第15話。時雨と偽心
「……」
ボクが目を覚ました時、近くに
ここは保健室だ。いつも夢を見るはずの睡眠中の時間はボクに何も与えなかった。世界はボクが現実から目を背けることすら許してくれなかった。
「
最悪な気分だった。
ボクは自分の顔に触れて確かめる。そこにあるのは自分の顔のはずなのに、別の誰かの顔を触っているような感覚に陥ってしまう。
「時雨。時雨は時雨だよ」
姫織の手がボクの顔に触れてくる。
「どうして。わかるの?」
「私は人の顔が見えないけど、時雨の顔だけはわかる。記憶の中の顔も全部わからないから。私が知ってるのは時雨の顔だけ。だから、私が時雨のことを証明してあげられる」
ボクは姫織の手を握った。
「姫織は椿綺に質問をされた時に迷ってたよね。ボクを助けるべきか、どうか」
「あれは違うくて……私みたいな人間の助けを時雨が必要としてくれるか、わからなかったから……」
もしも、椿綺の口から真実を聞かされる前のボクだったら。姫織が差し伸べた手なんて掴んだりはしなかった。
「
きっと、椿綺から貰った薬の効果は匂いの呪いを抑える為のものだった。でないと、ボクが姫織の呪いに共感するなんて出来事には遭わなかったはずだ。
「結局、ボクは何も変わらない……」
ボクは他人の影響を受けやすい体質だった。
そんな事実を今さら聞かされても、納得なんて出来ないし、初めにボクが選んだ選択が間違いでなかったことも証明されてしまった。
眠れるかわからないけど、目を閉じた。椿綺なら眠っていても起こしてくれるだろうし、姫織の顔を見ていると、また同じ顔を見てしまいそうだったから。
「時雨。昔話をしてもいい?」
「勝手にすれば……」
姫織と口喧嘩する気力も無かった。
「時雨は
「勘違い……」
「確かに東雲という名前を持って生まれた人間の多くは天才と呼ばれる存在だった。ただ、一部が突出しているだけで、その子孫達全員に才能が遺伝したわけじゃないの」
ボクは姫織の話が名前を否定するものではないと感じてしまった。姫織が現実と記憶の認識を歪めている能力は間違いなく、生まれながら備わったものだと思うから。
ただ、それが天才の為の能力と言われたら違う気もする。姫織は不運にも違った方向に能力が開花してしまったとボクは考えた。
「私は無能力者。あれ、この言い方は少し変かな……まあ、私は凡人として、普通に生きることしか出来なかった」
これから聞かされる話には予想がついた。
「そんな時、東雲の名前を持った人間が大きな事件を起こした。当然、世間は他にも同じ名前を持つ人間達を排除するようなことはせず、東雲であることは触れようとはしなかった」
誰かが言ってた。例え他人であっても、自分と同じ名前を持った人間が事件を起こせば、無関係であっても気にしてしまうって。
「でも、私の周りは違った。東雲という名前に強い不信感を抱いていた人間が事件をキッカケに他人を攻撃する理由を手に入れてしまった」
「それで、いじめられた……?」
「本当にいじめだったか、今でもわからない。でも、みんな楽しそうに笑っていた。と思う。いくつもの笑い声が今でも頭の中に残ってるから」
認識が歪む程の出来事。姫織の才能が悪い方向に作用したのもあると思うけど、姫織と共感したボクにならわかる。
あれは人間が味わうものじゃない。
「私、高校生になって、初めて登校した時。教室まで辿り着けなかった。でも、そんな時、他の学校から来てた鳳仙先生に声をかけられたの」
妙に姫織が椿綺に懐いていたとは思ったけど、そんな理由があったとは知らなかった。
「鳳仙先生に初めて会った時に言われた。顔が見えないのか?って」
「ボク……今さら椿綺のことが怖くなってきた……」
保健室の先生をやってるくらいだから、その辺が慣れているだけとは思うけど。人の本質を見抜くのはボクの母親なんかと同じだと思った。
「私は先生に救われた。でも、ずっと鳳仙先生の顔を見ることが出来なかった。それは、たぶん……私が鳳仙先生のことを本気で信じることが出来なかったから……」
今になってわかった。何故、姫織が過去の話をしているのか。それはボクに聞かせるべき話だと姫織が判断したからだ。
「それから、鳳仙先生がこっちの学校に来て。以前と変わらず私のことを助けてくれた。でも、私の症状は一向に改善されなくて、心のどこかでは諦めていた」
過去のトラウマが簡単に消せるものだと思わない。
「なのに……時雨の顔だけは見ることが出来た」
「どうして、ボクの顔が……?」
ずっと聞こえていた姫織の言葉が返ってこない。
目を開けて、姫織の顔を確かめる。すると、そこにあった姫織の顔が少し赤くなってる気がした。
「時雨に嫉妬したからだと思う」
「嫉妬……?」
「私、鳳仙先生と誰かが仲良さそうに話してるところを聞いたから。相手の顔を確認する為にカーテンの隙間から外を確かめた」
それがボクと姫織が初めて話した日だろうか。
「その時、時雨の顔がハッキリと見えた」
もし、誰の顔も見えなくて、たった一人の人間だけが見えたとしたら。ボクは運命のようなものを感じると思った。
「……もしかして、姫織がボクに付きまとってたのって、それが理由?」
姫織の手がボクの体に触れてきた。
「何も見えない真っ暗な世界で明かりを見つけたら。人はそれにすがりたくなると思う。私にとって、時雨の存在は地獄に伸びてきた一本の糸みたいなものだった」
自分が嫉妬するような相手にすがらないといけない気持ちなんてボクにはわからない。でも、そうしないと自分が壊れてしまうのだと、そんな気がした。
「でも、私は時雨にちゃんと言うべきだと思った」
姫織の顔がボクには見える。
その時の姫織は優しい笑顔をしていた。
「私と友達になってください」
思い返せば、ボクと姫織の関係は椿綺によって作られた偽りの関係だった。そこに友情なんてものはなくて、面と向き合って喧嘩をしないのも友達でもなんでもないから。
姫織はボクの顔が見えるから友達になりたいだけだと思った。でも、友達なんてものは自分と合う人間を選ぶものだと思った。
それに姫織のことを拒絶する自分の心が本物なのかもわからない。だから、断る気力も湧いてこなかった。
「いいよ」
返事をすると、姫織が少し離れた。
「私、時雨の友達だから。時雨の抱えている問題も解決したい」
「それは無理だよ……」
ボクの共感は生きる時間が長くなるほど、自分の心を蝕む毒みたいに作用する。それに既に姫織の呪いとは別に根付いている誰かさんの残した最悪な呪いが今も残っている。
新しい薬を貰っても、どれだけ抑えられるかわからない。姫織に協力してもらったとしても、問題が解決出来るとは限らなかった。
「大丈夫。私がなんとかするから」
「なんとかって……」
「私には出来るよ。だって私は東雲の人間だから」
「……っ」
姫織がもっとも否定したいはずの言葉を口にした。それは姫織の能力を証明するものであり、ボクを信頼させる為に有効なものだ。
ボクのことを姫織は本気で助けようとしている。
「姫織って……極端だよ」
「知ってる」
その時、ボクは初めて姫織の笑顔を見た。
今まで目にした姫織の笑顔は偽物。他人に向ける作り物だったのに。今だけはボクに本物の笑顔を見せている。
「時雨?少し、顔が赤いよ?」
「なんでもない……」
まだこの感情に名前を付けたくなかった。もしも、この感情がボクのものでないと知った時に辛い思いをするから。
だから、今は胸の奥に秘めておくことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます