではなく、彼の暗い気配によって押さえ込まれた。

「人形全部作ったってすごいな。あんなに沢山、しかも店開けるくらいの出来じゃないか」

 気温が高いままに、半端な雨が降った後のような重い空気感が嫌で、明るい口調で話しかけた。

「昔から人形しか能がなくてね」

 力なく笑う顔が八雲とだぶる。似てるだけの別人だというのなら、表情まで似せる必要なんかないだろう。

 言葉に困っていたミケに、ああそうだ、と助け船を出したのはハチグモだった。

「ところで名前を聞いていなかったな。なんていうんだ?」

「え、ええ、えーと……」

 どうしよう、正直に答えていいものか。知らない土地とはいえ、自分の名前が他人に笑われるのはクロで証明されてしまった。そうなると名乗りづらい。それにこれは待ちに待った解明のチャンスではないか。慎重に決めなくてはいけない。

「何悩んでるの。ミケでしょ」

 じれったく感じたクロがしゃしゃり出てきた。

「お前、何勝手に」

「何よ、貴方自分でミケって名乗ったんでしょ。それとも他に名前あるの? あるなら言ってみなさいよ」

「ない……けどさ」

 ほらみろ、と言わんばかりに鼻を鳴らした。

「ないけど、この名前、笑われるから好きじゃないんだよ……」

 現に笑った奴が目の前にいる。

ちらりとハチグモの様子を伺う。

「まあ、確かに猫っぽい名前だな。黒猫が連れてきたミケという人間か、ふふ」

 笑われたが嫌みっぽさはなく、ミケが見てきたから笑った、という感じだった。

「嫌だと言っても、皆がそう呼んでくるんだ。ちゃんとした名前じゃないのに」

「そうか、私はいいと思うよ。覚えやすくて」

「覚えやすいだけじゃん……」

 少し納得いかないが、空気が和んだからまあいいかとはにかんだ。

「さてミケ君、一つ質問をいいかな」

「え、うん。いいよ」

「良かった。ちょうど君達が外にいるのに気づいてね、私も出てきたんだ。気になっていたことなんだが、君らはどうしてこの村に来たんだ」

 表情は柔らかいはずなのに、目つきが鋭くなった気がする。睨まれているわけでもないのに、胸がどきりとした。

「……たぶん寝てて、気がついたらここの近くにいた。知ってる街はなくて、知らない所にいたんだ。そうしたら、こいつがここのことを教えてくれたから、ここにきたんだ」

 もとより偽る気も、騙す気もない。それ故に正直に答えたが、稚拙な文章しか浮かばなかった。

 ハチグモがクロを見る。

「だいたい彼の言うとおりよ。私が見つけた時は彼、森の真ん中で眠ってたわ。話を聞いてみれば自分が住んでいる場所じゃない、知らない場所にいるって言っていて。嘘やホラを言っている風でもなかった。驚き、混乱をしていたわ。夜になりそうだったから、野営は危険だと思ってここを紹介したの」 

 ハチグモは静かに目を閉じる。何か考えているようだった。ゆっくりと頷いてから、ミケとクロを交互に見た。

「ミケ君が嘘を言ってるわけでは無さそうだし、猫のことは私も信頼している。分かった。信じよう」

なんだか聞き捨てならない。確かに伝わりづらかったかも知れないが、だからといって猫の存在を判断材料にしなくてもいいではないか。

「なんでクロのほうが信頼されてんだよ」

「時間って大切なのよ。人との関係をおろそかにしていいことないわ」

 クロは自慢げに言った。

「ん? その猫はクロというのか」

「そうだよ。自分で言ってたし。ハチグモさん、知らなかったのか」

「この村にふらっとくるようになってから長いが、私達に名乗ったことはなかったからなあ。愛称をつけようとする者もいたが、定着はしなかった」

「人から名付けられるなんて、そんな赤ん坊か猫みたいな扱いは嫌だわ。私は今日クロになったの。命名記念日ね。カレンダーに記しておかなきゃ」

 肉球のついた手で、どうやって文字を書くつもりなのか。それよりもカレンダーなんて持っているのか、真面目に考えるだけ無駄なのに想像を巡らせてしまった。

「それで、ミケ君。君が村に来た理由は分かったが、これからどうするつもりなんだ?」

「そりゃあ、もちろん……帰りたい」

 この自信の無さは帰れるか分からないからか、それとも。

 どこからか低い位置で、小さなため息が聞こえた気がした。

「ハチグモさん、俺が住んでた街知らないか。あそこもそんな小さいわけじゃあないし、なんていうか派手だったからさ。目立つと思うし」

 ミケは必死に街の特徴を説明した。できるだけ伝わりやすく、時には地面に絵を描いたりして、街のシンボルになりそうな特徴的なものを身振り手振りで伝えた。

 ハチグモも腕を組み、聞かされる情報を頭の中で該当するか考えてくれた。しかし、表情は曇るばかりだった。

「すまない。私が知っているかぎり、君が言う街は聞いたこともない」

 なんとなく察していたが、がっくりと肩を落とし、落胆は隠せなかった。

「そうだ。名前はないのか。君の住んでいた街の名前」

「え、街に名前ってあるの?」

 街の名前なんて聞いたことが無かった。

「君が言う規模の街なら有って当然だと思うが」

「そうなのかな。俺、聞いたことないよ」

 生きていく上で、街の名前なんて必要がなかった。

「そうか、いい手がかりになると思ったんだが。少々厳しいか」

「ごめん……俺、どうしたらいいんだろう」

「まあ待て。まだ手はあるんだ。探しものを見つける仕事をしている知り合いがいるんだ。腕は確かだ。彼女を紹介しよう。何か手がかりが見つかるかもしれない」

「本当? でも俺、紹介されてもそこへ行けるかな」

「クロに場所を教えておく。君をここまで連れてきたんだ。案内は得意だろう」

「よほどしみったれた場所じゃなければね」

「うーん……」

 思い当たる節があったのか苦い顔をした。

「まあ、なんとかなるだろう。こういうのは早い方がいい。明日にも出発したらどうかな」

「え……うん」

「よし分かった。準備しておこう。君は明日に備えて眠るといい」

「うん、おやすみ。ハチグモさん」

「ああ、おやすみ」

 挨拶を済ますと、ハチグモは足早に去って行った。その背中を見送ると、ミケはとぼとぼと歩き出した。

 歩みは遅く、ついついクロはミケを引き離してしまう。距離が空くと、速度を緩めて列を合わせるのだが、やはりクロの方が速くて置いていってしまう。

「もう、どうしたのよ。そんなわかりやすく落ち込んで」

 ポケットに手を突っ込み、目線を落として歩く姿は主張が激しかった。なんだかミケの背景だけ黒っぽい青になっているように見えるほど、気分が沈んでいるのは明白だった。

「なんかさ、ハチグモさん、さっぱりしすぎてないか」

「どういうこと?」

「明日にも出発って、すぐ出て行ってほしいみたいじゃん」

「それは貴方が早く帰りたいと思っていったんじゃないの。考えすぎよ」

「そうかな。でもさ、話すのだってなんか、なんだっけ、他人行儀ってやつ? な感じして」

「そりゃ他人でしょう。今日知り合ったんだから。寧ろ初対面にしては友好的だと思うんだけど」

「だけどさあ」

「貴方、さすがにキモいわよ」

 うんざりしたようにクロが睨んできた。

「ハチグモは貴方の言う、八雲に似てるらしいけど、別人なの。いかに貴方にとって大切な人かもしれないけど、他人なの」

「分かってるけどさあ」

「分かってないからそんな女々しいこと言ってるんでしょ!」

 確かに彼女の言うとおりだが、割り切れないのだ。

 ミケが双子を見たことがないのが起因しているのかは分からないが、顔も、仕草も似ている八雲とハチグモを、まったくの別人として認識できないでいた。彼の態度で別人なんだと思っても、どうしても八雲がちらつく。だから彼から他人として接すられると、ショックを受けてしまうのだ。

 下手に無視されるよりも、他人として扱われる方が堪えるとは。

「ああ、早く帰りたい」

 あのハチグモは本当に他人で、自分を家族として接してくれる八雲はちゃんと別に存在しているんだと実感したい。

「早く帰りたいならすべきことをしなくちゃね。それは二つ。明日に備えて寝る、祈る」「祈るって何に? 何を?」

「できるだけ上手くいきますようにと、祈る相手は、適当に頭に浮かんだ相手に祈っておきなさい」

 そこは嘘でも神に祈れと言うべきではないか。

 ミケが頭に浮かんだのは、教会の壁に描かれていた女性の姿だった。筆やブラシで描かれた、それらしい壁画ではなく、スプレーで塗りたくられた落書きだった。普通そんな罰当たりなことをしたらすぐに消されるのだが、落書きにしてはクオリティが高く、そこの神父がかなり緩い頭のせいか、教会の新しいシンボルとして残り続けた。

 ミケも気に入っており、その近くを通る度にスプレーペイントがまだ残っているかを確認していた。絵自体はよく言えばカラフルな、悪く言えば目が痛くなるような様々の色味で描かれていたが、メインとなる女性自体は白黒で塗られ非常にシンプルだった。白で輪郭を描き、黒で影をつける。影のせいで顔が隠れ、表情は読みづらいと仲間は言っていたが、ミケには薄く微笑んでいる風に見えた。

 神の姿を見たことがある。天使もだ。彼らの姿は絵として、映像として、時には詩として、人間並にありふれていた。それでいて彼女の姿は教会の壁でしか見られない。神秘性が暴かれた現代において、彼女だけは秘密を守り続けていた。そこに存在するだけで意味がある、そんな魅力を感じていた。

 名も知らぬ彼女に、ミケは祈った。どうか上手くいきますようにと。

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