辿り着くべき終着点

東谷 英雄

第1話

「お前さあ、英語でキュウリはなんて言うか知ってる?」

 犬養は藪から棒に言った。いきなりの質問、それでいて今までしていた会話とまったく脈絡がないので彼はきょとんとしたが、素直に知らないと答えた。

「キューカンバーって言うらしいんだよ。もしくはキューカンヴァか」

「それがどうかしたのかよ」

「似てないか。カンバーカンバー、カンパー、カッパー、河童。キュウリが好物になってる河童と似てる」

 それが一体どうしたというのか。ギャグを言いたいだけにしても唐突すぎる。

「出来すぎてないか。河童と好物の名前が似てるなんて。しかも日本語と日本語なら分かる。日本語と英語だ」

「犬養さんさ、さっきから何が言いたいんだ? さっぱり分からねえよ」

「俺はな、思ったんだよ。河童と言えば有名な妖怪だ。だけど河童って名前は、わりと最近できたんじゃねえかなってよ。昔からある伝統的な名前ですよって顔してるくせに、実は歴史が浅いんじゃねえか。河童を指す言葉は他にあったけど、英語が日本に入ってきて、たまたま似てると思った奴が面白半分でつけた名前が浸透してしまった。とかよ」

 世紀の発見をしたと言わんばかりの熱量だったが、彼にしてみればピンと来ないし、心底どうでもよかった。しいて言うならば、季節でもないのにキュウリを食べたくなったくらいだ。

 あまりの感触のなさに犬養は口をとがらせた。

「なんだよ。すごい発見したかもしれないじゃないか。これは将来、河童の語源の俗説の一つになるかもしれないんだぞ」

「だからどうしたっていうんだよ。犬養さんの言ったことが、今言った通りになったとしてどうなる? 腹は膨れる? 夜は寒さで目が覚めなくなる? 今がどうにかならないなら、俺は興味ないよ」

 彼の態度はどこか冷たいものだったが、犬養が急な思いつきを長々と人に聞かせることは毎度のことだった。少なくとも一日に一回、多くて数回だ。つまりどれほど内容が素晴らしかろうが、彼はもう飽き飽きしていた。軽くあしらうだけでも、構ってやるだけ温情なのだ。

 彼の勘弁してくれというため息と、犬養のつまらない反応を嘆いたため息が、たまたま重なった。

「お前は若いんだし、それに猫みたいな名前してるんだから、もっといろんなことに興味もてよ。人生つまんなくなるぞ」

「それ、大きなお世話って言うんだろ、知ってるぞ。それにちゃんとした歳なんて分かんないだから、若いかなんて分からないじゃん」

「確実に俺よか若いよ、お前は」

 さっきまで飲んでいて、既に空になった空き缶を潰して袋に入れた。とっくに使命を終え、ゴミとなったものでも彼らには価値がある。塵もつもればなんとやら、やらないよりまし。口々に彼らは言うが、食い扶持を稼ぐという行為の他にも意味があるのかもしれない。この世界を生きていくには、食欲なんかを怠惰的に満たすだけでは物足りない。何かをなしているという事実が無ければ生きづらい。

 いくらの価値になるか、多少の期待ができる重さになった空き缶の詰まった袋を抱えて、犬養は立ち上がった。彼もそれに続く。がらりと耳元で鳴る、空き缶の擦れる音が耳障りだったが、肩に担ぐのが一番楽なのだから仕方が無い。

「意味ある言葉なんて、実はほとんどないんじゃないか。俺らが拡大解釈して大層な意味があると思い込んでいるだけだったりして」

 並んで歩いているので、動きに併せて動く空き缶の騒音が二重になってやかましい。彼の耳に入ってくるはずであった音達を阻害していたが、犬養の一言だけすんなりと聞き取れた。

 自分にとっての世紀の発見だったが、他人には理解されなかった。そのため自分でも興味がそがれたのだろう。犬養は口を尖らせていた。

「じゃあ俺の名前なんて、一番意味無さそうじゃん」

「そうか? 俺は悪くないと思うぜ。ミケ」

 ミケ、それが彼の名前。まるで猫みたいな名前。由来は定かではないが、捨てられて猫みたいに段ボールに押し込められていた赤ん坊だったから、と誰かに言われた。ミケ本人がこの名前を気に入っているわけではないが、周りの人間がそうとしか呼ばないので諦めていた。いや、諦めているのは方便で、改名のチャンスは伺っている。

 名付けられた理由も適当なのだから、それこそ名前の意味を深く考えるのが馬鹿らしい。河童よりも名前に重みが無いじゃないか。そう思えば余計にこの名前が嫌になった。

 印象を変えるために、捨てられていた染め粉を使って髪を金髪にしたが、綺麗に染まらなかったうえに時間の経過と共に色がまばらになってしまった。ミケであった自分を変えるためにした行動だったが、髪の色が二色か、三色になったことで余計にミケ猫みたいになってしまった。こんなことならしなければ良かった。後悔してもすぐには髪の色は変わってくれない。

 それにミケ猫はほとんどが雌らしいじゃないか。年齢は分からないが、ミケは確実に男である。男のくせに雌猫の名前なんてオカマみたいだな、と謂れのない暴言も飽き飽きしていた。

「じゃあ取り替えっこしてよ」

「嫌だよ」

 ああ、今日も改名できなかった。

 自分で名前を変えるだけじゃ意味がないのだ。証拠が、証言が、こいつの名前は○○だと言ってくれる人が必要なんだ。だけど仲間達は、昔ながらのミケという名前を気に入っており協力してくれない。なのにいじってくるものだから質が悪い。


 二束三文に姿を変え、軽くなった空き缶だったものをポケットに突っ込み、住処である集落へ帰った。

 まるで荒野のゲリラ部隊、はたまた住処を追われた難民の集団のような風貌の人々が、あまり広くない範囲で固まって生活している。ここは規模の大きな公園。その一部に各々が勝手に作り上げた粗末な住処で、勝手に住み着いてた。

 彼らは世にいうホームレスだ。のっぴきならない事情を胸に秘め、現代社会の枠組みから外れた者達。類は友を呼ぶのか、それともやはりどこかでは人肌が恋しいのか、とある老人が最初に住み着いてから、徐々に人が増え、小さな集落になっていった。公園を管理する立場の人間からは毛嫌いされているが、ホームレスに優しくしたい団体のおかげで今の生活が保たれていた。

 辺りは既に暗くなり始めてた。犬養はさっさと段ボールで雑にくみ上げられた寝床に潜り込んだ。ミケも疲れていたのでもう寝ようかと思ったが、集落の中心がほんの少し明るくなっているのが気になり、虫のようにふらふらと惹かれていった。

「八雲さん」

「ああ、ミケ。おかえり」

 彼が最初に住み着いた老人、八雲であった。まるでサンタクロースの如く、立派な白い髭を生やしている彼は貫禄があり、性格もおおらかな彼は皆から慕われ頼りにされていた。

 いつも羽織っているくたびれたコートも彼のトレードマークだった。若い頃に買ったもので、今もお気に入りなのだそうだ。

 八雲は一斗缶に木の枝や燃やせる廃材を入れ、焚き火をしようとしていた。寒いからか、それとも何かしらの料理をしようとしているのかは分からないが、火のつきが悪く、どちらの用途にも使えそうになかった。一応火はついているようだが弱々しいのは、中身が湿気っているのかもしれない。

「手伝おうか」

「すまない。頼めるかな」

 近場にあったビールケースを椅子にして、八雲と向かいあうようにして座った。

 弱々しい赤色の筋が入った一斗缶の中身に手をかざす。距離は決して近くはない。熱すら感じない距離だ。今からすることに、意識を集中させたり、特別な儀式は必要ない。ただやるべきことを念じればいい。必要なのはイメージと、火種だ。

 手をかざして数秒もたたないうちに、まともな火すら出ていなかった枝や廃材から、揺らめく炎をが暴れ出た。一瞬だけ火柱が立ち、すぐさまちょうど良い火力になった。八雲はこの状況はまったく驚くことなく、火を維持するための燃料をくべた。

「ありがとう。助かった」

「どういたしまして」

「ほら」

 八雲は足下に置いてあったいくつかの缶ビールの一つを、ミケに手渡した。

「お礼だ」

 ビールは好んで飲むわけではないが、貰えるのなら遠慮無くいただく。感謝の言葉を告げてから、早速口をつけた。とっくにぬるくなった苦みが喉を通り過ぎる。

 ミケには生まれ持った才能があった。所謂超能力といえる力で、誰かはパイロキネシスだと言っていた。彼は火種さえあれば火を大きくすることも、小さくすることもできた。火が点っている物に直接つけることもなく、対象に移すこともできた。他にもやろうと思えば出来るのかもしれないが、日常生活に必要ないことなので、試すことはなかった。

 ミケはこの力を仙人のような人から与えられたとか、落ちていた不思議な石を拾ったとか、そんな特別なことを経験して得たわけではない。物心つく前からできたことなのだ。物を掴んで持ち上げることを教わらなくても出来るように、彼にとっても火を操ることは出来て当たり前のことだった。未だにどうやっているのか、やり方を教えてくれないかと聞かれることがある。その度にミケは困った。教えるも何も、自分にとって出来て当然のことをどう教えればいいのだろうと。もう数十年もそんなやりとりをしているが、未だに良い返し方が思いつかない。

「今日はなにをした?」

 一斗缶の中身を枝で突きながら、八雲が言った。

「いつも通り。街をぷらぷらして、空き缶拾った」

「いくらになった?」

「三百円ちょっと」

「そうか」

 最近はホームレスに向けての炊き出しが頻繁に行われる。一日の食事とみれば足りないが、あるとないとでは大きな違いがある。定期的に与えられる食事は彼らに余裕を与え、前ほど食費に神経を尖らせる必要はないと思う者も増えた。

「金はちゃんと貯めているのか」

「なんだっけそれ。貯金だっけ。よく分かんないけど、そういうの俺らが一番縁がないんじゃないの?」

 貯金をしない、というよりできないその日暮らし。中には働いて金を稼いでいるホームレスもいるそうだが、それこそミケには縁の無い話だった。先のことなど考えていない、起きて寝るまでの間、どう生きるかだけの人生設計。彼にはホームレスの暮らし以外は考えられない。今の生活が始まりで、終わりだった。

「いつまでも今の生活が続くと思わないほうがいい。今は気まぐれで炊き出しが行われているが、いつ止められるか分からない」

「だから金を貯めろってこと?」

「人間は、一度当たり前だと思い込んでしまうと、中々元には戻れない。急に取り上げられたら混乱するからな。徐々に体を昔の生活に戻すのには時間がかかる。時間がかかれば金もかかるのだよ」

「ふーん。分かった、俺貯金する」

「なら仕事らしい仕事で稼いでみたらどうだ。働けば金のありがたみも分かるだろう。武田の雑誌売りを手伝うといい。良ければ私から言っておこう。分け前は少ないが、いきなり経験無しでやるよりはいいだろう。勉強料、と言うやつだ」

 ホームレスの中には出版社と契約して、雑誌を販売している者も居る。そういう、ホームレス専門の部署があるらしい。だが武田は契約はしていない。彼の売り物の雑誌は、駅のゴミ箱に捨てられている物だ。一回読んだだけで捨てる者は少なくない。状態も綺麗なので、上手くやれば案外売れるのだ。

「分かった」

 いつだって暇だ。よほど嫌なことじゃなければ大体引き受ける。八雲の提案なら尚更だ。

 八雲から武田が働きだす時間、場所を教えて貰った。聞き逃さないよう、忘れてしまわないように、八雲が言った直後に繰り返して発音して覚え込んだ。

「ミケ、お前は素直な子に成長したな」

「なんだよ、急に」

 八雲が優しげな視線をよこしてきた。そんな目で見られると、なんだか気恥ずかしくてミケは自然と顔を背けた。視線を空になったビール缶にやって、ぺこぺこと軽く潰した。

「いやな、火を囲んでお前と喋っていると、どうも昔を思い出してな。本当に大きくなった。私たちみたいなのが赤ん坊のお前を、ここまで育てることができたのは奇跡だよ」

 廃材を投げ入れると火の粉が暗闇に舞い、飲み込まれていった。その一瞬一瞬だけの光を眺めながら、ミケは過去を追想する。記憶力はいいほうなので物心がついた頃ならそこそこ思い出せる。流石に赤ん坊のころは無理だが。

 ミケと名付けられた人間は生まれながらの家なきホームレスであった。家を持たず、家族を持たない小さな赤ん坊は公園に放置され、八雲に発見された。創作物でよく見るような『可愛がってください』なんてメモすらない、なんなら柔らかい布で巻かれてもいない、彼を納めるベッドもない。ないないだらけの彼は唯一持ち合わせていた段ボールに収まり、泣きわめいていた。八雲は何かを考える前に赤ん坊を抱き上げた。とりあえず抱き上げなければ怪我をしてしまいそうだったからだ。次にどうするか考えた。この時に面倒を見ようとは思わず、すぐに交番に届けた。家なしの自分より、確実に良くしてくれると判断した。

 数日後、あの赤ん坊が孤児を育てる施設に入っていたのだと、八雲は知る。何故知ったかというと、赤ん坊を突っ返されたからだ。わざわざホームレスの八雲を探し出して、第一発見者なのだから返却すると言って無理矢理渡してきた。原因はミケにある。ミケが生まれつき持っていた才能により、施設が火事になったそうだ。にわかには信じられなかったが、こんな小さな子供に近くで火を起こしたのか、という質問すら出来ないほどの剣幕だったそうな。だからといって、自分ではどうすることもできない。八雲は再び交番へ届けた。結果は同じだった。

 二度あることは三度ある。八雲は諦め、かといって捨てることはできず、どうにか育てる決心をした。八雲は家庭を持ったことは無かったので、仲間のホームレスから助力をしてもらいながらなんとかミケを育てた。ミケにとって、親を思い浮かべるとしたら最初に八雲の顔が出てくるが、他にも親と呼べる人間はいた。今も近くに何人か居る。

 成長し物心がつくと、いろんなことを教わった。簡単な計算や言葉は勿論、生きることへの知識が中心だった。どうやって食べていくか、どうやって暑さや寒さを耐えるのか、生きていくうえでなにが必要なのか。どれも重要だったが、特に印象深かったのは力の使い方だった。どんな状況なら使って良いのか、むしろ積極的に使うべきタイミングは、何に気をつければいいのか。周りの大人は厳しく、そして慎重に教えてくれた。今思えば自分たちにも被害がくるから真剣に教えてくれたのだと分かるが、ある意味では一緒に居たいから危険なことをしないように教えてくれたんだと思えた。少なくとも、八雲はそう思ってくれているはずだ。

 飢えたり、気温で苦しんだり、同世代の遊び相手がいなかったり、社会的に好意的に見られなかったりしたが、過去を思い出しても辛いことよりも笑えることの方が多かった。

「本当に大きくなったな」

 過去を懐かしむように遠い目をする八雲の言葉は、漏れ出る空気みたいだった。ミケはそんな八雲の姿に眉をひそめた。

「そんな年寄り臭いこと言わないでよ」

「そうか? 年寄り臭かったか?」

「ああ、すごくね。老けて見えた」

 笑わせるために、わざとらしくしゃがれた声を出した。

 自分の言葉を否定して欲しかった。まだそんな歳じゃないと。八雲に老人の雰囲気をまとってほしく無かったからだ。

「だけど、実際にじじいだからなあ」

 少し寂しそうに、力なく笑う育ての親を見て、ミケは眉毛をハの字に曲げた。

「お前を見つけた時は既におっさんとも言えない歳だったんだから、もう十分じじいだよ。時間は確実に経過している。お前が成長すれば、私が老いるのは当然だ」

 淡々と語る内容が事実はとはいえ、そうだね、なんて返したくはなかった。八雲のこういった話は聞いていると頭の隅がぞわぞわしてきて、とても嫌な気持ちになる。

 火を見つめる目の輪郭が、なんだかぼやけて見えた。八雲が老いを認める言葉を吐くほど、一緒に命を支えるモノが出てしまっているような錯覚を覚える。

「でもまだまだ元気じゃん。元気なじじいだよ」

 だから大丈夫、と言いたかった。けれど言ってしまえば、言葉の裏に隠された意味を肯定してしまいそうで怖かった。一体何が大丈夫なんだ、馬鹿じゃないのか。失言しかけた自分を叱った。

「元気なじじい、元気なじじいか。そうだな」

 気に入ったのか反芻させてから、にっこりと微笑んだ。

「そうそう、元気なじじいでいてくれよ」

 じゃなきゃ寂しいじゃないか。 

「こんな生き方をしているのに、そう言ってくれる人が側にいてくれるんだ。弱気なことは言ってられないよな」

 八雲は腕を曲げて力こぶを作った。細くて頼りなく、こぶが出来てるとは言えなかったが、そうしてくれるだけでも嬉しかった。

「さあ、もう日は落ちて暗くなった。もうやることはないのだろう。早く寝た方がいい。腹が減るぞ」

「分かったよ。八雲さんもな」

「私はもう少し火を見ているよ。好きなんだ、火を見るのが」

「すげえ分かる、それ」

 火を操れる才能を持って生まれた故か、ミケは物が燃えている光景を眺めるのが好きだった。赤やオレンジの光がなまめかしく揺れ、パチパチと小気味いい音はいつまでも飽きがこない。この現代、この街で火を起こすのは難しいのでチャンスがあれば逃さなかった。今だってまだまだ眺めていたいが、八雲に言われてしまったのだからしょうがない。名残惜しいが寝床に向かった。手で遊んでいた空き缶は公園に設置されているゴミ箱に放り込んだ。

 ミケの寝床、つまりは住処は他の者と同じで段ボールとブルーシートを組み合わせて作られていた。縦長で広さはぎりぎり足を伸ばせるくらい。調理器具の類いは仲間から借りるので持っていない。着替えはあるが数は少ない。まさしく寝るために帰ってくる場所だった。

 段ボールの感触を緩和してくれない布団らしき物の上に寝転んだ。言われたとおりさっさと寝るために目を閉じたが、早く寝ようと意識すればするほど色々と考えてしまう。

 さっきはあんなことを言ったが、やはり意識してしまう。年々、いや日に日に八雲は老いていくのを。ミケは八雲を始めとしたホームレス仲間から知識を与えられてはいるが、どちらかと言えば世間知らずだった。社会に生きておらず、さしても興味がないのだから当然か。それでも、人間が老いていった先に起こる出来事は、ちゃんと理解していた。そのことを考えてしまうと頭の隅のぞわぞわは全身を駆け巡った。

 人が死ぬのは知っているし、見たこともある。

 道路で人が轢かれて死んだ。急に胸を押さえて倒れて死んだ。そういえばあいつ起きてこないなと様子見に行ったら死んでた。決して死から遠い人生ではなかった。どんな命が散っても、『ああ、あいつは運が悪かったんだな』とは思うが、悲しむまではいかない。博愛の心など持ち合わせていなかったが、近しい人間の死は考えるだけで嫌だ。距離が近ければ近いほど、寂しさに襲われる。

 あまり考えたくはないが、いつか八雲と別れる日がくるのだろう。その時、自分はどうなるのか。


どうなるのか、ではなく、どうしたいか。


 考えがまとまらなくて瞼を開いた。目が慣れて、暗闇の中で微かに見える天井を見つめる。八雲の顔が見えた気がした。先ほどの微笑んだ顔だ。

 人との別れは、よほど嫌っていなければ悲しいものだ。最後はどうしても悲しいのなら、せめてそれまでは楽しくいたい。

 ならばどうしたらいいのだろう。八雲のために何をしてやればいいのか。


 人を喜ばせるのなら、それなりの準備がいる。


 姿勢を変えると、ポケットから硬貨が擦れる音がした。中には今日稼いだ三百円がある。そういえばどこかにまだ蓄えがあったはずだ。なんだ、俺貯金できてんじゃん。

 唐突に閃いた。働いて金を貯めて、それで何かを買ってやれば喜んでくれるんじゃないかと。プレゼントは親孝行の基本だと、誰かが言っていた。詰まれば出ないが、解消されればダムの放水の如くどんどんアイディアが広がっていった。これがあれば便利だ、それとも利便性より単純に嗜好品のほうがいいか。

 ちょうどよく、明日は働くことにしている。働けば金が手に入る。すぐに求める金額は手に入らないだろうが、そこは貯金すればいい。

 早く明日にならないかな。さっきまで悩んで眠れなかったミケだったが、今度はわくわくして眠れなくなった。


 明日が楽しみだ。


 ああ、楽しみだ。


 *



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