第4話

 ミケが感じたのは胸の苦しさだった。なにやら嫌な夢を見ていた気がするが、だからといって現実でも息苦しさを感じるのは理不尽ではないか。原因を確かめるために、重い瞼を無理矢理開けた。

 胸の上で猫が寝ていた。しかも黒猫。こちらに顔を向けて、静かに呼吸をしている。

「うわあ、縁起悪いな」

 黒猫は縁起が悪いと八雲に教わったことがある。それが一日の始まりに見てしまっては、気分が落ち込むというもの。あれ、今は朝か。それとも昼寝をしていたんだったか。

「目覚めの挨拶にしては失礼ね」

 眠っていた黒猫が目を開けて言った。

「だってお前ら縁起悪いって聞いたぜ。それが起きてすぐ目の前にいたら萎えるだろ」

「起きてすぐ縁起悪いなんて言われた方も萎えるわよ」

「うるっさいな。降りろよ、苦しいだろ」

「体重には気をつけてるつもりだけど?」

 心外だわ、と黒猫は鼻を鳴らす。

「胸の上に猫が乗ってたら、どんなに軽かろうが苦しいわ」

 いつまでも降りない黒猫を手を使ってどかした。持ってみると確かに軽かったが、居なくなると胸がすっとする。猫を持ったまま、起き上がりあぐらをかいて座った。猫は適当に地面に置く。

 寝起きはこれをしなくてはと、黒猫は前足を舐めて顔を洗う仕草をした。

「え、お前今喋った?」

「喋るわよ」

 当然と言わんばかりに返してきた。

「猫って喋るの?」

「喋りたかったら喋るわよ」

「そういうもん?」

「そういうもん」

 あ、これはまだ夢を見ているな。だって猫喋ってるし、なんなら知らないところ居るし。

 ミケが居たのは寝床のある公園ではなかった。周りを見渡して見えるのは木ばかりで、見慣れた時計やベンチ、ホームレス達の住処はどこにも無かった。公園にも人工的に植えられた植物はあったが、生えている木は背丈が高く、生えている草や花は自ら茂っためにバランスなんてものはない。自然にできた森、もしくは林だ。空気や匂いも、ミケが住んでいた公園ではないこと、それどころか街ですらないのを教えてくれた。

「なあ猫」

「呼び捨て?」

「名前あるの?」

 黒猫は前足を顎に当て、人間の考える仕草を真似した。

「そうねえ。私のことはクロって呼んで」

 いくらなんでも見た目のまますぎないか。つっこみを入れたくなったが、面倒になりそうだったので止めた。

「それでクロ」

「なあに」

「……呼び捨てでいいの?」

「人によるけど、貴方ならいいわ」

「あっそう。なあクロ、これって夢?」

「どっちの夢かしら」

 自分か、ミケか。クロは尻尾で自分を指してから、次にミケを指した。ミケは親指を自分に向けた。

「勿論俺のだよ。俺は夢見てるのか? 起きたと思ったらまた夢みたことあるけど、それに似ている。猫が喋ってるし、見たことがない場所にいる。夢ではなんでもありだ。動物が喋るのも、知らない場所にいるのも夢なら納得だし」

 もっと混乱してもいいはずだが、ミケは冷静に質問した。起きる前に見ていた悪夢のせいかもしれない。内容は覚えていないし、思い出したくもないがこれが夢なら、状況は大分ましだ。

「難しい質問ね」

「そうなの?」

「そうよ。夢と現実の区別なんて難しすぎて投げ出したくなるわ。あなた、えっと、名前は?」

「ミケだけど」

 あまり名乗りたくないが、どうせ夢だ。名前替えに躍起になる必要はないだろう。

「ぷ、ぷぷぷ! なにそれ猫みたな名前!」

 クロは地面を叩きながら爆笑した。

「お前に言われたくねえよ。笑うな、笑うな! 見た目も猫だし、名前も猫っぽいお前には笑われたくねえ!」

「ふふ、まあいいわ。くく、ねえミケ、ははミケだって」

「いい加減叩くぞ」

「ひひ、ごめんなさいね。さて、ミケ。貴方は今起きてる?」

「起きてるに決まってるだろ。さっき起きたんだから」

「あら本当? 今夢みてるんじゃないかって疑ってたんじゃあないかしら」

「あ、そうだった」

 迂闊な返答をしてしまった。クロがまた笑ってくるんじゃないかと身構えたが、そんなことはなかった。

「起きていれば現実、寝ていれば夢。でも夢を見ている時は自分が起きてるか、それとも寝ているか考える? それこそ今が現実と思って行動しているんじゃない? そんな力ないのに空を飛ぼうが、人を殺そうが、人に殺されようが、高いところから落ちてタマヒュンしようが全部現実。起きて、ああ夢だ、って知覚するまで夢は現実であり続ける」

「つまり?」

「起きてみるまで分からない。今貴方の目覚めが現実の覚醒か、夢の中での夢遊かなんて貴方が決めつけなきゃ線引きなんてできないの。まあ明晰夢っていう、夢だと自覚できる人、もしくはその技術を得ている人がいるそうだけどね。その人達は夢を自由にできる。でもどうなのかしら。例えば、飛べない人間が居たとして夢の中なら飛べるはずだと思い飛べたとする。けれど本当は元から飛べる能力を有しているのかもしれない。彼が現実と思い込んでいるほうが夢で、夢の中では飛ぶ能力を有していないのなら? 現実を夢と思い込んでいるのなら?」

「ちょっと、ちょっと待って。こんがらがってきた。つまり今俺は起きてるの? 寝ているの?」

「さあね」

 クロは意地悪そうに口の端をつり上げた。

「貴方にとっての現実がどこにあるかなんて、私には分からない。貴方も分からないのなら、今を現実として精一杯生きるしかないわよ。貴方が決めるしかないの。目覚めるまでは現実であり、夢なんだから」

「なにそれ、わけわかんねえ。無駄に難しい話をされただけじゃん、俺」

「聞かれたから答えたのよ。勉強になった?」

「お前、人にもの教えるの向いてないよ」

「あはは、よく言われたわ」

 よく笑う猫だ。ただ彼女? が笑う度にミケは頭を抱えたくなる。

「貴方と喋るのは楽しいわ。私好きよ、貴方のこと」

「俺はお前苦手だ」

「あら、ふられちゃったわ。残念。でもまだ私とお話すべきよ。次は有益な情報だから」

 クロは空を仰いだ。ミケもつられる。木に茂る葉のせいで分かりづらかったが、空は暗くなり始めていた。雲の量が少ないことから、単純に夜を迎えようとしていた。

「もうすぐ夜になる。現実だろうが夢だろうが、この辺りで夜を迎えるのはおすすめしないわ。獣を寄せ付けない力が貴方にあれば問題ないのだけど」

 人間と喧嘩したことはないので、獣なんてもってのほか。だがミケには才能がある。実際に見せてやればこの生意気な猫もびっくりしてひっくり返るんじゃないか。ちょっとした悪戯心が芽生え、ポケットのライターを取り出そうとした。が、できなかった。なぜだが、好きなはずの火を当分見たいと思えないのだ。火をつけようと思うだけで、食道から胃の中身がこみ上げてきそうだった。

 今火をつけるのは無理だ。

「どうしたの? 顔色が悪いわ」

「なんでもない、大丈夫」

「うーん。これはやっぱり野営は無理ね」

 クロが立ち上がる。

「ついてきて。近くに村があるの。こんなとこに居るよりは安全だから。案内するわ」

「村? 街じゃなくて?」

「あることはあるけど、遠いわよ。村のほうがいいわ。まあ、村だったところ、と言うべきなんでしょうけど」

「?」

 含みのある言い方に首を捻っていると、どこかで聞いたことのない動物の遠吠えがした。どうやらクロの言うことは本当らしい。彼女の言うとおり体調が優れないので、言うことに甘えることにした。村という単語は聞いたことがなかったが、街と大差はなさそうだ。知らない場所で猫と二人きりよりは、人間の居る場所のほうが安心だ。


 クロの後を追って歩いていると、道らしき場所に出た。ミケの知る道とはアスファルトなどで舗装されている堅い道だったが、ここは土がむき出しだった。けれど公園にも似た通路はあったし、草が茂っている場所に比べれば遙かに歩きやすい。

「ここが貴方の知らない場所だって言ってたけど、ミケが住んでいた場所ってどんな所? 遠いの?」

 クロは歩きながら聞いてきた。

「どんな所って……人が多くて、五月蠅くて、なんか臭い場所だったよ。それに、たぶん遠いんじゃないか。雰囲気っていうのかな、全然違うし」

「よくそんな所に住めたわね」

「あれだよ、住めばなんとかってやつ」

「住めば都?」

「そうそれ。悪いところばっか最初に思いつくけど、いいこともあったよ。あそこには仲間がいる」

 犬養、武田、それに八雲。ホームレスの仲間達の顔が脳裏を過る。これが夢だろうが、現実だろうがどうでもいい。彼らの元に帰りたい。センチメンタルな気分になり、ため息をついた。

 決して寝心地がいいわけではなかったが、あんな住処でも離れてしまえば恋しいもの。体調も悪いし、すぐあそこで横になりたかった。

「ん、そういえば」

 住処で横になる姿をイメージしていたら、ミケは自分の住処に現れた黒猫を思い出した。あいつも睡眠の邪魔をしてきたのではなかったか。

 お前、俺の住処に居た奴か? 聞こうとしたが止めた。ミケの元に現れた黒猫ならば、自分もそこにいたのだから、どんな所に住んでいたかとは聞かないだろう。黒猫の違いなんてミケには分からない。生きていれば連続で黒猫にちょっかい出されることもあるはず。クロとあいつは違う個体だと決めつけた。

「どうかした?」

 反応しなくていいのに、律儀に歩きながら振り向いてきた。

「いや、別に。そうだ、お前はどうなんだよ。どこに住んでんの? この辺り? その村?」

「違うわよ、ここより遠い所。一応住処は持ってるんだけど、もう長いこと帰ってないわね。適当なところで寝てるわ」

「なんで帰らないんだよ」

「一人で暮らすには広いから。寂しいのよ」

「猫なら季節が来たら増えるだろ」

「失礼ね。そんな尻軽じゃないわ」

 口調は怒った様子だったが、声色は変わらなかった。



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