第2話
朝、彼を起こしたのは雇い主の武田ではなく、猫の鳴き声だった。
ゆっくりと瞬きをして、なんだか生暖かい息と鳴き声が自分に浴びせられているのを自覚すると、横を向いた。ぼやけた視界に黒い毛の塊が映り、それが黒猫だと理解するのに時間がかかった。
猫は囁くようにミケの耳元でにゃあにゃあと鳴いていた。別段ミケの住処に動物が侵入するのは珍しくない。セキュリティなんて無いに等しいのだから、入るのも出るのも自由だ。
まだ眠かったミケは侵入者を手で追い払おうとする。黒猫はひらりひらりと身軽に避けた。眠れればいいので追撃する必要はないと、瞼を閉じた。すると、また黒猫は耳元によってきて囁いた。
「……五月蠅いっての」
ぼやき、耳を塞ぐために枕代わりにしている布を頭に押しつけた。完全に聞こえなくなったわけでないが、眠るには十分だった。
うとうとし始めると、首筋に鋭い痛みを感じた。驚いて布をはね除けて飛び起きる。犯人はなんとなく分かっている。黒猫をにらみ付けると、自白するように前足でひっかく動作をしていた。布の隙間から手を伸ばし、首筋を引っ掻いてきたらしい。
「なんなんだよお前は……」
寝起きで怒る元気はなかった。
黒猫はミケが再び寝ないことを確認しているのか、じっと見つめてきた。なんだか動物ではないようで気味が悪くなってきたが、目をそらすのは気が引けた。猫ごときに見つめられてどぎまぎしているなんてかっこ悪いし、相手にも思われたくない。
「にゃあ」
一声鳴くと、黒猫は住処から出て行った。あれほどしつこかったのに、あっさり出て行ったのは拍子抜けだった。
流石にもう寝る気分じゃない。今日の予定はなんだっけ?
「あ、そうだ。働きに行くんだった」
寝る前は楽しみにしていたのに、朝起きればすっかり忘れていた。
寝坊しているかもしれない。焦ったミケは急いで住処から出て、公園に設置されている時計で時間を確認する。大丈夫だ、仕事場所の距離を考えてもまだまだ間に合う。なんだ、焦って損した。
もしかして、あの不思議な黒猫は寝過ごさないように起こしてくれたのではないのかと考えた。
「ははっ、まさかな」
そう否定したが、気になって軽く辺りを探した。けれど黒猫の姿はどこにもなかった。早起きのホームレス達に聞いてみても、黒猫なんて見ていないと口を揃えて言った。寝ぼけてみた幻だったのかもしれない。でもまだ首の辺りはひりひりしていた。
黒猫をいつまでも探しているわけにはいかない。ミケは仕事場に走って向かった。その背中を、茂みの陰で二つのアーモンド状の目が見つめていた。
「八雲さんに言われて面倒みたけど、お前、なんで急に働くことにしたんだ。そんな柄じゃ無いだろ」
「いままでも働いてはいたよ」
「こんな商売じみたことはしたことなかったろ」
武田の商売は朝は早い。本格的な商売の準備をするためだ。朝の慌ただしい時間に捨てられていた真新しい雑誌を回収、選別をする。集めた雑誌は帰宅ラッシュに売る。武田の話では意外と売れるらしい。その日に出た雑誌などが半額以下で売られていると、浮浪者が売っていても買う人間が少なくないという。いくら半額以下でも、元手が無料ならば儲けになる。
雑誌集めに一段落ついた二人は休憩をしていた。忙しそうに左右に行き来している人々を眺めていると、手が届きそうな距離なのに違う世界に生きているようだった。彼らと自分たちでは、根本的に時間の流れが違うのだ。
「金が欲しくなったの」
「金なんてみんな欲しいだろ」
「そうなの?」
「大なり小なり、そいつによって欲しがる量は違うがみんな金が欲しいんだ。なきゃ生きられないからな」
「武田さんはどんくらい欲しいんだよ。こんなことしてるんだから、この生活から抜け出せるくらい?」
「身の丈にあったくらい」
抽象的な表現は好きじゃない。会話しているくせに、自分だけ納得した答えを返されるのは無視されているみたいで嫌いだ。
「ちゃんと答えてよ」
「旨いもんを食いたいなって思った時に食えるくらいの金があればそれでいい」
「ああ、それで」
言葉は続けず、チラリと武田の腹を見た。ホームレスに太っていない人間がいないわけではないが、それでも武田の腹は膨れていた。少なくともミケが知る限り一番でかい。格好が小綺麗なのは、飲食店に入りやすくするためなのか。
約一週間前に行った宴会でも一人で全ての酒と料理を食い尽くす勢いで食べていた。流石に皆に止められたが、それが無かったら酔った勢いでそこらに生えた草も食べはじめたのではないか。
「で? お前はなんで金が欲しくなったんだ。それこそお前はその日食えればいいと思ってるタイプだろ。多くは持たず、それこそ猫みたいに昼寝してる方が多いんじゃないか」
「そんなに寝てねえ」
「正直、朝は来ないんじゃないかと諦めてたぞ」
「そんなに寝てる? 俺って」
「ま、周りに迷惑かけなきゃああだこうだ言うことじゃないからどうでもいい。教えてくれよ、なんで金が欲しくなった」
それは勿論、と言いかけたがやっぱりやめた。いざ口に出すと恥ずかしく感じた。らしくないな、なんて笑われると羞恥に顔を歪める自分を想像できた。からかわれるのも好きじゃない。名前いじりだけで十分だ。
「……八雲さんに貯金しろと言われたから」
間違ってはいない。金を使うためには貯金をしなくてはいけない。
「ほう、貯金ねえ。まああの人らしいな」
「真面目だよな。こんな生活してる奴に貯金しろなんて」
「そうじゃない。お前にそんなことをいうのが、あの人らしいってことだよ」
「?」
「お前くらいにしか言わねえんだよ。いいか、貯金しろっていうのはお前にその癖をつけさせたいんだ。お前最近輪にかけてぐうたらな生活してたろ。心配してたんだよ八雲さんは。だから機会を見つけたお前に貯金して、将来を考える力をつけさせたいんだよ。貯金ってのは将来のためにするもんだからな」
なんのために。ミケは首を傾げる。ミケも将来のことはしっかり考えていた。明日何をしようだって、立派な将来設計だ。
「これは俺の想像だが、八雲さんはお前に、いつまでもこんな生活してほしくないんじゃないか? 俺たちはしょうがなく、もしくは好きでホームレスなんてやっているが、お前は違う。若いし、なにより特殊な人間だ」
「え、そうなの?」
「お前はお前のせいでホームレスになったわけじゃないだろ。環境のせいだ。ならお前が力をつければ脱出できるかもな。それに、お前には才能がある」
武田は懐からライターを取り出した。オイルが少ないのか、それとも古いせいか。回転式のヤスリを回しても火花しか散らなかった。
ミケは反射的にイメージする。応えるように、ライターは火を灯した。
「人生の裏技だな。その才能を上手く使えば、金なんていくらでも稼げる。人間って奴は、火に惹かれ火を恐れる。裏方から表舞台まで、お前が活躍できる可能性はある」
「そうかな?」
生まれてから当たり前にできたことを褒められても、あまりピンとこない。
「いつの時代も、才能があってもいかせない奴は罪だな。ま、生かし方なんてそれぞれだけどよ」
ライターの火を消し、ミケに渡してきた。ミケがいないと使えないなら必要ない、使える奴にやると言った。火種がないと力が使えないミケとしては嬉しい申し出だったので、ズボンのポケットに仕舞った。
「八雲さん、そんなこと考えてたんだ」
「俺の想像だって言ったろ。でもあの人の立場と態度を見ればなあ。お前は息子と変わらないだろうし、明らかに他の奴を見る目と違う。ありゃ親父の目だよ」
八雲立場はミケの中でも父親に位置していたが、それでも他の人間から親子みたいだと言われると照れくさかったし、嬉しかった。
じゃあもっと頑張らなきゃ。
そこまで父親が想っていてくれるのなら、なおさら貯金しなくちてはなとやる気が出た。
「なあ武田さん、これ以外に仕事ないの?」
「なんだ、どうしたんだやる気だして」
「俺、もっと稼ぎたい。早く貯金しなきゃ」
「なんだよ早く貯金しなきゃって」
武田は笑いながら、薄汚れた手帳を取り出して確認した。武田は仕事を色々としていて、中には知り合いから受け持ったものもあるらしい。そんなにまめにしているなら、ホームレスになんてならないのではないか。一度聞いてみたが、権利だと法律だかが面倒になったと説明されて意味が分からなかった。武田はお前は意味が分からなくていい、なんて笑っていたが少しだけ不満だった。
「お、これなら……だめだ、先客ありだ」
「先客って?」
気になり手帳をのぞき込もうとする。
「コラ! 個人情報だ、勝手に見るな。いや、お前は字読めないから別に大丈夫か」
「失礼だな。字くらい読めるし」
と言っても、ひらがな程度だが。
「じゃあだめだだめだ」
「いいじゃん別に。どうせたいしたこと書いてないんだろ。仕事の紹介なら、人の名前とかでしょ」
「馬鹿野郎。名前だって立派な情報だ。漏らしたら信用に関わる。特にお前はだめだ」
「なんで? 俺の口は堅いぜ。がっちがち」
「そういう奴ほど信用できねえよ……見られるだけで困る」
武田は小声で言った。
「とにかく仕事があればちゃんと教える。今は目の前の仕事をしてくれ」
ぱたんと手帳を閉じてしまい込んだ。ミケはケチと罵り口を尖らせる。実は中身が少し見えたのだが、やはり漢字ばかりでまったく読めなかった。中にはミケがよく知る名前が書いてあったのだが、気づくことはなかった。
とりあえずやることをしっかりやらねば次に繋がらない。
気合いを入れたのだが、やはり慣れてないことは難しい。なので難しいことは考えず、指示に従うことにした。雑誌の販売でどうしたらいいか分からなかったから、武田に言われたとおり人が興味を持てる行動をした。だが、火の玉を提灯かライト代わりにゆらゆら動かしていたら駅員に怒られた。武田にも怒られたが、ちゃんと給料をくれたので(少なかったが)文句は無かった。
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