私、パンツで帰ります。

てこ/ひかり

私、パンツで帰ります。

時計の長針が、一番上を刺した。


午後18時ジャスト。狭いオフィスに、『終業』を知らせる乾いたチャイム音が鳴り響く。


私は少し緊張した面持ちで席を立ち、ゆっくりと一番奥に座っている課長の元へと向かった。


「課長、今よろしいでしょうか?」

「ん? どうした? 望月君」

それまで、パソコンの画面と睨めっこを続けていた課長が、疲れた顔をして私を見上げた。私は、怯まないように小さく拳を握りしめながら、震える声を絞り出した。


「私、パンツで帰ります」


言った。とうとう、言ってやった。その瞬間。オフィスはシン……と静まり返った。私のその一言がきっかけで、オフィスに残っていた数名の社員がピタリと動きを止めた。探るような皆の視線を、痛いほど背中に感じる。課長の顔は私の目を見つめたまま、まるで凍ったように固まってしまった。私は目を逸らさないように、後ろに下がってしまわないように必死にその場で足を踏ん張った。


「……何だって?」

「ですから……私、今日はパンツで帰らせていただきます」

毅然とした態度を取ったつもりだったが、私の喉は小刻みに震え、それから再びオフィスには沈黙が訪れた。私と課長は、長いこと見つめ合った。やがて課長は徐に眼鏡を外すと、重たそうに腰を上げ、私に背を向けて後ろの窓ガラスをじっと見つめ始めた。


「課長……」

「……どうしても?」

課長は私に背を向けたまま、重々しく口を開いた。私は頷いた。

「……はい。課長もご存知の通り、今年度から政府の働き方改革で」

「分かってる」

課長が小さくため息をついた。

「『健康的な日常生活のため、仕事が終わったら出来るだけパンツで帰ること』……だったか」

「昨日から速報でバンバン……」

「分かってる、分かってるよ」

課長が苦々しくそう呟き、ようやく私の方を振り返った。

「私も、何度もニュースで見た。しかしだな……いくら何でも仕事が終わったからと言ってパンツで帰ると言うのは」

「しかし、パンツで帰るのは国民の義務です」

「オイ、待ちたまえ!」

話の途中だったが、私は唐突に上着を脱ぎ始めた。周りの社員たちが、慌てて私を止めに飛んできた。


「望月君、頼むから話を聞いてくれ。我が社としても、当然社員をパンツで帰らせて上げたいのは山々なんだが」

「見てください、課長」

「?」

私は上着を放り投げ、窓ガラスの向こうに広がる道路を指差した。ビルが立ち並ぶ狭い路地の一角には、終業時刻を迎えたサラリーマンたちが、意気揚々とパンツで家路に急いでいる姿が見えた。その顔は皆いつになく爽やかで、開放的な明るさに満ちていた。


「法律で決まったことなんです。万が一ウチの会社だけ、パンツで帰ってないって分かったら……」

「……目立つだろうね、そりゃ」

課長が申し訳なさそうに俯いた。私は課長に向き直って言った。

「課長。今までにも……直接は口に出せなくても、パンツで帰れなくて、苦しんできた人たちは日本にいっぱいいるんじゃないでしょうか?」

私はもう勢いに任せて、すでに下も脱ぎかけていた。私の剣幕に押され、そばにいた社員たちも、固唾を飲んでパンツになった私を見つめていた。小さく息を吸い込み、私は不思議な開放感に包まれながら、皆を見渡して一気に捲し立てた。


「それだけじゃありません。当たり前のことですが……道を歩いているサラリーマンも学生も、みんな一人一人に、家族がいる。家で待っている人がいるんです」

「望月君……」

「一人暮らしの人にだって、友達や恋人や、趣味や生きがいや、それぞれ大切なものを抱えて必死に生きているんですよ。今は何も大切に思えないって人にだって、これから先パンツで帰り続けていればきっと大切なものと……」

「もう、いい。十分だ」


課長は降参だ、とでも言うように弱々しく両手を上げた。


「パンツで帰りたまえ。私が許可する」

「課長!?」

「良いんですか……!?」

オフィスが急に騒がしくなった。社員たちが戸惑ったように顔を見合わせた。課長は徐に上着を脱ぎ始め、私たちをジロリと見渡した。

「構わん。君たちも、さっさと帰りなさい。もちろんパンツでな」

「課長……!!」


やがて課長は下も脱ぎ、とうとう自らもパンツスタイルになった。

いや……パンツになったと言うより、そもそも『終業』のチャイムが鳴ったその瞬間から、私たちはすでにパンツだったのだ。今までパンツで帰らない方が、どうかしていたのだ。


しばらくして他の社員たちも、恐る恐る、パンツで帰る準備を始めた。

最初は戸惑いを見せていた彼らも、オフィスを出る頃には、不思議と明るい笑顔を見せてくれた。


良かった。

勇気を出して、パンツで帰ろうって言って良かった。

私は、パンツで帰る仲間たちの背中を見つめながら、ようやく胸を撫で下ろした。


怖かった。


本当はパンツになった瞬間、ずっと震えていた。


皆がパンツで帰ってくれるか、ずっと不安だった。パンツで帰るのは、私にとってもすごく勇気のいることだったのだ。だけどこうして、みんなが、大勢の人がパンツで帰ってくれている。それを思うだけで、私は涙が溢れそうになった。


決めた。

私は明日も、パンツで帰ろう。

もちろん毎日は無理かもしれない。

だけど出来るだけ、これからも私はパンツで帰ろう。


そう決心し、私は軽くなった足取りで、早々と家路へと急ぐのだった。











※お詫びと訂正


作中に出てきた『パンツ』という単語は、正しくは『定時』でした。大変失礼致しました。

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私、パンツで帰ります。 てこ/ひかり @light317

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