第7話 小さなあたたかさと小さな不安

 まだ登校して来る生徒がいる中、それに逆行するようにして崇範は学校を出た。

 行く当てなどはない。ただ、習慣に従って歩いているうちに駅に着いてしまい、今はまだラッシュで混んでいるので、すくまでしばらく待とうと思って、駅前のベンチに座った。

 人混みの中に入りたくない。吐き気がしそうだった。

 ふと、パタパタという足音が近付いて来て、そばで止まった。

 それに何となく顔を向け、崇範は、息を切らしている美雪を見付けた。

「東風さん。授業始まるよ」

 美雪は、いつも通りの穏やかな笑顔を浮かべる崇範に、泣きそうな顔を返す。

「深海君……」

「同情も好奇心も飽きたよ。かわいそうとか言うつもりならやめてくれるかな」

 美雪は近付いて来ると、ためらうように、そっと崇範の頭に手を乗せた。

「え?」

「一緒にいたいだけ」

 そして、頭を抱え込む。

「え!?東風さん!?」

「……」

「東風、さん……」

 腕を外そうともがく崇範を美雪は抑え込むように、ジッと頭を抱え込む。

 やがて崇範が静かになると、小さな声で言った。

「誰も見てないよ。誰にも見えないよ」

 美雪の腕の中で、頭がピクリを揺れた。

「笑わなくてもいいよ」

 崇範は声を立てずに肩を揺らし、足元にぽつんと水滴が落ちた。


 カサカサと音を立てて、枯れ葉が風に吹かれて行く。

 冷たい風が吹きつけ、舌を焼くように熱いココアをあっという間に冷ます。

 少し後、冷静になって崇範が顔を上げると、今度はお互いに恥ずかしくて目を合わせられなかった。なので、並んで前を向いたまま、ココアを啜っていた。

「突然警察から電話があって、父が殺されたと知らされた日から、僕の家は壊れたんだ。犯人は目撃者も防犯カメラの映像もあってすぐに捕まったけど、中学生と高校生のグループで、実名報道とかはされなかった。

 その分、メディアは被害者遺族に向くものらしくてね。毎日付きまとわれて、家の前にも報道陣が並んでて。それからネットでも、ある事無い事書かれて、とうとう母は、幸せしかなかった頃に戻ってしまったんだ。父と出会う頃に。

 僕が行っても、誰だかわからないんだ。高校2年生のままだから、結婚もしていないし、子供だっていない。僕はどこにもいなくなって、消えてしまったんだ。

 犯人達の事は、年齢以外は教えてもらえなかった。矯正施設を出た事すらも、再犯を犯して逮捕されてから初めて知ったよ。

 知りたいと思った。それができないなら、せめて、そっとしておいて欲しかった。同情も好奇心もいらない。ただただ、皆の中に紛れたい」

 崇範は低体温くらいの人肌になったココアを飲み干し、空になった缶を持て余すように両手で包んだ。

 美雪はそっと崇範の方を見、崇範が気配にこちらを見そうになって、慌ててココアに目を落とした。チビチビと飲んで、こちらも空だ。

 それを崇範は抜き取ると、2本まとめてゴミ箱に捨てた。

「東風さんには、色々とバレたね」

 振り返って崇範が苦笑した。

「これからどうするの?」

「今日はもうさぼる。バイトは夕方からだし、病院に行こうかな。洗濯物を交換しに」

「明日は学校に来る?学校辞めない?」

「うん。事務所の社長は、体操のコーチのお兄さんなんだ。バイトをするにあたっての約束が、ちゃんと高校は卒業する事なんだよ。僕にできる唯一のバイトだしね。クビになるわけにはいかないな」

 崇範はフワッと笑い、つられて美雪も笑った。

「私もバイトしようかしら」

「こう言っちゃなんだけど、東風さん、運動神経良くないよね」

「あ、言ってはいけない本当の事を!」

 美雪は軽く怒って叩く真似をし、崇範は声を上げて笑った。

「東風さんは、これから学校に行く?4限目くらいには間に合うよ」

「さぼっちゃう。

 ねえ。一緒にいたらだめ?」

 一世一代の勇気を振り絞って言ってみる。

「いいけど、つまらないよ」

「これで言質は取ったわ」

「え?」

 崇範は何か不味い事を言ったかと思い返した。

 美雪は真っ赤になりながら、上目遣いに崇範を見、鞄からごそごそと赤いリボンのかかった茶色い小箱を取り出した。

「受け取ってください」

「何?」

「バレンタインデーなんだから、わかるでしょ」

「……今日はそうだっけ?ああ、ありがとう」

 受け取ると、冷え切った手をつないできた。

 流石の崇範も、わかった。

「え、そういう意味?」

 中学時代はファンだという女の子には貰っていたし、友チョコとか義理チョコとかだと思っていたのだ。そうでないなら、重さが違う。

「……だめ?」

「いや、東風さんこそ。僕が迷惑をかけそうだけど……」

 お互いに真っ赤になりながら手をつないで俯く2人を、すれ違う通行人が「ケッ」と、あるいは微笑ましく眺めて行く。

 それでそのまま、病院に向かう。

「東風さんって、思ってたのとイメージが違うなあ。おっとりとして素直でどんくさい子と思ってた」

「うっ。恋の前には、どんくさくても素直でもおっとりしてても、戦略家になるのよ、女の子は」

 朝にはあんなに絶望していたのに、今は心が、つないだ手が、とても暖かかった。その時は――。


 病室に美雪を連れて入るのはためらわれ、崇範だけが入った。

「和泉さん」

「あら。この匂い……チョコレート?」

 彩菜が、小首を傾げる。

「バレンタインデーだからって、その、クラスメイトにもらったんだ」

「まあ。誰かしら」

 居合わせた看護師も、にこにことして返事を待っている。

「東風美雪さんっていう子」

 彩菜は、少し笑顔を引っ込めた。

「東風さん?東風重工の?」

「そう、社長の子。知ってるの?学校一の美少女なお嬢様とか言われてるのに、どんくさくて、素直で優しい子だよ」

 彩菜は、顔色を変えた。

「東風、東風重工、東風。ああ……!」

「母さん?」

 看護師も崇範も、突然様子が変わった彩菜に驚いた。

「だめよ!東風はだめ!絶対に許さない!」

「母さん?」

「深海――和泉さん、落ち着いて下さいね。大丈夫ですよ」

「絶対にだめよ!東風のせいであの人は――あああ!」

 叫んで、暴れ出す。

 看護師はナースコールを押し、崇範は外に出ているように言われ、不安を抱えて待った後に、今日は帰るようにと言われた。

 チリチリと、不安と嫌な予感がした。

 




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