老いと命
@Yomuhima
第1話
若い頃、妻は僕に言った。
お姫様抱っこされてパリッとした白いシーツのきれいなベッドに、運ばれてみたい。
彼女はどちらかと言えば男勝りで重い物も平気で持つし自分以外の女性に対して王子の様に紳士に接するタイプで、まさかそのような願望があると思わず驚いた。
男にしては華奢な僕と女にしては筋肉質な妻の体格は少ししか差がなく、苦笑いでマッチョになるまで待っててねと笑って答えたら、私が痩せないと無理だと知ってるから言ってみただけ、と返された。自分で振った話のくせに彼女も苦笑いだった。
あれからずいぶん経った。定年を少し前に妻が倒れた。
消毒液の香りがする糊の効いたシーツは固くひんやりとしている
。
僕より早く突然老いた妻は軽く小さくなった、老いた僕でさえ運べる程に。ダイエットなんて成功させなくても良かったんだよ。僕はこれからジムに通ってマッチョになる予定だっんだから。
返事はない。瞳だけは黒々とした目と視線は合わない。
ベッドと背中の間に手を入れて上体を起こす。背を滑る掌に固い骨の感触は在るのに驚くほど低い体温で暖かさは感じない。
良かったね退院だよ。多分もう病院には来なく良いって。良かったね退院出来るね。
パジャマの上に丈の長いカーディガンを羽織らせてそっと持ち上げる。
スーパーで買える大きい方の米袋程の重さを腕に感じる。
用意した車椅子を前に少し考えて、そのまま病室を出た。
荷物は先に運び出した。ナースステイションに挨拶もした。入院費の支払いもした。日に一度近くの個人病院から様子見と点滴を打ちに来てくれる手配もした。
あとは妻と二人で家に帰るだけ。
まだらに白く艶の無い髪に頤をそっと寄せる。洗髪してないのに枯れ葉の様にかさついている。風呂にながく入ってない妻の体臭は以外にも臭くなく懐かしい香りがした。
お姫様抱っこだよ。願いは叶ったかな。
君は僕と一緒に生きて楽しかったかい、僕は上々だと思ってる。
駐車場の守衛さんが僕らを見て、寄ってきて我が家のボロ車のドアをあけてくれた。
スマートキーはついてるけど、両手がふさがってたから助かったよと、軽口を叩けば、車椅子ありませんでしたか?と聞かれた。
妻をお姫様抱っこするのが夢だったんだですよと答えたら。若い彼は苦笑いしてほどほどに、と言い残して持ち場に戻った。
助手席の妻はぼんやりと視線を投げている、僕もぼんやりと空を眺めて、桜が咲いている事に今年初めて気が付いた。
咲いている桜は散りかけていて、ハラハラと風に舞う花弁は美しかった。
妻と見る桜は今年で最後になるだろう。彼女と食事を共にするのはもう無理だ。喉に流動食様のパイプをあける許可を病院に出したのは過ちではないかと考えてしまう。
その時はただ生きて、生きていて欲しかった。僕の望みが彼女から声と食事を奪った。延命の為に必要な処置だったはずなのに、痩せた妻を見ると悩まずにはいれない。
少ない時間を辛気臭く過ごすのはもったいない。
笑ってさあ、帰ろうと声を出す。
車内には二人で良く聞いたあの曲が流れる。
口ずさむ君の声がききたい。声が聴けなくても目をあわせて微笑み会いたい。
倒れた君は次々に病状を悪化させた、健康が失われて、笑顔が消えた。次に自立が失われて、その次に知性が浸食された、食事と言葉を失って。ポロポロとかけて行く人間性
目の前で老いて行く伴侶。病気が進行し続けているから老人ホームや在宅介護でなく入院していられる皮肉。
入院していても付き添いする肉体的、精神的、金銭的なしんどさ。
彼女の生を心底願って、同時に死も願う罪悪感。寂しい、辛いしんどい。孤独。孤独感。そんな中でふと思い出したのは、私が痩せる迄お姫様抱っこはできないねと、苦笑いする彼女だった。
君が望むならやってみよう。少しずつ筋トレをしてもっと筋肉をつけよう。
思い出の中の未達成な約束を探そう。可能な限り二人で約束を完成させよう。君はもう、笑わないし歩かない、立たないし、喋らない、泣きも怒りもしないけど、でも、生きてる。まだ、生きてるから。
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