第6話 怪文書
崇範は保健室に連れて行かれ、掌に擦り傷ができた以外はケガがないと確認されると、今度は一転して不注意を叱られた。
足を払われ、手を払われたような気がしたのだが、証拠もないし、黙っておく事にした。なので、大人しく説教される。
解放されたら、保健室の前の廊下に、美雪が待っていた。
「深海君!大丈夫なの?」
心配そうな声で問いかける。
「大丈夫。ありがとう」
「忍者よりも難しかった?」
「そうだね。距離も高さも――あ」
「あ!?」
お互いに驚きの表情で見つめ合う。
美雪は、もう間違いないと確信していたのでポロッと言ってしまったのだが、意外にも崇範が認めるような返事をしたので驚いていた。
崇範は、やはり実生活でこんな危ない事をする羽目になって動揺していたのだろうか。ついうっかりと認めるような返事を返してしまい、驚いていた。
「ええっと、東風さん」
「はい!」
「バイトの事は、黙っててもらえないかな」
「いいけど、どうして?」
キョトンとする美雪に、
「サインをもらって来てとか頼まれても困るから」
と言う。
目立ちたくないだと、自意識過剰と思われそうな気がしたのだ。
「わかったわ!秘密ね」
美雪は、いたずらっぽく笑った。
そんな2人に、その人物が近付いた。スーツを着た中年男性だ。
「深海君?深海崇範君だよね?」
弾かれた様に崇範がそちらを見た。
「やっぱり。久しぶりだねえ」
男は、痛みをこらえるような目で笑った。
「あの?」
美雪は、男と崇範を見比べた。
「私は今日のサッカーの試合を取材に来た記者です。ジュニアユース候補の選手が出るとかで。スポーツ部に移動になる前は、社会部で少年犯罪を担当していたんですけどね」
「社会部の少年犯罪担当ですか」
美雪はそっと、強張ったような顔付きの崇範を見た。
「お話しする事はありませんから。存分にサッカー部の取材をして下さい。失礼します」
崇範は一息にそう言うと、返事も待たずにそこを離れた。
美雪も後を追う。
「こんな所で会うなんてなあ。まあ、元気そうで良かった。彼女かな、あれは」
そう言いながら崇範と美雪を見送る。
それを、離れたところで見ている者がいた。堂上だ。
「少年犯罪?深海、何かやったのか?」
弱点の予感に、堂上は嗤った。
今日はバイトが無いので、崇範は病院に行った。
「和泉さん。着替え、置いておくから」
「どうもご親切に。
ねえ、どう思う?春から3年生なの。進路、どうしようかしら」
彩菜は、今日も変わらない。
そして、言うだけ言うと、窓の外に目を向ける。
「母さん」
「……」
「今日、4階の窓から落ちたんだ」
「……」
「落とされたみたいだよ」
「……」
「ねえ、母さん。母さんってば」
「……」
いつまでこんな日が続くのだろう。僕はどこに行ってしまったのだろう。ずっと心が高校2年生のままの母は、もうすぐ僕よりも年下になってしまう。
どうしてこうなったのだろう。何が原因だったのか。
「母さん!」
「……」
いくら呼んでも、母は帰って来ない。
翌朝、崇範は登校して、周囲の視線に戸惑った。
昨日の落下事故が原因ではない。それならこんな、痛みと好奇心とが混ざったような目はしていない。
それで、思い出した。あの時の目にそっくりだ、と。
「あ、深海君」
気まずそうな顔をして、クラスメイトの1人が、新聞や週刊誌の記事をコピーしたらしい紙を隠そうとした。しかし、手に持ったそれを一瞥しただけで、見出しが嫌でも目に入る。
曰く、『またも少年の凶行』『中高生が5人で男性を滅多打ち』『被害男性の息子は日本体操界の将来の柱』『妻は心を殺され、子供は未来を諦めた』『僅か1年で出所してすぐに殺人』『少年法はこれでいいのか』。
それ以上は読む気も起きない。目をそらし、回れ右をして教室を出た。
「あ、深海君!」
登校して来た美雪が崇範に声をかけるが、崇範はいつもの笑顔を浮かべて
「早退するよ」
と、脇をすり抜けた。
「え?深海君?」
美雪は、戸惑いながら教室へ行った。今日はバレンタインデーなのでチョコレートを崇範に渡そうとシミュレーションをしていたというのに。
教室では、コピー用紙を前に皆が話していた。
「被害者の家族でしょ」
「体操の日本ジュニアで有名な選手だったんだって」
「お母さん、精神科に入院してるんだろ?気の毒に」
「お父さん、特許を盗まれて会社が潰れたんだってさ」
「犯人酷いよね」
「深海のお婆さんが慰謝料を民事で請求したらしいぞ」
「犯人にお金で償えって言うの?」
「だって、仕方ないじゃない。遺族は生きて行かなきゃいけないんだし、お母さんがそんなんじゃお金だって」
「慰謝料を取ったにしては、深海って金持ちって感じじゃないよな」
好きな事を言っている。
美雪は、呆然とした。
「何を言ってるの?」
「あ、美雪」
友人が、コピーを渡す。
「学校中にこれが置いてあったのよ」
ザッと呼んで行くだけで、体が震えた。
「かわいそうに。お父さんが殺されて、お母さんが入院して、お婆さんも去年亡くなって、自分も体操を諦めたのね」
「こいつら酷すぎ。深海がかわいそう」
美雪はショックを受けたようにそれらの会話を聞いていた。
「そりゃあ深海は被害者側だけど、親の命を慰謝料に変えるってどうなんだよなあ」
堂上が薄笑いを浮かべて言う。
その堂上を、取り巻きが恐ろしいものを見るように、上目遣いで見ていた。
「そういう取り方は……」
「死んだ父親が子煩悩だったのは、自分の父親が愛人の家に入り浸って家庭を顧みない人だったからだとか。
他には、母親は若い頃にレイプの被害に遭って精神科に通院してたとか」
「そんなの、事件に関係ないわ!」
「でも、事件をきっかけに分かった事だよ、東風さん。深海の家がどんな家か」
堂上の気の毒そうな顔の下から、隠しきれない悪意混じりの薄笑いと好奇心が覗いている。
クラスメイト達は、戸惑ったような顔をしていたり、義憤を感じたりという表情を各々浮かべ、コピー用紙に目を落として記事を読んだり、隣の者と意見を交換したりしていた。
「だ、だからって、どうして被害者側のプライバシーを暴くの。どうして深海君が悪く言われるの」
美雪はわかった。崇範は、目立たないように振る舞っていたのだと。こういう視線が煩わしくて。
そしてたまらず、踵を返した。
重い空気が教室に残る中、ある生徒が堂上とその取り巻きに観察するような目を向け、
「それにしても、今日だけは特に早い登校だね、堂上も草本も田中も。それに、記事の中身を暗記する程読み込んでるんだね」
と言った。
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