第16話。時雨と崩壊
時間の流れを止めることは誰にも出来ない。
どれだけ後悔しても、どれだけ悩んでも。ボクの心に一度宿った感情は抑えられない。
「どうして……」
ボクが感情的になるほど、抑えていた呪いが強くなる感覚があった。
夕暮れに染った世界。
ひたすらボクが走ったのは、今にも溢れ出しそうな感情を抑える為。今までよりも強い衝動に駆られているのは、ずっと薬を飲んで呪いを抑えつけていた反動だと思った。
でも、段々と薬を飲む量が増えてからは貰っている分だけじゃ足りなくなっていた。また椿綺に新しい薬を貰わないと、ボクの呪いが抑えられなくなる。
「……っ」
それは無意識だった。
気づけばボクは橋の真ん中に立っていた。もしも、そのまま渡りきっていたら、その先にあるのは椿綺の家だった。
柚子から逃げたはずなのにボクは
地面が揺れてる。世界が揺らいでる。全部、心の衝動に任せれば、ボクは苦しまなくて済む。なのに口から胃袋の中身を吐き出したのは、抵抗の証だったのだろうか。
「はぁはぁ……」
いつもと違う薬。見覚えの無い溶けかけの薬が地面にぶちまけられた。きっとそれは家にあった色々な薬。ボクはわけもわからず、すべての薬を飲んでいた。
「どうして……ボクは……」
その吐き出された薬に手を伸ばそうとした時、薬は視界外から現れた靴に踏みつけられた。それが憎くて、ボクは目の前の脚に掴みかかった。
「今の
「お姉……」
顔を上げると、柚子がボクを見下ろしていた。
柚子はいつも通りの無邪気な笑顔をボクに向けている。全部わかっているはずなのに、どうしてそんな顔が出来るのだろう。
「時雨なら、私は受け入れられるよ」
「うるさい!」
違う。そんなことを言ってほしいわけじゃない。
「それとも、また喧嘩する?」
今、喧嘩を始めたら、本気で柚子のことを殺してしまう気がした。誰もボク達を止める人間がいない状況で自分を抑えられるかわからない。
ボクは体を動かして、柚子の体にすがりついた。
「お姉……もう、やだよ……」
心と体がバラバラになる感覚。頭の中は否定しているのにボクの体は柚子の存在を求めている。どちらが本当の自分の意思なのか、頭の中がぐちゃぐちゃになって、わからなくなる。
「全部、お兄ちゃんが悪いんだよ」
柚子がボクの頭を撫でてくる。
「私は今でもお兄ちゃんを許してない」
ボクと柚子は過去に兄から性的虐待を受けた。
当時のボク達はそれが悪いことだと思わなかった。だけど、心と体が成長するほど、兄のやったことが取り返しのつかないことだったと理解した。
兄がボク達の前から去ったのは、今のボクと同じように他人から強い匂いを感じたから。兄はボクや柚子に手を出さない為にも家を出て行った。
そんな誰にも言えない過去をボクは不幸だと言うつもりはなかった。まだ子供だったボクと柚子は理解が足りずに兄を苦しめ追い詰めた。
兄は一人で苦しみながら、悩んで、ちゃんと答えを出したというのに。心の弱いボクは多くの人間に迷惑をかけるだけで、兄のように抗うことが出来なかった。
「ボクはお姉に嫌われたくない」
ボクの呪いは兄から受け継いだもの。そんな風に考えられたら、ボクは苦しまずに済んだ。でも、全部都合のいい言い訳だってことくらい、わかっている。
「時雨。どうしよっか」
ボクも柚子も答えなんて出せなかった。
だけど、この場所は違う。ここはボクが一度、答えを見つけた場所。永遠とすら思える人生に早々に見切りをつけて、ボクが自らの命を絶つことを選択した場所。
あの時のボクはまだ共感の呪いを受けてはいなかった。それでも、予感はあったのかもしれない。いずれ兄と同じ道を自分が歩いて行くような、そんな予感。
「お姉。お願いがあるんだけど」
今、ボクの頭の中は酷く冷静だった。
「ボクは今から自殺する」
それでは過去の自分の選択と同じ。
「だから、一緒に死んでほしい」
今度の選択は柚子と一緒に自殺をすること。
「私は時雨の分まで生きるって言ったよ」
「死んだらそれで終わりだよ。その先にボクの人生なんて残ってないし、お姉が背負うものなんて何もない」
それにボクの人生を背負うというなら、一緒に終わらせてしまえば。結局、そんなどうでもいいこと気にしなくても済むのだから。
「じゃあ、私にキスしてよ」
「……っ」
柚子の言葉で一瞬、柚子の唇に視線が向いてしまった。でも、すぐに考えを振り払ったのは柚子の言葉が単純な戯言でないとわかるから。
「もし、私にキスしてくれたら。一緒に死ぬよ」
ボクは柚子に試されているとわかった。
それをやれば、過去に兄が柚子に対してやったことと同じ。柚子がボクに向ける信頼のすべてを否定する為の最低な行動だった。
「わかった」
どうせ、死ぬなら気にする必要なんてない。
ボクは柚子に顔を近づけた。
「……」
でも、寸前のところで唇をくっつけることが出来なかった。今のボクは柚子から何も匂いを感じることが出来ず、強い衝動も無かった。
「時雨、どうしたの?」
ボクは自分の意思で選択する。
「お姉のバカ!」
「痛っ!」
ボクは柚子の顔に頭突きした。柚子は頭を押さえて、その場にしゃがみこむ。手加減なんて出来ず本気でやってしまった。
「なんで、ボクがお姉とキスしないといけないの?普通に気持ち悪いでしょ」
「よくも……やってくれたな!」
柚子が立ち上がり、ボクのあごに頭突きを仕返ししてきた。それをギリギリで避けると、そのまま柚子に押し倒された。
「なんで、お姉はいつも!どうでもいいことにこだわるの!」
「どうでもよくない!」
ボクと柚子は掴み合いの喧嘩を始める。
「大好きな弟に死んでほしいお姉ちゃんがいるわけないじゃんか!」
「……っ」
やっぱり、柚子はボクにキスをさせようとしたのはボクのことを嫌いになる為。そんなのバカバカしいのに。ボクの願いを本気で叶えようとする気持ちが伝わってくる。
「……お姉。好きだよ」
もっと、早く柚子の心に触れていたら、ボクは思いとどまっていたかもしれない。ボクの考えを理解したのか、柚子はすべてを諦めたような顔をする。
「時雨。一緒に地獄に落ちようか」
「……お姉。ボクはこうなることを夢に見た気がする」
柚子は腕に巻いていた赤いミサンガをボクの腕と結んだ。無駄に大きくて、プレゼントした時は失敗したと思っていた。でも、こういう使い方が出来るなら、あの時の失敗は無かったことにしてもいいと思えた。
「バンジージャンプみたいだね」
「お姉、最後くらい馬鹿なフリするのやめなよ」
「……私はずっと馬鹿だよ」
二人で乗り越えた。高欄の向こう側に並んで立った時。山の向こうに太陽が沈む姿が見えて、まるで命の灯火が消えていくように見えた。
「時雨。来世はいい人生にしようね」
「来世なんてないよ。ボク達はこれで終わり」
ボクと柚子の片足が宙に浮いた。下を見なければ恐怖はなかった。だけど、ボクの手と繋がれた柚子の手から純粋な感情が嫌なほど伝わってくる。
死ぬのは怖い。わかってる。
だから、ボクは選択をした。
「お姉。さよなら」
ボクと柚子の腕に結ばれた紐は柵に引っ掛ければ簡単に引きちぎることが出来た。そして、ボクは柚子の手を離して、一人で向こう側に飛んだ。
「時雨!」
下に落ちていく時。柚子の叫び声が聞こえた気がする。でも、次の瞬間には激しい衝撃で意識が大きく揺らいだ。
水の中。手のひらに感じていた熱が急速に冷めていく気がした。落下の衝撃を味わい、それでも意識があったのは奇跡だったのか。
でも、そんな奇跡もすぐに終わる。
ボクは一人で死ぬことを選んだ。
だから、もう何も考えなくて済むから。
おやすみなさい。
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