第3話

 武田の紹介してくれた仕事は夜の繁華街での雑用だった。忙しい店員に代わりに、様々なことをやらされた。ゴミ捨てや、ミケは衛生管理など難しいことは分からないがこれは自分がしていいことなのか、と疑いを持つことまで。ゴミ捨ては分別が分からないし、専門用語で指示されても分からないし、大変だった。上手くこなせないことばかりで雇い主たちは怒りっぱなしだったが、ちゃんと給料は貰えた。武田がストレスをぶつけられるのが仕事と言っていた意味は、最後まで分からなかった。

 普段は夜更かしなんて苦じゃないのだが、今日は疲れた。精神的にも肉体的にも。すぐ帰って眠りたい。今のミケを動かしてくれるエネルギー源は、今まで得たことのない量の金であった。決して多いとはいえない金額、それでもミケにとっては大金だ。金の存在は彼の心を高揚させてくれる。まだ何を八雲にプレゼントしたいか決めていないが、どんなものでも買えるように貯金する大事なお金。いつも通りポケットに押し込んでいるが、存在を確認するために頻繁に上から触って確かめながら歩いた。

 寝床からは大分離れたところで仕事をしていたために、帰るのが大変だ。別にどこでも眠れるが、今の持ち金を考えると安心できる場所で眠りたい。頑張って帰るか。疲れている足を励まし、眠気を覚ますために顔を叩いて活を入れた。

 できるだけ大きな通りは避けて歩いた。誰かに金をすられるんじゃないかと不安だったので、路地裏だとか、なるべく暗い道ばかり歩いた。普通なら暗い道のほうが不安なのではないかと思うが、暗い場所で廃棄物を漁ることになれた人間からしてみれば、明るくて人が多い場所のほうが疑わしい。生まれて初めて持つタイプの自意識過剰はミケを神経質にしていた。

 人通りが少ない場所でも、すれ違う生き物は居た。得たいの知れない塊に群がる虫、ミケの足音に反応して駆けるネズミ、戯言を吐き出しながらゴミ袋に塗れている人間等々。最後のは同類ではないのは直観で分かった。メインストリートから届く微かな光で見える彼らの衣服はスーツだ。決まった職を持ち、ある程度の生活を維持している者達。なんで寒さや風を防げる家があるのに帰らず、こんな所で寝ているのか不思議でミケは八雲に聞いたことがあった。八雲は困った表情をしながらこう答えた。

「彼らは大きく分けると二種類いるんだ。疲れを発散させようとして、やり過ぎてしまった者。もしくは疲れることをした後に、もっと疲れる場所に帰りたくない者だ」

 ミケの嫌いな抽象的な表現だった。不満で何度も聞き直したが、八雲は似たことしか言わなかった。まるでミケに余計なことを教えたくないようだったが、彼はそこまで考えを至らせることはなく興味を失った。

 中には通路の真ん中で寝そべり、生ゴミの汁で衣服を汚しながら寝ている者もいた。障害物を避けるスペースもなく、飛び越えるしかなかった。ただでさえ疲れているのに、余計な体力を使わせる。舌打ちをしたくなる苛立ちよりも、げんなりする呆れのほうが強かった。

 明るい方から聞こえる、がちゃがちゃした喧騒。暗い方から聞こえる、じめじめとした呻き。対照的だが、ミケにとってはどちらも五月蠅かった。

 早く帰りたい。気持ちに反して歩く速度は変わらない。

「にゃあ」

 猫の声が聞こえた。

 頭を下げて足下ばかり見ていたミケはハッと顔を上げる。朝と同じように、鳴き声が聞こえた方へ顔を向けた。

 ミケが歩いている通路より暗い道に、二つの球体が浮かんでいた。それが夜に光る猫の眼球だとすぐに気づいた。

 猫で頭に浮かぶのは朝の黒猫だ。何をしたかったのか分からない奴。またちょっかいをかけにきたのかと、光る目を直視した。しかし一声鳴いただけで後はじっとしている。何だろうと見続けていると、道の奥で何かが動いているのに気がついた。複数の人間だ。そこまで距離があるわけではないが、光を背にしているせいで何をしているか把握しづらい。 視線を猫が居た場所に戻すと、既に居なくなっていた。気にはなったが、興味の対処は人間のほうに移っていた。

 ゆっくり近づいて行くと声が聞こえてきた。はっきりと聞き取れるわけじゃないが、穏やかな雰囲気ではない。関わらない方が良さそうだが、妙に好奇心がくすぐられた。まるで誰かに誘われているかのようだった。

 声色の違いから四人いるのが分かった。快活な、若い印象の三人とくぐもった低い声が一人。三人が一人を取り囲んでいた。何をしているのかだんだん分かってきた。これは世に言う親父狩り、もしくはホームレス狩りという現場ではないか。直接見たことも体験したこともないが、風の噂で聞いたことがある。若さを持て余した学生や、自分の過剰な自信とエネルギーを発散させるために、弱い立場の人間をいたぶり金銭を奪う。弱い立場と言っても、喧嘩の強弱で決まるわけではないそうだ。社会で生きるなら他人へ行う暴力は自分の首を絞める。反撃してしまえば、己の拳に伝わる痛み以上のしっぺ返しが待っている。失うモノがあまりに多い人間は、暴力を平然と行える人間からしてみれば格好の獲物になってしまう。反撃してこない肉サンドバッグの需要は高く、月に何度も被害の話を聞く。自分の世界でそんな理不尽が起こっていることに、話を聞く度にミケはやりきれなさを感じた。

 今目の前にいる彼らが行っているのが純粋な暴力なのか、それとも金銭を得るための過程なのかは分からないが、どちらにせよ許されることではない。ミケは八雲達から意味の無い暴力はだめだと教わってきた。特にミケに関しては才能のせいで、被害が双方の怪我では済まないので強く言われてきた。それに、今は特に人の金を奪う目的にも憤りを覚える。大変な思いで稼いだ金はその人の物で、何人たりとも奪っていいものではない。親父狩りなのかホームレス狩りなのかはどうでもいいが、目の前の行いは許せない。

 明確な作戦はなかった。誰かを助けるための暴力なら八雲達の教えに反することはないだろうが、三対一では勝てるかは分からない。喧嘩らしい喧嘩はしたことがないので尚更だ。けれど、自信がないわけではない。ミケには才能がある。武田が言っていたように、人は火に惹かれるが、同時に恐れさせることができる。今なら武田から貰ったライターもあるし、いざとなればこれで脅かせばなんとかなるだろう。

「おい!」

 十分距離を縮めると怒鳴り声を出した。四人が一斉にこちらを見る。薄暗さはあっても、誰がどんな顔をしているかはなんとなく分かった。

 若者は皆似た格好をしていた。暗くとも分かる、ケバケバしい黄色の蛍光色の服。流行なのかもしれない。もう一人はホームレスだった。くたびれたコートを着ていて、サンタクロースのような髭を生やしていた。

 八雲だ。

 ホームレス狩りの標的にされていたのは八雲だった。

「八雲さん!」

 なんでこんな時間に八雲さんが、とか、ここは彼の活動範囲じゃないのに、など色々考えたのはその場でだったのか、それともここを離れてからだったのかは覚えていない。ミケはすぐさま八雲の側に駆け寄った。

 八雲の体に触れると苦しむようにうめき声を上げた。目をこらすとしわしわの顔に痣ができているのが分かった。暴力が振るわれていたのは分かっていたが、それが八雲だと知り、怪我の具合まで見てしまうと胸が苦しくなった。

「何? 知り合い?」

 真ん中に立っている男が言った。

「ちょうど良かった。そのじいさんからお小遣い貰ったんだけど、少なくてさ。あんた金持ってる?」

「あるなら分けてほしいな。あんたらあんまお金いらないでしょ」

「最近あんたら向けの炊き出しが盛んらしいじゃん。いいよなあ、無料(タダ)でご飯食べられて」

「俺らも無料タダでご飯食べたいよ」

「だからさ、浮いた分でいいから、俺らに恵んでよ」

 何かを言っているが、頭に入ってこなかった。八雲の荒い呼吸、それだけがミケの耳を支配していた。

 いろんなことを考え、思い出していた。けれど映像や想いは台風のように荒々しく、頭の中を荒らしていく。

 八雲と目が合う。何かを訴えているようだったが、無視した。八雲の言いたいこと、伝えたいことを無視するのはこれが初めてだった。

 ミケは武田から貰ったライターを取り出す。

「何、煙草に火をつけてくれるの」

「ごめんね。ごめんごめん。俺たち未成年なんで煙草吸えないんだ!」

「そうそう。ってこれはなーんだ」

 男の一人が、別の男の胸ポケットに入っていたくしゃくしゃになった長方形の箱を取り出した。

「煙草でーす! 持ってまーす! 僕、煙草だーいすき!」

 煙草を奪い返し、舌を出しながら変顔をする。

「あはははは!」

「いいねその顔! ウケる!」

 仲間達には好評だが、ミケの感情は少しも揺さぶられなかった。

 ライターのヤスリを回し、イメージする。火の粉は小さな火球に姿を変えて飛んで行き、煙草の箱にぶつかった。

「あっつ!?」

 煙草に燃え移った火は、ぶつかった場所から均等に広がり、箱全体を包み込んだ。熱に驚いた男は箱を落とす。地面に落ちた箱は、むせるような匂いを出しながら燃え尽きた。

「なんだ今の。煙草が急に燃えた? なんで?」

「……あいつ今、火を飛ばしてこなかったか?」

 一人だけ、ミケが何をしたのか見ていた。

「は? 何言ってんの。火炎放射でも持ってったっての」

「違う。なんか火の玉みたいなのを飛ばしてた」

「何それ。意味わかんね。お前あのやばい薬やめろって言ったべ」

「薬なんてやってねえ! 買う金ないからこんなことしてんだろ!」

 男達がああでもないこうでもないと言い合っているうちに、再びライターのヤスリを回そうとする。するとミケの手を、八雲が掴んできた。首を左右に振っている。

「止めろミケ。止めるんだ……」

 絞り出すような声。普段ならこんな声を出されたら無視なんてできないはずだ。けれど、今ここにいるミケは普段のミケではない。怒りで全身の血が沸騰し、脳が外部からの情報を遮断していた。八雲の存在を忘れてはいなかったが、気にかける余裕など無かった。

 手を振り払い、ヤスリを回す。再び姿を現した火球に、男達はどよめいた。

「すっげ」

 男の一人がスマホを取り出した。何かが起きればしなければいけない行動としてプログラミングされているように、カメラを起動する。画面ごしに眺めていた火球は、そんな男に直撃した。

 胸の辺りに当たった火球は、煙草の箱の時と同じで均等に服を燃やしていった。自然的な火は燃えやすいところから徐々に燃えていくのだが、この火はミケの意思で動いている。燃やし残しなどないように、高火力かつ迅速に焼いていった。

 火をつけられた男は野太い咆哮を上げて、逃れようと必死で服を脱ごうとした。しかし焦っているためか上手く脱げないし、なにより燃えるスピードの方が速かった。仲間達も火を消そうと叩いたり、捨てられてあった段ボールで仰いだりしているが、暴れ回る男を捕らえることができず意味をなしていない。

 服はほとんど燃え、直接男の皮膚を炙る。肉の焼ける匂いがした。脂肪が溶けて、肉を焦がす。焼肉というのは旨いらしいが、店の中でもこんな匂いが充満しているのだろうか。例え金を貰っても行きたいとは思えなくなってしまった。

 等身大の火柱になった男から火を頂戴して、別の男に引火させた。ミイラ取りがミイラになる、という言葉はこんなタイミングで使えばいいのか。助ける立場にいたのに、同じ状況になってしまった男は、これまた同じ反応をして苦しみだした。

 二つの火柱は、仲間を燃料に燃え続ける。彼にとってはこの世の終わりともいる光景を目の当たりにして、ついに男は逃げ出した。寧ろ耐えたほうだ。人から金を奪おうとする輩にも仲間を想う気持ちがあったとは。けれど遅かった。逃げようとしても、ミケの目の届く範囲、火が届く範囲ならばそれは困難だ。

 三人目も同(おんな)じにしてやる。遊びで作った空き缶集めのノルマを達成するように、そうすることが義務のように火をつける。

 つもりだった。

「やめろ!」

 頬を強く叩かれた。視界とイメージがぶれ、狙いがずれる。放った火は男では、山積みにされたゴミ袋に引火した。

「ひい!」

 男は情けない声を出して駆けていく。もうミケからは見えなくなってしまった。これでは火をぶつけることはできない。

 ミケの頬を叩いたのは八雲だった。痛みを感じながら、八雲を見る。大きな三つの火種のおかげではっきりと見えた。痣ができた顔は、見たことがない表情で歪んでいた。これは本当に八雲なのか、ミケは冷や水をかけられた気分になり、気持ち程度の冷静を取り戻した。

「なんてことをしたんだ! 取り返しがつかないことをしたんだぞ、分かっているのか!」

「でも、あいつらは」

「でもじゃない!」

 すさまじい剣幕だ。本当にさっきまでいたぶられていた老人なのか。圧で思わずのけぞりそうになった。だが引くつもりはない。奴らは八雲にとても酷いことをしたんだ。したことを褒めてほしいわけじゃないが、頭から否定されるのも悲しかった。

「八雲さんに酷いことをしたんだ! それを見過ごすなんてできない!」

「だからといってあんなことをしていい理由にならない。人を殺したんだぞ!」

「あんな奴ら死んで当然だろ! きっと八雲さん以外にもやっていた! 悪人だろ絶対!」

「死んで当然なんてお前の決めていいことじゃない! 同じことを繰り返すつもりか!」

 どうして分かってくれない。どうしてそんなに責めるんだ。ミケは髪を掻き毟った。

 互いの主張と主張をぶつける、おおよそ会話といえないコミュニケーションは平行線のままだった。見つめ合うのではなく、睨み合う。怒るにしても優しく諭す八雲では考えられないことだ。ミケがしたことを考えれば八雲の怒りも仕方が無い。殺人は重罪だ。言い訳はできない。期待していた人間がこんなことをしてしまえば失望するのは当然だ。

 だけど何かがおかしい。

 理由なんて分からない。ふわふわとした違和感があるのは確かだ。燃焼して出た煙は空へ登り、正体の掴めない違和感はミケの周りに沈殿した。

 言葉を交わしながらミケは考える。俺はどのタイミングで、おかしいと感じたんだ。そうだ、八雲の表情を見た時だ。今までに見たことがない、そう表現したが間違いだ。たぶん、人間がしていい表情じゃない。あのタイミングなら怒りか悲しみ、もしくは焦りが元となる表情になるだろう。八雲の表情筋が作り出した顔はどれも当てはまらない、もしくはすべてに当てはまるものだった。人間のマイナスな感情を一気に顔面に作り出した表情。少なくともミケにはそう見えた。八雲かと疑ったが、本当は人間なのかを疑っていたのかもしれない。

 意識し出すと疑いは強くなっていった。目の前に居るのは捨てられていた自分を拾ってくれた育ての親なのか、それとも姿だけを似せた別の生き物か。自然と足が動き、距離を取り始める。すると激しく罵ってきていた八雲が口を閉じた。その瞬間に動きまで止める。筋肉の一つ動かさない、呼吸すらしていなんじゃないか。まるでバッテリーが無くなった機械みたいで不気味だった。


 さあ、ここが。


 終着点だ。


「また終わりだ」

 吐き出された言葉が世界に吸い込まれると、八雲らしきものが溶けた。

「うわあああああ!?」

 腰が抜けそうになりながら、後方へ跳んで離れた。建物に背中をぶつける。そこそこの勢いだったが、痛みを感じる余裕はない。

 八雲の体は火を近づけられた蝋のように変形していった。体はどんどん小さくなり、下半身は地面と一体化し始めている。髭と一緒に顔が剥がれて地面に落ちた。デスマスクはべちゃりと音を立てて崩れ、眼球があらわになった。二つの濁った目玉はミケを見ていたが、すぐに形を保てなくなり地面に吸収された。体自体は体積が大きいからまだ形を残しているが、時間の問題だろう。

 はっ、はっ、はっ、と短い呼吸を繰り返す。過呼吸になりかけているのか、胸が苦しい。激しい動悸を感じる。現実を受け入れられない。

「なんだこれなんだこれなんだこれなんだこれ。あははは、もしかして俺寝ちゃった? 疲れて寝ちゃった?」

 もしくは三人組に負けて気絶しているのかもしれない。

 ゴミ袋はまだ燃えている。その火を飛ばして、直接自分の皮膚に当てた。

「あちぃ!」

 火を操れるせいか、ミケは他の人間より熱に強い。だが直接火を触ったり、炙るようなことをすれば痛みを感じた。

「これは……これは、夢……じゃない……?」

 じんじんとした痛みは確かに感じた。それでも夢だと思いたかった。夢の中でぶん殴られたら痛いし、判断材料にはできないだろう?

 受け入れられない言い訳を用意していると、背中にぬめりとした嫌な感覚がした。

「ひぃ!」

 何事かと確認すると、背中を預けていた建物も溶け始めていた。火のついていないゴミ袋も、段ボールも、放置されている廃材も溶ける。

 世界が溶ける。


 ミケは走っていた。目的地は公園だ。犬養も、他の仲間も、たぶん武田も、きっと本物の八雲も居るはずの帰る場所。帰ればなんとかなる。根拠はないが、そうするしかなかった。

 世界は地獄へと変貌した。建物も人間も、頭に火を灯し溶けていた。夜のはずなのに明るいのは不気味な蝋燭のおかげではない。月が燃えて、巨大なライトとなって地上を照らしているのだ。火の塊といよりは、月という固形燃料を燃やし続ける炎であった。溶けていないのはミケだけ、燃えていないのは地面だけ。世界は燃料として消費し続けられるモノになった。

「帰ろう、帰ろう、早く、早く」

 ミケは両耳を塞ぎながら走った。できれば目も塞ぎたかったがそれでは走れない。世界が燃える音も、溶ける様も受け入れたくない。火が恐ろしく感じたのは生まれて初めての体験だった。

 一心不乱に走っているのだから、人だったモノにぶつかることもあった。ぶつかればそれはえぐれ、ミケの体にまとわりついた。側溝にたまったヘドロにより強い粘性を与えたような、とにかく不快な感触ですぐに振り払った。

 公園につく頃にはどこも火だらけになっていた。公園に住み着いていた生物が火種になっているのだろう。まるで何かの祭りみたいだ。

 走る速度を緩めずに目的地に向かう。ここまでくればもうすぐだ。残り少ない体力を絞り出して走り続けた。

 早く皆に会いたい。きっと変わらない顔で迎えてくれるはずだ。犬養はこんな時間まで何をしているんだと聞いてくれ、武田なら仕事はどうだったと話しかけてくれるんだ。絡んでくる人達と会話しながら八雲を見つけ、今日はこんだけ稼げた、と言って貯金額を伝えるんだ。そうしたら八雲は昨日見せた優しい顔で褒めてくれるんだ。頬の筋肉に力が入り、顔がにやけるのが分かった。疲れているし、そんな顔を皆に見られたら弄られるから戻したかったが、体がミケの命令を受け入れてくれなかった。

 現実もまた、ミケの妄想を受け入れてはくれなかった。

「――――はは」

 現実は平等だった。平等にホームレスの住処を燃やし、平等に仲間を溶かしていた。

 皆、皆蝋燭お化けになっている。悲しくて辛い、服で誰が誰だと分かってしまう。皆ほとんど毎日、同じ服を着ている。


「あっはっはっはっ。どうしたんだよ犬養さん。こんなドロドロになっちまって。口もないじゃん。得意の持論、そんなんじゃいえないよ」


「あ、武田さん。仕事大変だったよ。怒鳴られてばっか。あんたいっつもあんな思いして働いてたんだなあ。すごいよほんと。またよろしく」


「見てよ、俺こんな大金初めて持った」


「ていうか、なんで皆起きてんの? 今はほら、一時だよ一時。そっか明るいからか」


「今寝たら昼寝になんのかなあ。昼間より明るいぜ今。このまま明るかったら眠れなくて、腹減っちまうよ」


 ミケは蝋燭になった仲間達、一人一人に話しかけて回った。応える者は、誰も居なかった。

「あれ、八雲さんいないな。なあ犬養さん、八雲さんどこいる」

 犬養は応えない。

「ねえってば」

 ミケは犬養の肩だった部分を掴もうとしたが、溶けた体は脆く、でろりと抉れた。

「うわあごめん。取れちゃったよ。今くっつけるから」

 手から零れる肉の蝋を元に戻そうとするが、触れる度に体は崩れていった。

「あれ、あれ、あれ」

 直そうとして崩す。繰り返すうちに犬養は水たまりのように地面に広がり、染みこんでいった。残っているのはミケにまとわりつくドロドロとした何にだけ。

「犬養さーん、犬養さーん」

 ミケはひざまずき、シミができた地面を撫でた。それだけではおさまらず、横たわって地面に口をつけて名前を呼ぶ、返事が帰ってくることを期待して今度は耳をつけるが、物が燃える音しか聞こえてこない。

 諦めて大の字で寝転んだ。煙が充満し、燃え続ける月が印象的な空を見た。どこまでが雲か、どれが煙なのか。混ざり合ったそれらは天と地、どちらの火も写し紅蓮に輝いていた。空を仰ぎ見ていると、燃料としての役目を終えたのか月が爆発した。全体をはじけ飛ばすというよりも、一点に強い負荷がかかって穴が開いた風に見えた。大きな穴が開いた月から人々だったモノと似たクリーム色の蝋が溢れだし、ダムの放水のように地表に撒かれた。

 地面から見た月はあんなに小さいのに、出てくる蝋は洪水のごとく世界を飲み込んだ。もっとも、世界に物体として形を残していたのはミケだけだったが。

 抗うことのできない力で押し流され、揉みくちゃにされる。上下左右に振り回されたのと、視界全部がクリーム色一色になっていたので方向感覚などあてにならなくなっていた。幸か不幸かの判断は難しいが、まったく苦しくなかった。酸素など皆無で、穴という穴に蝋が流れ込んできているのに息苦しさや鼻に水が浸入した時の痛みはなかった。苦しみがないせいで、まだこれは趣味の悪い悪夢なんじゃないかと思い始めていた。

 なるがまま、されるがままに蝋の奔流に流されていると、代わり映えのしない光景のなかで一部違う箇所を見つけた。濁った世界の中で、たった一カ所だけ真っ白な場所があった。他とは違う、はっきりとした色合い。見たことがないくらいの白色は眩しさすら覚えた。それは円形状の渦の形をしていて、大きさはミケが入れるくらいだった。流されていた体もいつの間にかその場に止まっていた。体だけではなく蝋の流れも止まっており、泳げるのではないか。状況がおあつらえ向きすぎて、白い渦に呼ばれている気すらした。

「あれを潜れば目、覚めるかな」

 自分以外はすべて蝋になった世界に現れたそれは、まるで異界の門だった。時間という概念すら溶けてしまったであろうこの世に起きてくれた奇跡に、ミケはすがるしかなかった。怪しさなんて微塵も感じない。何か変化が起こってくれるのならそれでいい。それが良い結果であれ、悪い結果であれ。目が覚めれば最高、悪いことが起きれば最低。それすらも感じない今の世界は寂しすぎた。

 泳いだことはないが、渦へ向かって手をばたつかせてみればゆっくりと進むことができた。ミケにもどかしさはあったが、大口を開けた渦は寛大に待ってくれているので焦りはなかった。


 ○○○○。


 誰かに呼ばれた気がした。

 はっきりと聞き取ることはできなかったが、自分の名前ではないことは確かだ。


 ○○○○。


 まただ。気のせいじゃなかった。

 泳ぐことを止めて、周囲を見渡す。自分以外にも生き残りがいるのではないのかと期待したが、誰も居なかった。

 代わりに、背後に真っ黒な渦ができていた。形状は白い渦とほとんど同じだった。


 ○○○○。


 自分の名前ではないのに、音すらまともに聞こえていないのに、なぜこんなに呼ばれている気分になるんだ。

 ミケは呼ばれるがままに踵を返し、黒い渦を目指して泳ぎ出す。さっきよりも必死に泳いでいるせいか、速度は上がっていた。声は聞こえ続けている。あの声が途切れる前に速くたどり着かねば。

 急げ、急げ、急げ! じたばたとみっともなく泳いでいると、体が引っ張られる感覚がした。振り返ると白い渦が回転して、周りの蝋を吸い込んでいた。目的は蝋を吸うことではなく、自分だと直感で分かった。先ほどまで何も感想を抱かなかった白い渦が、自分を飲み込みたく暴れている様は恐ろしかった。

 泳ぎの経験のないミケが引っ張られながらも、黒い渦目指して進むことができたのは気合いと根性のおかげだった。誰も居なくなった世界で、自分を呼んでくれる。強く惹かれ、必死に頑張れる理由なんてそれだけで十分だ。

 白い渦の吸引力は強くなっていった。ミケのつたない泳ぎでは進めないほどに。その場に止まれていたのは、それこそ奇跡だったのかもしれない。黒い渦まであと少し。もう少しだけ進んで、必死に手を伸ばせば渦に指が触れられるかもしれない距離だ。だが敵は白い渦の吸引力だけではなかった。ミケの体力の低下だ。腕も足も、確実に動きが鈍くなっている。意思に反して腕が動かなくなるのは時間の問題だろう。ミケは微塵も諦める気は無かったが、心臓も筋肉も悲鳴を上げていた。

 決まった結末であった。ミケの体は動きを止めた。限界なんてとっくに超えていて、溶けた八雲と同じようにピタリと硬直した。白い渦に吸引によって体制が崩れ始める。無念のあまり涙がこぼれそうになった。歯を食いしばって、また泳ぐために手を伸ばした。その手が水をかくことは無かった。

 せっかく近くまで来ることができた黒い渦が遠くなる。

 できればまた呼んで欲しかった。もう一度チャンスをくれれば、今度こそなんて呼んでくれたのか聞き取ったのに。

 白い渦に飲み込まれる直前、黒い渦から真っ黒な手が伸びてきて、ミケの手を掴んだ。

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