第一章3


     2



 一限の現国が終わり、休み時間になった。

 僕は昨日、結果的に無断で学校を欠席したはずなのだが、どうやらその辺りは、《星の涙》による都合のいい改変が影響したらしい。担任から突っ込まれることはなかった。

 それとなく遠野に訊ねてみたところ、「昨日も普通にいただろ」と実に胡乱げな表情で答えてくれたので、まあ欠席がつかなくてラッキーだったと思っておこう。


 とはいえ、二限の英語では油断できない。

 教科担当が毎回の授業で宿題を出し、次回の授業で適当に指名された生徒が答えることになっているからだ。

 昨日――火曜日も英語の授業はあったはずだから、順当に進んだであろう分の課題は今のうちに解いておこう。


 と、思っているのだけれど。


「なあ冬月。……そろそろ構ってやっちゃどうだ」

「……ああもう」


 小声で話しかけてくる遠野。僕は盛大な溜息をつかざるを得なかった。

 なんの話かといえば、答えは実に単純で。


 さきほどから、教室の外でずっとこちらを見ている下級生のことを遠野は言っている。


「――じ~……っ」


 恨みがましい視線がもう全身に刺さる刺さる。

 誰が見ても明らかに不機嫌とわかる双原灯火ちゃんが、扉の陰から僕を睨んでいた。


 その方向を見れば、視線がバッチリと合う。

 瞬間、灯火は自分の両手の人差し指を立てると、それを両のこめかみに合わせて立てるようなポーズを取った。

 ええと、鬼のポーズっていうことですかね……?


「ぷんすか!」


 しかもなんか言い始めちゃったよ。

 恥ずかしい。やめて。本当にやめて目立つでしょ……。


「ぷんすか!」


 教室まで入ってくることはせず、ただ扉の陰に隠れて(丸見え)何かしらの《わたしはとっても怒ってますっ!》オーラだけを飛ばしてくる灯火。

 実に厄介だった。


 が、僕も伊達や酔狂で氷点下とは呼ばれていない。

 可能なら呼ばれたくもないが、その件は今は措こう。


 ――結論から言って、無視が正解のはずだった。


 用件があるなら声をかけてくればいい。そうすれば僕だって無視はしない。忙しいから帰れと丁重に話してあげるつもりだ。

 なぜ遠巻きから存在感だけアピってくるのやら。


「ぷんすか!」


 喧しい。そんなことで僕が折れると思ったら大間違いだ。


「ぷんすか……」

「…………」

「ぷん……、うぅっ……せんぱいが、わたしを見捨てましたぁ……」

「…………」

「……ぐすっ」

「あああああああああああああ、もうっ!」


 いいよ。わかったよ。

 僕の負けだよ。

 行けばいいんだろ、行けば。

 教室中の空気が「うっわ氷点下男が後輩泣かせてる最低ゲス野郎キモ」みたいな感じになっちゃってるじゃん。

 これ、僕が悪いんですかね……。


 僕は立ち上がって教室を出て行く。そして扉の陰の灯火を見降ろした。

 果たして、灯火は言った。


「――き、奇遇ですね、伊織くんせんぱいっ!」


 この後輩、この期に及んでさも偶然でした感を演出してきやがった。


 僕はふうと息をつく。

 それから片手を伸ばすと、鬼の角を外した灯火のこめかみをがっと掴んで。


「こんな作為的な奇遇があって堪るか何が目的だ」

「ヘッドロック!? 離してくださいっ!」

「答えないなら徐々に絞めていくが」

「デッドロック!! 話をさせてくださいっ!!」

「お前、実は結構、余裕あるだろ……」


 僕も別に力を込めているわけではないけれど。

 はあ、と息をついて手を離し、僕は灯火に問い直す。


「なんの用だ? 話があるなら前みたいに入ってくればいいだろ……ったく」


 その瞬間、灯火はくわっと目を見開いて。


「なんの用だ、じゃないですよ伊織くんせんぱい! どういうことですか! 説明を要求します強く要求します解答があるまで放しませんからね覚悟の準備はいいですかっ!」

「長い」

「ああっヘッドロックやめてくださいっ! わたし、そんな覚悟してませんっ!!」

「元気だなお前は本当に……」

「ぜんぜん元気じゃないんですけどおっ!?」


 これで? これで元気じゃないの? まあいいけど……。

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