豪雨後
駄文職人
第1話
私は足を踏み出した。
「大丈夫だよ。ぼくがそばにいる」
後ろから声が私の背にかけられる。
ここは四階建て校舎の屋上である。
雨上がりの空を映した水たまりを踏むと、空が私の足元で揺れた。
水たまりの向こうにはフェンスもなく、グラウンドを走る陸上部員達がよく見えた。
「見つからないの。生きている意味が」
頬に冷たいものが伝った。
「そんなもの、見つかるわけないだろう?」
「希望や夢はどこにあるの?」
「君は気付かないだけさ。いつもすぐそばに道はある」
「逃げたくても逃げられない」
「恐れなくていい。そうしたって誰も責めやしない」
「重くて、息苦しくて、仕方がないの。肩の荷を全て下ろしてしまえれば気が楽なのに」
「君はよくがんばったよ。ぼくが保証しよう」
「ねえ、私はもう、がんばらなくていい?」
肩越しに尋ねると、彼が深く頷くのが確かに見えた。
私は、恐らく彼のような救いの手を待っていたのだと思う。
「あなたも、私が死ねばいいと思う?」
「馬鹿なことを言うもんじゃない」
「私を止める?」
「そのためにここに来た」
「私、私は……本当は、飛び降りに来たの。今日はとてもいい天気だから」
先ほどまでのどしゃ降りの雨など忘れてしまったように。
今はとても空が青い。
「君が本当にやりたいことは、そんな事じゃないだろ?」
彼は見透かすように私に問う。
「私は……」
「君には無理だ。諦めろ」
「ねえ、どうすればいい?どうするのが正解だった?」
他にどうしようもなくて私はみっともなく縋る。
「私は、幸せになりたかっただけ」
それだけだ。
ただ、普通に生きたかった。
「私は一人になりたかったんじゃない。みんなが私を一人にしたの。みんなが私をみじめにしたのよ。私が望んだんじゃない」
「そりゃあそうだろうさ」
「みんなは私の不幸を望んだ。笑ったわ。ただ、自分が孤独を感じたくないってそれだけのために」
「そんなのあまりに身勝手だ」
「私だって愛されたかったよ」
そう思ってしまったのは、罪だったのか。
「思っちゃったの。生贄は、私じゃなくてもよかったじゃないって」
醜い感情が、どろりとあふれだす。
「どうして私だったの。どうして」
「意味なんてないんだよ。考えたって無駄さ」
「あの子達、私に言ったわ。あなたなんで生きてるの?って。分かんないよ。考えたことない」
答えは出ない。
疑問はずっと袋小路に入ったまま。
「なんで私だけ切り捨てられなきゃいけないの?みんな、大嫌い。死んじゃえばいい」
思考はとうに放棄した。
私は顔を覆う。
「もう、いやだ」
醜い感情と言葉ばかり垂れ流す自分へ。
私を愛してくれない世界へ。
私の心が泣き叫ぶ。
「受け入れればいい。君の本当の気持ちを」
私は、彼の優しい微笑みを確かに見た。
輪郭があるようで、まるでピントが合わないみたいにぼやけた、それが彼だった。
「ああ。そうすれば、君を助けてあげよう」
「私、もう死にたいの」
「そんなこと簡単に言うものじゃない」
「私のこと、許してくれる?」
「当たり前だろう?」
「私のこと、分かってくれる人なんていないと思ってた」
彼はそこにいた。
もはや私は一人ではなかった。
私は顔を背けるように後ろを向いた。
夕日は私には明るすぎる。目に刺さって痛い。
「それでも、たぶん、私はひとりぼっちに変わりはない」
人あらざる者の声なのか。
私の心の闇が呼び込んだ幻か。
その時、彼の声は私の頭の中によく響いた。
「ぼくはいつだって君のそばにいる」
やがて最終下校の十分前のチャイムが鳴った。
にわかにグラウンドの陸上部たちの動きが騒がしくなる。
周囲を見渡しても屋上にはもう誰もいなかった。
私は正面の赤く染まった校舎を見下ろす。
「まるで窮屈。中に爪も切っていない獣を押し込んで、仲良くしてろなんて無茶ばかり」
吐き捨てる。
きっと関心もないもないのだろう。傷を負った者のことなどかえりみもしないで。
「私、嫌い。この学校」
後ろの薄汚れた校舎の壁に、表面の錆びた鉄扉がくっついている。よく似たのを動物園の檻の向こうで見た気がした。
深呼吸し、淀んだ空気を吐き出す。
私は重い足取りで屋上の扉をくぐった。
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豪雨後 駄文職人 @dabun17
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