釣りガールと異世界のマグロ②

 あの日、北極の海上で意識を失って目覚めた時、ルカがいたのはこの小さな漁村に程近い浜辺だった。全身を防寒具で包み込んだまま、灼熱の太陽の下で脱水症状を起こしかけているところを村人に助けられた。

その翌日この漁村の村長と名乗る老人と引き合わされた。


村長は穏やかな雰囲気を纏った人だった。


村長はお穏やかな口調でルカを質問責めにしたが、ルカはそのどれにもまともに答えることができなかった。もしや記憶喪失なのかと疑われ始めたので慌てて否定した。

逆にルカの方からも質問をしたが、村長の口からはそんなものは知らぬ存ぜぬばかりで、東進丸の行方もわからない。


「ちょっと……外散歩してくる……」


 村長と共に村の中を見て回った。中世西洋の村そのもの。そして村人たちも西洋人の風貌がほとんどだが何故かルカの母国語を喋る。漁村だというわりには桟橋には古びた小舟が二、三あるのみで使われているようには見えない。

ルカは思わず桟橋から海の中を覗き込む。魚いるかな、と思ってしまったからだ。習性のようなものといえる。


「何この臭い……」


 海はとてつもない悪臭がしてルカは鼻を覆った。ヘドロの臭い。都市部の湾内の底をひっきかき回しても、ここまでの臭いはしない。

だがそんな海水の中を泳ぐ魚がいた。ルカはさらに身をのだり出してその正体を確かめようとする。


「それはな毒魚だ」


同行していた村長が言った。


「毒魚?」


「この付近の海にはもうこいつしかいない。今ではこの毒魚だけだ」


「毒魚って、どんな名前の魚なの?」


「あの魚の名前は知らん。元々ここにはいなかった魚だからな。それが十五年ほど前からこの港に大群で回遊してくるようになった。奴らはここにやってくると産卵の巣作りのために大量の糞をする。体内でたんまりため込んだ毒の混じった糞だ。たぶん、そうやって卵を守るんだろうな。それで港にいる魚や他の生物は皆死んでしまう。後に残るのが大量の生物の死骸と、糞の山のヘドロというわけだよ」


「ふぅん……」


「毒魚がやって来たのには原因があるんだ。元凶だな。ついておいで」


 たどり着いたのはボロボロになった倉庫のような場所だった。周囲の様子から、かつては漁業に使われていたのだろうとわかる。そんな倉庫の奥に鎮座していたのは巨大な骨だった。巨大な鯨のような骨格だが、頭には二本の鋭い角がある。


「これは鯨……? こんな骨格の鯨なんて、見たことがない」


「こいつは海の主とも言われていた。おそらく百年は生きていたはずだ。姿を現すことは稀だったが、ひとたびこいつが姿を現せば船を遅い、漁船に乗った者たちが何人も犠牲になったものだ」


「この村はどう見ても漁村なのに漁師が一人もいないのは、この鯨に襲われたからなのね」


しかし村長は首を振った。


「……いいや、逆だよ。海の主が死んでから、全てが変わってしまったんだ。十五年前にこの村にやってきた冒険者の一行が、村の者から海の主の話を聞いてな。村を困らせる魔物を退治してやると言って、村の男たちを連れて沖に向かったんだ。何艘もの船が沈められ、何人もの男が死んだ。激しい戦いの末、冒険者たちはついにこの海の主を討ち果たした」


村長は苦しげな顔を浮かべて語り出した。


「海の主が倒されたことを皆はじめは喜んだ。だが、この付近の生態系の頂点であった鯨が死んだことで、毒魚が寄り付くようになってしまってから海が死んでしまった。港を出て水の綺麗な沖に出ようにも、いつの間にか海賊がほれ、あの沖の島を根城にするようになりおった」


 村長が指差す水平線に、小島が見えた。


「そして仕事がなりたたない漁師たちは農夫に姿を変えたが、この痩せた土地じゃあろくに作物も作れなくてな。今では村人が満足に食うことすら難しいのだ」


「それで皆元気がないのね」


「ああ、だからお嬢ちゃん。すまないが、ここを出て行ってくれんか」


 唐突に村長は切り出した。その目には申し訳なさが滲み出ているが、真剣そのものだった。

彼が今日ルカを呼び出した本当の目的は、これを頼むためだったのだとルカは理解した。


「あんたには頼るべき人もいないことはわかった。でも、この村に余裕はないんだ」


ルカは考えた。そもそもここがどこかわからない。とにかく、何もないまま今日再び放り出されるのは避けたい。それなら方法が一つある。


「釣竿を一本貸して。他の物は何もいらない、全部自分で何とかするわ。漁師がいなくなっても昔の物が一本くらいあるでしょう。そうしたら明日にでも私は出ていくから」


「ううむ……かまわんが」


村長は怪訝そうな顔を浮かべながら倉庫の奥から古びた木箱を取り出した。その中には、かなり年季の入った釣竿が置かれていた。


「昔、オルネルという漁師が使っていた物だよ。村を追放された男だ。奴は海の主を討つことに最後まで反対していたから」


ルカは釣竿を箱から取り出して、舐めまわすように眺めた。


「延べ竿(糸を巻くリールを付けずに使うシンプルな竿)ね。だいぶ古いけど、でもしっかりした作り。それに竿のこの材質は何? 金属のようだけどすごく柔らかい……」


「ヤワイ鉄を知らんのか、加工が難しいがありふれた金属だよ」


「ふぅん」


イケる。小型の魚ならこの延べ竿で十分過ぎるほどだ。後は釣り餌の確保すれば、釣りができる。


「村長、お塩を頂戴。できるだけたくさん」


「ええ、だって今釣竿以外何もいらないって言ったじゃ」


「お塩!」


村長は、これも厄災の始まりなのかと祈りを捧げたくなる気持ちになった。

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